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翼竜の恋の季節(2)

 大胆不敵に輝いているように見えたが、何を思っているかジルヴァンには読み取れなかった。

 試してみる?どうやって?しかし何故、と彼はあれこれ考えた。騎士としての冷静さを試されている様な気がした。


「私があなたの指先を握って、どうにかなりそうなら私はボジェナと帰るわ。ならなければ……帰ってきて」


 ジルヴァンはどきどきした。

 恋の季節でなくとも、これは心臓が早鐘を打たざるを得ないだろう。帰ってきて、と言った時の彼女の瞳は潤んでいたのだ。一枚の薄い水膜が菫色を覆っており、大きくつややかに見せている。

 こんな表情を向けられた事のない彼の聴覚に聞こえるのは自身の心臓の音だけだ。ここまで自身の鼓動の音が聞こえるのは、翼竜の姿になるとき以外ない。どっどっどっと強く、心臓が動き血液がいつもよりも多く全身を駆け巡っている気がした。やばい、このままでは翼竜の姿になってしまう。そう思ってしまう程に彼はどきどきしていた。今ここで翼竜になれば建物を壊すどころか、彼女をこわがらせてしまう。だめだ、とジルヴァンは自身に冷静になれ、落ち着け、と何度も言い聞かせた。


「ジルヴァン?」


 何も答えずに彼女を凝視していたせいだろう、ミラは不思議そうな眼差しを向けて来た。


「すまない。わかった、試してみよう」

「では手を出して」


 ジルヴァンは言われるがまま、右掌が天井をむくように差し出した。

 ミラが手を伸ばしてくるが、彼女は直ぐに手を握らずに掌の付け根に指を添えた。それからゆっくりと、掌を滑るように指を動かした。


「大きな手ね」

「あ、ああ……いや、別に、この国では普通だ」


 冷静になれと言い聞かせているものの、ジルヴァンは彼女の手に釘付けだった。

 あのミラの、彼女の手が、自分の手に触れている。翼竜は男女ともに大柄で、女で百八十センチ近くあるのも珍しくない。事実、この国を治めているエウヘニアだって百八十五センチもある。その彼女の四肢は長いし、手も大きい。


「豆があるわ」

「どうしても出来てしまうからな……そんなに、褒められる手ではない」

「努力をしている人の手だわ」


 ぎゅっと指の先をミラに握られる。

 心臓が今にも口から出てきそうだった。彼は彼女ではなく、自身の呼吸に意識を向けるようにした。

 努力、努力している手なのだろうか?騎士をやっている者ならこのくらいの豆は出来る……でも思い返せば彼は努力をしながらも心の中で彼女を思い浮かべていた。異質な国として見ていても、自分一人では男あまりの国からミラを奪い去れる程の力はなかった。故に少しでも力をつけようと彼は彼なりに努力したつもりだった。だから、まさか、彼女に言われると思っていなかったジルヴァンの胸に迫り上げるものがあった。

 彼は目をぎゅっと瞑り、頭をやや下げながら絞り出すように言った。


「あなたを、ずっと、あなたを連れ出したいと思っていたからだ。その為に、力をつけたかった」


 ミラの顔を見る事は出来ない。

 顔が真っ赤になっている気がしたからだ。

 心臓は変わらずどくどく言っているが、早鐘という程ではない。鼓動の音も大分小さくなった。しかしこの場は沈黙に包まれている。ミラが何も言わない。言われて困っているのだろう。こちらを好きになってもらう前に婚姻に持って行ってしまったせいで。ああ、しまった、とジルヴァンは後悔をしていた。とりあえず翼竜になってしまいそうな状態は脱することは出来たが、この状態を処理する方法が彼にはわからない。

 しばしの沈黙の後、ミラが両手で彼の指先を握った。え、と驚き顔を上げると彼女は小さな笑みを浮かべて静かに「ありがとう」とだけ言った。


「礼を言われる事では」

「家に帰れそう?」

「あ、い、家……帰れると思う」

「私はあなたが本能に飲まれる人ではないと思っているわ」


 ミラの手が離れる。

 ああ、と切なさが一瞬で体中に広がる。かといってジルヴァンは彼女の手を引き留めるように取り直す勇気はなかった。ミラの中に自分への好意といった感情がまだあるとは思えない。ここで急進的に攻めても彼女が引くかもしれない。こういう季節だし、尚更だとジルヴァンは手を握りしめるのにとどめた。

 彼女は変わらず笑みをたやさず、椅子から立ち上がり「もう帰れるの?」と聞いてきた。

 ジルヴァンは何度か頷いてから慌てて立ち上がり、その拍子に椅子を倒してしまったが何とか綺麗にして仕事場から出た。

 彼の指先はミラの冷たく柔らかな感触がはっきりと残っていた。今でも握られているのではないか、と錯覚してしまう程にはっきりと残っているのだ。もっと握っていて欲しかったと言う自分の願望だろう、と言われれば、そうだと頷く。随分と心を開いてくれるようになったとは思っていたが、まさか手を握られるとは思わなかったのだ。それに帰ってきて、と言われる事も想定していなかった。まだまだ彼女が心を開いてくれるのは先になるかもしれないが、少しは信用してくれるようになったのだろうか、とジルヴァンは嬉しくなった。

 恋の季節の最中、嬉しい悩みを抱えた。でも、彼女に帰宅を待ってもらえるのならこんな季節、どうにでもしようと思えた。


 ◇


 ジルヴァンの手は大きく、皮膚が硬かった。

 マイラは自分でも何故彼に試してみて、と言ってしまったのかわからなかった。

 恋の季節という本能を盾に他の異性に視線が向くのがこわかったかもしれない。自分が彼と同じ屋根の下に住み、満足してしまったのに恐れたのかもしれない。もしくはそのどちらもあったと思う。でも、とマイラはジルヴァンの横を歩きながら考えた。他の異性に視線が向くのをこわいと思うなんて。そんな感情が自分の中で沸き起こった事に驚きを隠せなかった。

 自分以外の異性に、自分と接するように優しくしている姿を想像しただけで嫌な気持ちになった。もっと私と話をしてほしい、もっと私と一緒に過ごしてほしい。突然、そういった気持ちが溢れ出したのだ。

 だから、マイラはジルヴァンが他の異性に気持ちが向いているのではなく、あくまでも自分が本能に飲まれないようにしているだけだと知って安堵した。


『あなたを、ずっと、あなたを連れ出したいと思っていたからだ。その為に、力をつけたかった』


 帰り道、道すがらボジェナがトマトを選んでいるのを横で眺めながらマイラは思い出した。

 ジルヴァンがここまで自分に想いを抱いてくれた事は信じ難い物だった。

 信じ難く、どう反応すれば良いかわからなかった。婚姻に恋愛感情などないと決めつけていた彼女には未知の感情なのだ。男あまりの国における女という立場はあくまでも男にとっての飾り物であって、彼らにどれ程力があるかを示すものであった。美しく、聡明で、何かしらの魔力を持ち子を成す為の存在。そこに相思相愛といったものは存在しない。女が男の役に立てなければ、向けられる感情などないのだ。


 ―私が彼の望む人間かもわからないのに


 マイラはおもむろにアスパラガスに手を触れる。そっとそれをひっくり返すと、根本に白いふわふわとしたものがついていた。


「カビてる」

「え?」

「カビさ。管理がわるかったんだろう。食べたいなら他の店の物を選ぼう」


 ジルヴァンはマイラが手に持っていたアスパラガスを元の位置に戻した。

 そうか、これがカビなのか、と彼女は感心した。炊事に関わったことがないから、彼女はカビを見た事が無かったのだ。


「いいえ、別に大丈夫」

「本当に?」

「本当に。なんとなく手に取っただけだから」

「なら良いが」


 そういった季節のせいなのか、はたまた気付いていないだけだったのか。

 どちらかといえば後者な気がする、とマイラは周囲の女性たちからの視線を眺めた。

 ジルヴァンになんだか熱い視線が注がれている気がしたのだ。鎧は身に着けていないが、彼の着ている服を見れば騎士だというのはわかる。職業がしっかりしているのは勿論、容姿の良さも女性陣からの視線を惹きつけているのかもしれない。

 鍛錬の賜物、がっしりとした筋肉がついているのは衣服の上からもわかる。身振り手振り交えて喋るような男にも見えない。実際にはそうだし、黙っていれば圧を感じる事もある。でも、市場の店主たちに声をかけられれば彼は礼儀正しく、親切に受け答えを返している。……きっと魅力ある男性に思えるのだろう。


「お嬢さん」


 マイラが花農家の商品を見ている時だった。


「よかったら、どうぞ」


 店の者ではない男に突然一本の花を差し出される。

 年は自分と同じだろうか。騎士服ではないが、どこかに所属している事を思わせる制服を男は着ている。マイラが受け取らず身構えていると、男は笑みを浮かべながら言った。


「美しいあなたに、どうしても受け取って欲しくて」


 男の手の中にあるのは薄オレンジ色の一本のバラだ。

 男あまりの国では高級品として扱われていたバラだが、この国では誰でも手に取れるのだろうか。それとも翼竜の国でも同じように、高級品で限られた者だけが買えるのだろうか。でも、受け取らないと失礼だと怒られた記憶がある。男からの贈物は、例え知らな者であっても、光栄だから受け取るべきだと教わったな、とそんな事を考えていると二の腕を後ろから引かれる。


「俺の妻に何か?」


 マイラとその男の間にジルヴァンが割って入る。


「ああ、これは騎士殿だ。美しい奥方だと思って」

「随分と軽率な振舞いをされる」

「奥方の美しさの成せる業だ」

「冗談もほどほどに願いたい」


 ぎろり、と彼が睨みつけると男は花を持ったまま両掌をこちらに見せるようにして手を上げた。


「仲睦まじいようで何よりだよ」


 男は肩を竦めては花をくるくると回しながら雑踏へ消えてしまった。


「あいつに何もされなかったか?」

「何もないわ」

「花を受け取らなくて良かった」

「どうして?」


 このやりとりをいつの間にか見ていたのか、ボジェナがマイラの後ろから「教えてなかったのかい!」とジルヴァンを叱責するような声が聞こえた。


「……翼竜の国で、独身者の場合は花を受け取るのは相手からのアプローチを許すことになる」

「私は独身者ではないでしょう……?」

「既婚者の場合も同じだが、パートナーと別れても良いと踏んでいる事になる」

「えっ?」

「それくらい、翼竜の愛は永久に続くものだ。だから、既婚者が花を受け取るのは全てがひっくり返るようなものだと思ってもらって構わない。ミラが既婚者だとわかって、あいつはあなたに花を差し出してきた」


 翼竜同士であれば血の契りを交わしたのがわかるというのに、それでもアプローチをしてくる者がいるなんて!とマイラは驚いた。

 てっきりよその国の文官か何かで、わからないのだろうと思っていたがあの男も翼竜だったとは。彼女は自分を魅力ある人間だと思った事がないから、たった今起きた出来事を消化するのに時間がかかった。


「でも、受け取らないのは失礼にならない?」

「失礼?」

「あ、お、男あまりの国では男性からの贈り物は知らない相手であっても受け取る様に言われていて」

「そんな必要はない!あなたが嫌だと思ったら受け取る必要はないんだ」


 ジルヴァンの言葉に反応できずに、ただただ彼の瞳を見つめて居ると彼は視線をそらして花農家から花を買った。


「たとえそれが俺であっても。そして、あなたは自分がどれ程魅力的か、理解するべきだ」


 先程の男とは違う淡いピンク色のバラの花を十本差し出してきた。


「じゃあ、受け取らないと言ったらどうするの」

「仕方ない。受け取るかどうかはあなたが決める事で、俺が強制する事ではない。受け取ってから、捨てても構わないし」


 何か不安になる必要があったのだろか。

 ジルヴァンの眉尻が少しだけ下がっている。マイラはわからない、と思いながらも手を伸ばした。

 新鮮な茎にまだ咲き誇っていないバラは良い香りがした。


「捨てないわ」


 彼の表情が和らぎ、ボジェナが「困った男だよ」と言って笑った。

 家に戻るとマイラは家にあった唯一の花瓶にバラを生けた。いつでも見られるようにとダイニングテーブルの上に飾る。暫しそれを愛おしそうに眺めた。


 ―花をもらうのって嬉しいのね


 その時はっとして、マイラは階段を駆け上がった。

 寝室のサイドテーブルの中に仕舞っていたハンカチを取り出し、再び忙しなく階段をおりた。

 下りた瞬間に怒られるのではないか、と周囲を思わず見渡したがボジェナもジルヴァンも何も言わない。

 二人とも各々の作業に夢中になっている。ボジェナは料理をしているから、手元に視線が行っているし、ジルヴァンも何か仕事の続きなのか文字を書いている。

 男あまりの国ではこんなにバタバタと動くことがなかったし、動いたら怒られたからだ。


「ジルヴァン」


 呼びかけると彼は手を止めて顔を上げた。


「あの、これ。ハンカチを縫ったの。縫ったと言っても縁どっただけで、イニシャルを縫っただけだから、大したものではないんだけど……」


 彼に差し出すと途端にマイラは恥ずかしくなった。

 こんな物貰っても嬉しくないのではないか、どうせならもっと違うものを渡した方が良かったのではないかと思案した。ジルヴァンは広げてまじまじと見るだけで何も言わない。


「いらなかったら、別に」

「まさか、欲しいに決まっている。ありがとう、ミラ」


 ジルヴァンの瞳に小さな星々が見えた気がした。

 どんな寂しい夜も暖かな夜に変えてしまうような、優しい星々が散っている。

 嬉しいよ、と感慨深そうに言われマイラはくすぐったい気持ちになった。そして彼がちゃんと帰ってきてくれてよかった、と心の底から思った。

 この日、心臓にぽんやりと灯った小さな温かな炎の意味を彼女はまだ知らない。


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