翼竜の国に入りて
翼竜の国の気候は心地良いものだった。
湿気が殆ど無く、乾いた空気にどこまでも澄み渡る空は青い。秋になれば冷たい雨が降り、冬になれば雪も降ると言う。男あまりの国では雨はおろか、雪は降ったことがなかったから彼女は冬が訪れるのが楽しみになった。
国に入って二週間もすれば家が無事に見つかった。
家探しはジルヴァンが殆ど行ってくれたが、候補をいくつか絞ってくれた。彼は『ミラが気に入った場所が良い』と言って、旅路の最中と同じように最終的な決定を彼女に委ねた。
マイラが気に入ったのは運河沿いの家だった。どの家も二人が住むには十分広かった。その中でも特に気に入ったのが運河沿いだったのだ。居間が運河に面しており、その清涼さに彼女は心惹かれた。彼はすぐにその家を契約し、明後日にはその家に入るのが決まっている。
マイラの一日はゆるやかなものだった。
誰にも監視されず、自分の体に合わない服を着る必要もない。彼女がどこに行こうが、何をしようが、城の人間は誰も何も言わなかった。女王陛下の客人というのもあるが、誰もが彼女に親切にしてくれた。
エウヘニアが住まう城のある場所からは騎士達の鍛錬場が見える。
男あまりの国では自由に読ませてもらえなかった本を読むべく、三階にある書庫に向かう途中でいつも鍛錬場を通り過ぎるのだ。
多くの騎士が在籍しているらしく、鍛錬場はいつも賑やかだった。おもむろにそこを見下ろし、訓練に精を出す騎士達をマイラは眺めた。
―ジルヴァンはいるのかしら
鍛錬場を通り過ぎる度に彼女はジルヴァンをこっそり見つけるのが密かな楽しみになっていた。
彼は自身の住まいから騎士団の本部へ通っている。十五歳の頃には既に入団していたらしく、周囲からの信頼は厚いようだった。鍛錬の時間となれば、彼に手合わせを願う者もいるし、指導を頼む者もいた。
ジルヴァンは真剣な面差しで訓練をしており、マイラの視線には気が付かない。何故かがっかりしている自分がいて、彼女は窓から顔を離しては怪訝な顔をした。
一体どうしてがっかりしてしまうのだろうか、と。はあ、とため息を吐く。その場から去る前にもう一度だけ視線を鍛錬場におろすと、ジルヴァンと視線がかち合った。視線が合ったのは今日がはじめてだった。
三階に居てもはっきりと彼の瞳がこちらに向けられているのがよくわかる。互いに笑みを浮かべる事もせず、ただただ見つめ合う時間が数秒間続いた後、ジルヴァンが手をあげた。
マイラに手を振ってくれているらしい。彼女は周囲をきょろきょろと見渡してから、ぎこちなく手を振り返した。振り返すと彼は笑みを小さく浮かべてくれた。
彼女はその笑みに笑みを返す事は出来ず、慌ててその場から離れた。
引っ越しの前々日にもなるとマイラも忙しくなった。
家具は既に備え付けであったから、探す必要はなかったものの敷布やら生活用品らを買い足す必要があった。以前の住人が置いて行ってくれた食器は変わらず使えそうだったので、それを使う事になった。
ジルヴァンが家事係を雇ったので家事炊事の心配はなかった。気持ちの良い翼竜の中年の女性で、かつては騎士寮の寮母もしていたという。大人数の世話は体力が追い付かないと言う事で個人宅の家事係になったそうだ。
二人の家は建築から既に五十年近く建っているものだったが、よく手入れをされていたおかげで古びた様相はない。
家に入るなり、マイラは運河に面している窓を開けてそこに座り込んだ。座り込んできらきらと透明の陽の光を吸い込んでは、水面を飾る白い輝きを眺めていた。
今まで見ていた景色とは違う。自分は異国にやってきたのだ、と実感した。
「窓辺にテーブルを置こうか。そうすれば、あなたは床に座らず運河を眺める事が出来る」
「別に、床に座るのは平気よ」
「食事をしながら川を見る事だって出来るのに?」
ジルヴァンに甘やかされている気がする。
彼女はそう思ったが、彼の魅力的な提案を遠慮する事は出来なかった。
キッチン近くにあったテーブルと椅子を全て窓辺に寄せただけで、マイラはわくわくした。これからはどんな日々が待っているのだろう、どんな景色が見えるのだろう。体中の細胞が活発になり、あまつさえ瞳の奥底から輝いているようにも見えた。
引っ越しの為に一日休みをもらっていたジルヴァンが街を案内しようと外へ連れ出してくれた。
城下町というだけあって、人々の往来は多かった。
翼竜の爪とぎ専門店や、鱗洗いますといった文言が飾られた店と隣り合うように衣裳店に美容室と言った店が見られた。運河沿いのカフェで足を河にひたらせてコーヒーを楽しむ者もいれば、バイオリンの演奏をしている者もいた。
特にマイラの目を引いたのは女性たちのファッションだった。男のあまりの国では髪の短い女はいなかった。少なくとも、花嫁候補達では許されなかった。エウヘニアの髪はワインレッドだったが、地毛ではないらしい。国民達も好きなように髪の毛で自分を表現しており、彼女は女性一人一人の髪の毛をじっと見つめた。
家事係が来るのは翌日だった為、ジルヴァンは気に入っているというレストランに連れて行ってくれた。気楽な店で、店内は程よく賑やかだった。
「おい、ジル!いつ結婚したんだ!」
「ああ、久しぶり」
店員の一人が彼に声を掛けると、ジルヴァンは店員と右手で握手を交わし、左腕を互いの背中に回しては短い抱擁をしていた。見た事のない挨拶ではあったが、二人の親しさがよく伝わった。「お前がこんな可愛いレディと結婚とはな」と店員は感慨深そうに言って、厨房に戻っていった。
「誰かに話したのね」
「いや、騎士団以外には話していない」
「え?それなら、どうして知っているの?」
「血の契りだ。翼竜同士なら、その契りを、婚姻の契りを交わしているかわかるようになる」
マイラは目を丸くした。
血の契りとはそんなにも強い力があったのかと。
「じゃあ、私がわからないのは翼竜じゃないからね」
「ああ。でも、翼竜であればマイラを見たら、翼竜と契りを交わしたかどうかはわかる」
「翼竜だけの特別な力ね」
そう言いながら彼女は俯き、自身の掌をさすった。
自分にはかつては予知能力があったのに、今は殆ど使えない。どうしてなくなってしまったかはわからない。もしかしたら、元から弱かったのかもしれない。
「ミラ」
彼女の手にジルヴァンのごつごつとした指が伸び、優しく左手薬指を掴まれる。マイラは驚き上ずった声で「はい」と返事をしながら急いで顔をあげた。
「これまでとは違う環境で、慣れるのに時間はかかるかもしれない。でも、皆いい人たちだ。あなたを歓迎してくれる」
ジルヴァンはいつだって優しい。
厳めしい見た目をしているが、中身は全然違う。いつもこちらを気にかけてくれて、マイラを置いてけぼりにするような事はしない。それに、ジルヴァンは彼女が何か出来ない事があったとしても、怒らずに見守ってくれる。否定もしないし、批判もしない。ただただ、出来ない事を受け入れてくれるのだ。
この間だって子犬を見て驚いて取り乱してしまった時だって、ジルヴァンは怒らなかった。男あまりの国であれば許されなかっただろう。花嫁候補は笑みを絶やしてはいけない。笑みを崩していいのは、夫との閨の時のみだと教えられていた。
こちらの行動を監視しるような視線の檻から一転、ジルヴァンから向けられる温かな瞳は喜ばしい筈なのにこそばゆく思ってしまう自分がいる。
彼と結婚をして間もなく三週間経つが、ミラと呼ばれるのも慣れない。でも、マイラと呼ばれるよりかはしっくりくるし、ジルヴァンと一緒に居る時は安心できるようになってきた。これからの日々が良い日々になれば。彼女は静かにそう願った。
しかしその日の夜、一か所に腰を据えた事に安堵したせいなのかマイラは体調を崩してしまった。
食べた物をすべて吐き出し、発熱してしまったのだ。一日で治るかと思いきや、中々熱が下がらずジルヴァンは医者を手配してくれた。
「緊張が抜けたのでしょう。監視の強い環境から自由な環境へ。知らない世界を見続けて、消化不良を起こしていたのかもしれません」
夫婦二人で眠る筈のベッドで、マイラはぼんやりと医師の診断を聞いた。
ジルヴァンは彼女がゆっくり眠れるようにと別室で眠ると言った。それでも彼は夜中に何度も起きては、マイラの様子を見に来てくれた。
新居にうつり、彼にとっても嬉しい日であったのに水を差してしまった、と彼女は落ち込んだ。予知能力を失ってからは健康だけが取り柄だっただけに。だって知らない世界を見続けて、消化不良を起こしてしまったって何なの、と彼女は自分を責めた。こんなに軟弱だったなんて。
ただでさえ心身ともに弱っている時だ。彼女の情緒は程なくしてめちゃくちゃになる。
家事係が来てくれるのは月曜日だった事もあり、ジルヴァンは食欲のないマイラの為に食べやすい物を作ってくれた。
体調を崩した時に、この国で食べられると言うチキンスープだった。細かく切ったにんじんとセロリ、それからじゃがいもと鶏肉と小さなパスタが入ったものだ。よく煮込まれているおかげで柔らかかった。
マイラは半分ほど食べ進めた所で思わず泣いてしまった。涙でお腹いっぱいなのか、食欲がないのか。どちらともいえる状況だったが、彼女は引かない涙を隠すために皿をサイドテーブルに置いてから、扉に背を向けて寝たふりをした。甲斐甲斐しく誰かに世話をされていなかった彼女には、あまりにもジルヴァンは優しかった。
こんな何も出来ない自分に優しくしてくれるなんておかしい。自分は彼に何も返せない。予知能力もない。迷惑ばかりかけていて、あまつさえ両親を探せと言っているのに。
彼が真夜中に様子を見に来ては、上布をかけ直してくれるたびに彼女は胸が苦しくなった。
「なあに、どんなに丈夫だってあんな状況から脱出したら具合だって悪くなるさ」
月曜日。
泣き腫らしたマイラを発見したのは家事係のボジェナだった。
自分の泣き声のせいで、彼女がやってきたのに気が付かなかった。出勤間際のジルヴァンから体調を崩したのを聞いているらしく、ボジェナは優しく看病してくれた。
人に世話をされるのは慣れているが―どちらかといえば監視の意味合いが強かった―こんなにも愛情をもって面倒をみてもらった事はなかった。自分の母親もこんな感じだったのだろうか、とマイラは思い出せぬ自身の母親へ思いをはせた。
ボジェナとジルヴァンの付き合いは長かった。彼が騎士団に入った時から、寮母をしていた為彼は子どもも同然だと言う。いつも冷静で殆ど表情を変える事はない。偉い人でもそうでない人でも、彼の態度は常にフラットだと聞いた。
「不思議なものよ。ジルヴァンは絶対にあなたを見つけにいくと言っていたから、まさか本当に花嫁を連れて帰ってくるなんてね」
「わ、私をですか?」
汗で汚れてしまったベッドのシーツを変えてくれている間、ボジェナはよく読んだ本を捲る様に昔話をしてくれた。
「そうよ。騎士団に入ると、その地位を生かして浮名を流すような奴もいたけど、彼は違ったわ。再び会える日を信じて誠実に生きていたの。周りにどうかしていると言われても、頑なに断っていたわ。よっぽどあなたが好きだったのね」
どうして再会出来ると思っていたのだろう。彼によれば自分は命の恩人にあたるかもしれないが、とはいえよく信じ続けられたものだと感心してしまった。
替え終わったベッドにもぐり込むとボジェナが上布を胸元まで引っ張り上げてくれて「目が覚めたらお昼にしましょう」と言って部屋から出て行った。
そんな日々が週の半ばまで続いた。彼女が元気になった木曜日、ボジェナは刺繍をしていた。
季節としては夏の終わりに当たるらしいが、肌寒い日だった。それでも運河を照らす日差しは美しく、ぼんやりと眺めていた時だった。
規則正しい腕の動きが視界に入った。マイラがボジェナの事を窓辺から視線を送っていると、小さな丸眼鏡かから顔を覗かせながらこう言った。
「刺してみるかい?」
「刺して、良いんですか?」
「勿論さ」
十何年ぶりかの刺繍にマイラは思わず頬を緩めた。
ボジェナから刺繍針と布を受け取って、縫い方を教わる。彼女が最後に縫ったのは十歳にも満たない頃だ。
マイラが刺していたものよりも複雑そうだったが、ボジェナが側でずっと教えてくれたおかげで、彼女はすぐに刺せるようになった。元から刺繍は好きだったから、彼女は童心に返って午後中刺していた。そして刺し終わると、彼女はボジェナが自分の名前入りのハンカチの縫っていた事に気が付いた。
可愛らしい水色のレースを縫い付けてくれて、角の一つにマイラのイニシャルが入っていたのだ。
「……ジルヴァンは喜んでくれるかしら、ハンカチを縫ったら」
ボジェナの頬はいつも頬紅をさしたようにピンク色がかっていた。健康そうなその頬骨を丸くして、彼女は「当たり前だよ」と答えてくれた。だからマイラは早速、翌日からボジェナに教わりながらハンカチを一から縫いあげた。男だからレースはいらないだろうと、ハンカチの形を縁どる様に濃い緑色の糸を刺していった。それから、彼の名前のイニシャルを縫っていった。出来上がった頃には夕刻になっており、ジルヴァンが帰ってくる筈だった。
「仕事が終わらないんだとさ」
ボジェナの言葉にマイラはがっかりした。早く見せたいという気持が一気にしぼむ。同時になんとも言えぬ寂しさに襲われた。だって彼は昨夜も帰ってきていなかったのだ。
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