翼竜と猫の妖精
恋の季節、本能に飲まれずして終える事が出来たジルヴァンは安堵していた。
今年は秋の入りが遅いようで爽やかな日々が続いていた。
恋の季節も過ぎると職場ではやや冷静さを取り戻した騎士達が増えた。どこかピリピリとしていた雰囲気もなくなり、いつもの仲間たちが戻って来た事を彼は喜ばしく思った。勿論、中には恋が生まれ変わらず浮足立った者もいるが、微笑ましい限りだった。
男あまりの国があらゆる国にちょっかいを出している間は遠征の任務も多かったが、今は随分と落ち着きジルヴァンはもっぱら事務仕事にいそしむ日々が増えた。これはこれで幸いだった。ミラとの約束を守る必要があるからだ。
彼は普段、誰も入らないような古びた書庫室に行き本を借りては調べた。彼女が言っていた景色が当てはまりそうな国をリストアップし、書庫室からその国に関する本を探す。他にも他国から届いている捜索願の紙札をめくったりした。ただ、その紙札の多くは男あまりの国との戦いで命を落とした青年の名前だった。女の名前と見受けられるものは殆ど無かった。ミラの出生年以降に当たる紙札の多くは解決済みとして破棄されてしまっており、追跡が出来なかった。
ジルヴァンはいくつか国をピックアップしては、仕事の合間を縫って国に関する情報を本に書き留めた。
それを家に持ち帰り、ミラに聞こうと思ったのだ。
しかし、彼女はその紙を前にして首をかしげた。眉間に皺を寄せて何か悩んでいるようにも見える。
「ミラ?」
ジルヴァンが問いかけると彼女ははっとして、首と眉の位置を元に戻した。
「し、知らない国が多いと思って」
「そうなのか?」
「ドレの国とアルジョンテの国は海に面しているが陸続きで、交易が盛んな国だ」
「それは聞いたことがあります」
そういったやりとりが幾度か繰り返され、彼は「ん?」と思った。
知らない国が多いと言っていた割にはよく知っているではないか。花嫁候補はいろんな国から連れ去れたと言うから、出身地くらい話していたのかもしれない。不思議そうに思っているのがバレたのか、ミラはおずおずと気まずそうに口を割った。
「あの、字が……個性的過ぎて私には読めなくて」
翌日、自身の妻に言われた事をエウヘニアに話すと彼女は愉快そうに笑った。
「お前の字は恐ろしく汚いからな。真っすぐ書くこともままならない……ああ、これは真っすぐだな……しかし、綺麗ではないな。騎士の任務は剣をふるう事だけではないぞ」
自分では丁寧に書いたつもりだったが駄目だったらしい。
彼は字を書くのが大嫌いだった。特に文を書く相手もいなかったし、学生の頃に授業を受けても自分がわかれば良いとノートの字は適当だった。試験の時は気を遣って書いていたし、職務で必要な書類もそれなりに綺麗に書いているつもりだったが、他人からすれば酷く汚いのだろう。
ジルヴァンは自分のどうしようもなさに落ち込みつつも、エウヘニアに渡航計画を説明した。彼が一国一国読み上げれば、わかったように反応をしてくれた。
「お前の計画はわかった。しかしな、よく考えろ、ジルヴァン。遠くの任務に就き、長い事妻に会えない。飛んで帰る訳にもいかない。その時の手段はなんだ?手紙しかないだろう。汚い字よりも美しい字で書きたいと思わないか?」
なるほど、妻への手紙か。
ジルヴァンは今まで見えもしなかった洞窟に光が差し込んだ気がした。
遠征する任務につけば一ヶ月以上家をあけることもある。任を放ってミラに会いに行く事も出来ない。顔も見れないが、手紙のやりとりがあれば寂しさも紛れる。確かに、字は綺麗な方が良い。せっかく送ったのにミラに「汚くて読めなかった」なんて言われたくない。
「もっと現実的な事を言うぞ。これから中には通行証がなければ入国を許可しない国に行くかもしれない。その時に嘆願書を書かなくてはならないが、そんな字で書けるか?」
ぐうの音も出ない。
ジルヴァンは力なく頷いて、苦笑いを浮かべた。
「レディ・ミラに学べ。彼女は美しい字を書く」
「何故ご存じで?」
「本を貸したら、例に小さな手紙を書いてくれたのさ。綺麗な字だったぞ」
女性同士なのだから別に気にする事でもないと思うが、ジルヴァンは自分よりも先にエウヘニアが妻の手紙を受け取ったと聞いて悔しくなった。
自分はいつからこんなにも心が狭くなったのだろう?
夜、家に戻るとミラは二階の自室に居た。
ボジェナが食事の用意が出来たと言うから、呼びに行こうとすると扉の隙間から歌声が聞こえた。
メロディは聞いたことがあったが、歌詞は全く知らない国の言葉の様に聞こえた。
ミラは髪の毛を梳かしながら歌っており、こちらには気付いていない様だった。無理もない、騎士の彼は気配を消すのに長けている。
しみじみと、どこか寂しそうなメロディだったがそれは彼女の囁くような歌い方のせいなのかもしれない。美しく、彼は暫しその場で聴き入ってしまった。彼は扉の淵に体を寄せ、耳を澄ました。
「……いつからいたの?」
櫛を置いたのと同時に、彼女と鏡越しに視線が合った。
はっとしたような気まずそうな、そんな表情を浮かべている。
「歌の途中から居たのは間違いないが……あなたの生まれた国の歌なのか?」
「残念ながら違うわ。覚えてる?刺繍針を飲んだ姉さん、花嫁候補が居たって。彼女が亡くなる前日に私に歌ってくれたのよ……彼女の国の歌よ」
「どんな国だったかは教えてくれたのか?」
「エメロード島よ。あなたの書いたメモの中にあったでしょう。彼女が私の生まれた国と比較的似ていると言っていた事も思い出したの」
椅子から立ち上がったミラの表情は少しだけ悲しそうだった。
「でも、島国なんていくつもあるんでしょう。ボジェナに聞いたわ。この世界中にいっぱいあるって」
レモンのはちみつ漬けのように甘い月明りが彼女の表情を照らしている。
「ああ、沢山あるが人々の行き交いから島は絞れる……それに、俺は空を飛べるから、そう不安にならなくて良い」
後半は殆ど威勢に近いものだったが、ジルヴァンはミラに悲しい表情をしてほしくなかった。
顔は曇り、瞳には影が入っている。唇をきゅっとしめて、まるであの日のようだった。彼女が今まで着ていた洋服が燃えゆくのを眺めている時を彼は思い出した。
「調べ始めたらわかる事も多いだろうし、現にあなたは記憶の溝に沈んだものを思い出した。大丈夫だ」
「……そうね、私も調べるわ」
「一緒にエムロード島に行こうか」
「え?」
「それこそ、何か思い出せるかもしれない」
◇
マイラは驚いた。
ジルヴァンに歌っているのを聞かれているとは思わなかったからだ。それに、ここまで人の気配に気づかなくなってしまうなんて。いや、でも彼は騎士だから職業柄、気配を消すのが上手なのかもしれない。
彼女が歌っていた歌は、刺繡針を飲み込んだ姉の歌だった。
連れ去られてふさぎ込んでいた自分に一番優しくしてくれたのが彼女だった。濃い栗色の髪の毛にヘーゼルグリーンの美しい娘だった。年は十以上も上であったのは間違いない。同室で、眠れない夜も彼女が本を読んでくれたり、子守唄を歌ってくれたりした。マイラにとって優しい優しい本当に姉のような存在だった。
どんな会話をして、どんな瞬間に彼女に自身の生まれ故郷を告げたかは思い出せないが、彼女がこっそり自分の生まれを教えてくれたのを覚えている。十二年も両親に会っていないと言っていた。
彼女が亡くなったのは悲しい事だった。目覚め、廊下に出ると豊かな髪が床に散らばっていた。起こしに来た侍女が悲鳴をあげた瞬間をよく覚えている。
ジルヴァンの申し出にマイラが頷くと、翌日すぐに彼はエムロード島へ向かう船の予約を取る手配を取ってくれた。
住んでいる街から北にのぼったところにある港から週に何度か船が出ていると言う。羊の飼育が盛んな国で、翼竜の国もいくらか輸入をしているらしいのだ。
「その”姉さん”の名前は?」
「ジャシンタよ」
そう言うとジルヴァンは紙にメモを取ろうとしたが、彼はJを書いたところで手を止めた。
「どうしたの?」
「……字の書き方を教えて欲しい」
「字の書き方?」
「俺は知っての通り、字が下手だ。これからあなたの生まれた国を探すのに、中には通行証を得る必要がある。嘆願書を書くのにも字は綺麗な方が良いし、それに任務で暫く家を空ける時に手紙を送りたい。読めないなんて、意味がないだろう」
任務で家を空ける時があると、言われ彼女ははっとした。
彼の職業は騎士だ。今でこそ彼は国内にとどまり、それも本部で片付く仕事をしているが男あまりの国を尋ねた時と同じようにエウヘニアの護衛に異国へ向かう事もあるだろう。どこかの国、それも同盟国で戦いが起きれば彼も応援に参加する必要もあるかもしれない。
彼のいない日々を想像するとそれは何だか寂しいものだった。心細く、家が寒々しくなってしまいそうな気がした。では、そんな日々で彼からの手紙を受け取ったら?と想像すると気持ちはすぐに暖かくなった。ジルヴァンからの便りは読んでみたい。彼がどんな事を書くのか、知りたいと思った。
「いいわ、教える」
ジルヴァンの向かいに座り、マイラが指導すると彼はぎこちないながらもジャシンタの名前を書ききった。決して綺麗だとは言えないが、昨日見せてくれた国々の名前の一覧よりも十分マシだ。これからゆっくりね、と言うと彼は照れ臭そうに笑った。
週の半ばになると二人は家から二日かけて北にある港町に向かった。到着したその日の昼の便でエムロード島に向かった。平日であった事もあり、乗船している者の多くは商人のようだった。船で三日日、海を走り続ける。
空を見上げると船に追随するように何匹かのドラゴンが飛んでいた。ジルヴァンは本当は飛んでいきたかったらしいが、「あなたを振り落としかねない」と言われた。後にジミーから聞いた話だが、ジルヴァンはものすごく力のあるドラゴンらしく、ハイパワーで空をすすむらしい。
「でも、船には乗った事がないから嬉しいわ」
海は穏やかで荒れる事はなかった。
マイラはずっと眼前に広がる大洋を眺めていた。
住んでいる家の目の前にいる運河など比べ物にならない程雄大なそれは、どこまで続いている。
夜になると食堂の中心で楽器を持ち寄って乗客や船員たちが軽快な音楽を奏で、踊り始めた。
皆リズムに合わせて手拍子を取るものだから、何か音楽祭が始まった様に賑やかだった。
「エムロード島の伝統的な音楽だ」
「あれはなあに?」
マイラはジルヴァンの耳に唇を寄せ、尋ねた。
踊っている人々の中心に二本足で人間の様に立っているグレー色の猫が居たのだ。上品に帽子をかぶって、もう一匹同じような猫と踊っている。
ジルヴァンは首を伸ばしてから、ああ、と言った。
「あれは猫の妖精の筈だ」
「ね、猫の妖精?!猫に妖精なんて居るの?!」
「エムロード島固有の妖精らしいが、俺も見たのは初めてだ」
へえ、そうなのか、とジルヴァンは物珍しそうにその猫の妖精を見ていた。
よくよく見ていると猫は人間の言葉を話すらしく、周囲の人間と会話をしている。
「なんだいお嬢さん、おいらたちが珍しいってか」
「きゃあ!!」
隣の空いていた椅子に飛び乗って来た黒猫に驚きマイラはジルヴァンの方へ体を寄せた。
グレーと黒の混ざった黒猫の妖精らしい。彼は人間の様に脚を組んでは、出されたサーモンの燻製をフォークで上手に食べた。その様は人間と全く変わらない。
「ふうん、翼竜の騎士か」
「はい。人を探しに行くんです」
「へ~誰を探してんだよ。おらあ、おめえんとこの国で買った物を売りにけえるんだ」
「妻の友人の家族です。ジャシンタという娘で」
ジャシンタ、と名前を出した瞬間、猫の妖精のひげ袋が膨らんだ。
「ジャシンタ?ジャシンタってあのルルバーン家のか?」
「ルルバーンという家の方なのですか?」
「わからねえが、ルルバーン家がずっと探しているぞ。お嬢さんなんでえ、知ってるんだ?」
マイラとジルヴァンは顔を合わせ、事情を話した。
ふむふむと猫の妖精は頷くと「間違いねえな」と言った。
「ジャシンタはおめえさんと同じに幼い頃に連れ去られたんだ。ご両親はひどーく悲しんでたなぁ。男あまりの国が転覆したって吉報以外はなんもねえ。きっとそのジャシンタだ。だからおいらがおまえらをルルバーン家まで連れて行ってやる」
「良いんですか?」
「おめえさんもご両親を探してんだろ?ルルバーン家の奥様は優秀な魔女だ。何かわかるかもしれねえ。例え、ジャシンタがちげーとこのジャシンタでも、誰かのきっかけにはなるだろ」
目の前の猫の妖精に飛びつきたい気持ちになったが、まだ動物が怖いからそれは出来なかった。
でも、彼女は両手を合わせて猫の妖精に感謝をした。「礼はまだはえーぞ」と言って彼は笑った。