翼竜の恋の季節
ジルヴァンと顔を合わせられないまま四日が経った。
すっかり熱も引いて、元気になったのにも関わらず彼はマイラと寝室を分けたままだ。白い結婚という決まりがあるから、それはそれで構わないが顔も合わせてくれないというのはどういう事なのだろうか。
何か悪いこと、彼の気に障るようなことでもしてしまったのだろうか。彼女はグルグルと理由を考えた。
この間食事に行った時に、彼の知り合いだという店員に愛想よく出来なかったから?それとも子犬をあまりにも恐れすぎてしまったから?もしくは体調を崩してしまったことで嫌になったとか?
彼女は思い当たる節を一つ一つ考えては、いや違うかもしれない、いややっぱりそうかもしれないと何度も同じ記憶の景色を巡った。
昼食に出された緑豆のパスタの緑豆をフォークでついては、転がすのをやっていたせいだろう。ボジェナが声をかけてきた。行儀が悪いことをしてしまった。「ごめんなさい」と言いながら何でも無いふりをした。しかし、年の功だろうか、彼女には嘘をつけなかった。
「まあ、今は恋の季節だからねえ」
恋の季節?
マイラは目を丸くした。
「こい、恋の季節?」
「足元が浮つく時期さ。夏が終わりに向かって、急に秋が来て、心がそわそわするんだ。全く生物の体っていうのはよく出来たもんだよ」
ボジェナの説明を聞いたマイラは頭を強く打たれたような衝撃に襲われた。
恋の季節。秋になると確かに涼しくなってどこか寂しさを感じる。つまり、人肌が恋しくなるのだろうか?翼竜だから人肌と言っていいのかはわからないが、寂しさを一人では抱えきれない時期なのかもしれない。
マイラは男あまりの国で、結婚していった姉たちを思い出した。
彼女たち、基花嫁候補であるマイラ達の試練は婚姻が終わっただけでは済まない。
自分たちよりも美しい花嫁が現れ、国王や王子たちのお眼鏡にかなえば、彼らは新たに妻を娶ることが出来る。
その妻ばかりを可愛がり、最初の妻を放っておく。そうもすれば花嫁としての役目が終わった彼女たちに用は無い。子を孕んでいれば話は違うが、得てしてマイラにとって男というのは自分勝手な生き物という認識なのだ。
だから彼女がジルヴァンが他の女性と過ごしている瞬間を想像してしまうのも無理はない。
「でも騎士団のところに行けば会えるじゃないか。本を返したいんだろう?食べ終わったら一緒に行くかい?」
最後の一口を食べ切ったところで言われ、マイラは暫く考えた。
本は返したいけれども、ジルヴァンに会うのは何だか怖い。急にそっけない態度を取られたらどうしよう、私はどうすればいいのだろうと悶々と考えた。でも借りていた本は早く返さなくてはならない。エウヘニアの私物なのだ。女王の貴重なものを借りるなんて、と言ったが彼女は「国中で売られている本が貴重なわけあるか」と言って、快く貸してくれた。ジルヴァンの様子を遠くから眺めて、問題なさそうだったら声をかけてみよう。自分が何かしたのか聞いてみよう。嫌だったら、帰れば良いのだ。そうだ、そうだ。とマイラは彼に会えなくても大丈夫そうな理由を見つけ出してから、ボジェナの提案に頷いた。
恋する季節だと聞いていたものだから、街もてっきり浮き足立っているのかと思ったがそうではなかった。でも城に着くまでの間、距離にして馬車に乗って三十分ほどプロポーズに成功したカップルを三組も見かけた。これが恋する季節の成せる技なのかもしれない。
城につくとボジェナは騎士寮で後輩たちと話をすると言って、別行動になった。ただ何となく、エウヘニアの元に辿り着くまでにやけに視線が向けられているような気がした。自分は別に人の注目を集めるような容姿では無いとマイラは思っていた。いい意味でも、悪い意味でも。でも今日すれ違った騎士たちからの眼差しは何か肌に張り付くような、すれ違いざまに感情を込めて手を伸ばされてしまいそうな。そんなどこか熱のこもった視線であったように思えてならなかった。エウヘニアの部屋に辿り着くと、一緒に旅をした近衛兵のケイリーとコーディがドアの前に居た。
「陛下、レディ・ミラです」
エウヘニアの返事が聞こえ、扉が開く。
マイラは礼儀正しくお辞儀をすると「顔をあげよ」と声がした。
「あの、お借りしていた本を返しに来ました」
「どうだ。面白かったか?」
「はい。言い回しが難しいところも多かったのですが、勉強になりました」
「異国の本を訳したものだからな。何かミラの琴線に引っ掛かれば、と思ったのさ」
エウヘニアは相変わらず華やかで美しかった。
強健な肉体は引き締まっており、女王という頂に相応しい美貌の持ち主だった。
彼女の優しい心遣いにマイラは申し訳ないと思いながら首を横に振った。
「何か言いたげな顔をしているな。言ってみろ」
「え?」
「誤魔化して帰れると思うな。まあ、私に言いたければだが」
「……ジルヴァンのことなのですが」
そう言うと彼女は興味深そうに椅子に腰掛けた。
スリットの入ったドレスから、長い足が露になった。男あまりの国では足を出すのは御法度だった。なんて破廉恥な!と彼女は驚き胸に手を当てたが、エウヘニアの色香に耐えられなくなる前に白状して帰ろう、と言葉を続けた。
「彼が、顔を合わせてくれないのです。家に帰ってくるのは私が眠った後で朝も私が起きる前に出かけてしまうのです。何かしてしまったのでしょうか」
するとエウヘニアの豪快な笑いが短く響いた。彼女は肘掛けに肘を立て、腰を深く椅子に沈めた。
「恋の季節だからだよ、レディ・ミラ」
「ボジェナから伺いました」
「ジルヴァンはあなたより三つ上だとはいえ、翼竜ではまだまだ若い。きっと、何かしでかさないように距離を置いているのだよ。他に好きな相手が出来たというのではない。あいつなら理性で抑えられる筈だけれども、万が一を恐れているようだな。あなたを大切にしたいが故、こんな行動を取っている」
理解ができず、眉間に皺を寄せるとエウヘニアが足を組み直して教えてくれた。
「恋の季節になると翼竜はいつも以上に敏感になり、いつも以上に愛する相手を求めたくなる。深く、深く、恋をしたくなる。時にその衝動は激しく、異なる種族が相手となると驚かせてしまう。ジルヴァンはあなたを怖がらせたくなくて、距離を取っているのだよ」
「彼が私にそんなふうになるなんて」
「あり得るさ。あいつはあなたを愛している。長い間恋焦がれていたんだ。瑞々しく可憐なあなたを、こんな季節によって過剰になった本能に理性を飲まれそうで恐ろしいんだよ」
エウヘニアが立ち上がったかと思いきや、彼女はマイラの手を踊るようにして引っ張り上げた。
腰に手を添えて、その場でくるりと彼女を回しては強く自身の腕の中に引き込んだ。
「こうしたい気持ちでいっぱいなのさ。ジルヴァンのところに行ってごらん。彼がなんと言うか」
マイラは目をぱちくりとさせながらエウヘニアの腕の中からそっと逃げた。彼女はそれを阻止するどころか、離れかけた手を再び引いて、マイラをエスコートするようにして部屋から出してくれた。
◇
ジルヴァンはこの浮き足立つ季節が苦手だった。
全ての感覚が敏感になり、簡単に本能に流されそうになってしまう。従来であればどうにか過ぎるのを待てたが、今回は違う。ミラがいる。花嫁を迎えにるは悪いタイミングだったかもしれない。恋の季節は毎年、年頃になるとやってくる。いつもなら秋を迎える頃に、ああ、そういえばと思い出せたが今年は失念していた。
ミラを妻として迎えることが出来たのに浮かれてしまったのだ。彼女の両親を見つけ出さないといけないというのもあるが、恋焦がれた相手と同じ屋根の下で暮らせる事にうつつを抜かしてしまったせいだ。自分がこんなに感情に流されてしまうとは、とジルヴァンは自身に失望した。
彼女と顔を合わさないように努力をしているが、本当は彼女に会いたい。ボジェナに聞けば生活には慣れていっているようで、体調も完全に回復したようだった。出来れば今週末くらいには隣村の市場に連れて行きたかったが、この季節が過ぎない限り連れて行ける自信はなかった。
両親を見つけるまで白い結婚を貫くことへの抵抗はない。何せ再会したとはいえ、結婚するまでの時間が短過ぎた。短過ぎたし、そんなにすぐ深い関係にならずとも良いとジルヴァンは考えているのだ。しかし、この季節は厄介である。全ての感覚がいつもより敏感になり、些細なことでも彼の本能に訴えかけてくる。
子犬を恐れて抱きついてきた瞬間、自分よりも小さく柔らかな手、そして丸く甘い香り。彼はそれを思い出しただけで耳に熱が集まるような気がした。うわ〜!と乱れる心を鎮めようと持っていた書類を顔に押し付けた瞬間。
書類仕事をする部屋の扉がノックされた。この時間は誰もおらず、彼だけだった。ジルヴァンは慌てて書類を顔から離し、入室の許可をした。しかし入ってきたのは、彼の心をかき乱す妻のミラであった。
「ミラ、どうして」
「エウヘニアに本を返しに来たの」
そうだろう。
本を返しに来たかどうかは知らないが、彼女の香水の匂いがした。燻製された木の香り。
「そう、か」
「今日は夕食を一緒に取れますか?」
「え?夕食?」
ミラはゆっくりとこちらの方へ歩みよる。
久しぶりに明るい時間で見る妻は可愛かった。細い首に細い手首。生唾を飲み込みたい気持ちになったが、ジルヴァンは懸命に平静を装う。彼は椅子に腰掛けたまま、じっとミラの行動を観察した。すると彼女は腰を屈めると、彼の顔にグッと近づいた。目の前いっぱいに広がる菫色の瞳にジルヴァンはぎょっとしたが、さらに驚くことが起きる。彼女の指が伸びてきて、彼の鼻を軽くつまんだのだ。
「鼻にインクが」
自分の体温よりも低い指で触られ、目が覚めるような感覚だった。
先ほど書類を顔に押し付けていたせいだ。しかし、そんな事は言えまい。
「夕食は、仕事がたまっているから、先に食べてくれ」
歯切れの悪い喋りが情けない。
ミラは瞬きもせずこちらを見つめてくるものだから、彼も座りが悪くなった。ジルヴァンは嘘をつくのが苦手だ。
「いつになれば、恋の季節はおしまいになるの?」
は、と彼は目を丸くして彼女を見上げた。
「恋の季節のことを誰から」
いや、聞くまでもない。ボジェナでもエウヘニアでもどちらから話されていてもおかしくない。
彼は視線を一巡させてから、立ち上がり空いている椅子を引いてミラを座らせた。
「来週末には」
「じゃあ、それまでは食事も一緒に取れないのね」
彼女は不安や塞ぎたい気持ちになると、顔を下に俯けて長い髪の毛を指で梳かす癖があった。
今も例に漏れず、ミラは長い髪の毛を手で遊んだ。そんな悲しい顔をさせてしまった事に罪悪感を抱いたのと同時に、ジルヴァンは彼女が自分と食事をしたいと思ってくれている事に嬉しくなった。
「こういった季節に、愛する人と一緒に居たことがないから恐いんだ。不意の気の迷いで、あなたを傷つけるような事はしたくない」
「ジルヴァンはそういう事をしない人でしょう」
「その信頼だって崩したくない。意志の弱い男に思われるかもしれないが」
「なら、試してみたら?」
菫色の瞳が大胆不敵に輝いた。