花が紡ぐもの
エウヘニアの言葉通り、途中立ち寄った街の文具店でジルヴァンはマイラに立派なノートとペンを買ってくれた。まさか、呟いただけの言葉を彼が覚えていたなんて意外だった。いいや、覚えてもらえるとも思っていなかった。自分のことなど誰も覚えてくれない。ただの花嫁候補の一人であって、マイラ個人の好みなどどうでも良いとされていたからだ。
文具店で案の定、彼女はうんうんと迷った。靴屋でも、衣装店でもここでも迷っているから、流石にジルヴァンもうざったいと思っている気がした。でもその素振りはなく、彼は変わらず『時間はまだある』と言って、選ぶのを一緒に付き合ってくれた。『あなたが気に入ったものを選べるのが一番だ』なんて宣うものだから、マイラは唖然とした。そんな優しい言葉をかけてくれる人がこの世に存在するなんて。
選んでいると一人の同い年くらいの女性に声をかけられた。
「あなたの夫、翼竜なのね?」
「……どうして、わかるの?」
「体が大きな人間は大体翼竜の血を引いているのよ。見初められるなんて、羨ましいわ」
マイラは反対側の通路で頭一つ大きく見える男を見遣った。
ジルヴァンは確かに大きい。彼は翼竜だが、基本的には人の姿で生活している。竜人と言った方がいいのかもしれないが、彼らは自分を翼竜だという。でも、まだ本来の姿を見た事が無いからマイラにはいまいちその実感がなかった。ただ確かにわかるのは、彼らが立派な体躯をしているという事だけである。
同い年の女性は「羨ましいわ」とため息を吐きながらどこかへ行ってしまった。
結局三十分ほど費やし、彼女はノート一冊とペンを一冊ずつ選んだ。せっかくだからと文具店の店員にリボンをかけて貰った。薄黄色のリボンがノートに飾り付けられていく様にいつの間にか頬が上がっていて、店の外に出るまで自分は満面の笑みだったようだ。ジルに『嬉しそうだね』と言われて初めて、それに気が付いた。でも彼の言う通り、嬉しいのだと思った。
だって、街を出てジルヴァンの馬に乗っても尚、彼女は自分で選んだノートとペンが愛おしくて仕方なく、ずっとそれを眺めてしまった。
「ここが、その花畑だ」
馬の補水もかねての休憩だった。
辿り着いた花畑は白い小花が一面広がっており、花達を守るように山々が遠くに見える。
マイラは思わず「すごい!」と声をあげていた。こんなに緑豊かで、花が沢山ある光景を彼女は見た事がない。男あまりの国で外に出られなかったというのもある。生活には困らなかったが、大きな檻に閉じ込められた日々。それらの屋根が消え去り、マイラは腹いっぱいに空気を吸い込んだ。あの日々では得られなかった緑の瑞々しい香りを含んだ空気は彼女に自由を教えてくれた。
マイラは早速ノートとペンを取り、手を素早く動かした。
出発までに描き切れるだけ描きたい!その気持ちでいっぱいだった。巻き付けられていたリボンは丁寧に折って、服のポケットの中に入れた。
ジルヴァンや他の騎士達は思い思い、柔らかな緑の上で談笑をしたり寝転がったりと休息を楽しんでいた。エウヘニアは大きな木の幹の下、髪の毛を梳かしていた。
一生懸命、ノートと景色を交互に見ていたから気付くのが遅くなった。マイラは自分も見られていたのだ。ジルヴァンに。おかしい、男あまりの国に居た時は嫌という程視線が気になったのに、たった数日であの間隔が抜けてしまうなんて。幼いころからの癖だと思っていたのに。彼女が顔をジルヴァンの方に向けると穏やかな瞳と目が合った。彼の瞳にはいやという程力があるのだが、今は違う。人を威圧するような、怯えさせるような眼差しではない。少なくとも、マイラにそういった眼差しを向けてくる事はないのだが。
優しい、こちらを見守るような瞳なのだ。
「私をじろじろ見て、どうしたの」
「あなたの横顔が可愛らしいと思った」
「……なにを」
「真剣に景色とノートを見つめているが、瞳が輝いている」
客観的に自分の仕草を描写され、マイラは恥ずかしくなった。
「やめて、そんな風に言わないで」
「あなたが嫌がるのならやめよう……でも、今度はあなたの瞳と同じ色の花が咲く場所に連れて行こう」
「私の瞳と同じ色の花?そんなのがあるの?」
「紫色の花を見た事がない?」
「ないわ、男あまりの国には色鮮やかな花はなかった」
国王が花は花嫁候補の娘たちである、と言って鮮やかな花々を植えさせないようにしたのだ。
頭の可笑しな話だが、逆らうものは残念ながらいない。よってマイラが紫色の花を見た事ないというのも当然だろう。
「なら、季節が来たら連れて行こう。ミラの瞳と同じ色をした、すみれの花畑が我々の国にはある」
花と同じ色、と自身の瞳を形容されマイラは頬が熱くなった。
彼女はぱっと顔をノートの方へうつして「楽しみにしているわ」と素っ気なく答えた。本当は嬉しくてたまらなかったのに!
そっぽを向いてもジルヴァンはマイラの側に座っていた。何か手を動かしているのが横目にうつったが、彼女は無視することにした。熱くなった頬が中々冷めなかったからだ。
「ミラ」
マイラはジルヴァン達からの呼び名に中々慣れなかった。
いつも数拍遅れて反応してしまう。大分黒くなってきたノートから顔をジルヴァンの方に向けると、彼の手には花冠があった。花々よりも緑の多い冠だ。
ジルヴァンにそれを被せられた。彼女の頭には少し大きかったようで、視界をぎりぎり遮るか遮らないかまで落ちてきてしまう。彼はどこかはにかんだ笑みを浮かべた。
「……あなたに似合うと思ったが、俺には上手に作れなかった」
頬の熱は引いた。
しかし今度は心臓が早鐘を打ち始めた。
自分を思って、花冠を作ってくれた?
確かに出来は上手とは言えたものではない。ジルヴァンはすわりの悪そうな花冠を取ってくれたが、その瞬間、彼の短く切り揃えられた爪先が緑に染まっているのが見えた。
彼なりに一生懸命作ってくれたらしい。ジルヴァンからは既にいろいろな物を貰っている。身に着けている服も、靴も、このノートとペンだって。全て彼がくれたものだ。与えられるのは同じだけれども、自分を尊重してくれている。どの行動をとっても、その心が見て取れた。
「ジルヴァン、貸して」
マイラは彼から花冠を受け取り、花を足していった。
花の種類は少なかったが男あまりの国の、彼女達が住んでいた離れの庭には少ない花があった。季節になると花が咲き、それでよく花冠や指輪、ブレスレットを作ったものだった。季節の間、懇々と裂き続ける種類だったようで、毎日作り続ける週もあった。暇だったから。
だから、彼女にとっては花で遊ぶことはそれなりに得意だった。
「あなたの頭なら合うかしら」
彼の頭に花冠を乗せてみると、ぴったりとはいかないが、少なくともマイラが被るよりも丁度良さそうだった。たっぷり白い小花をあしらった花冠は、銀灰色の髪の毛の上では雲のようにも見えた。彼女はうーんと首を少しだけ傾げてから、こう言った。
「今度は色のある花でやってみるわ」
自分の意志で発した筈なのに、こんな言葉を言うなんて。
マイラは自分に驚いたが、ジルヴァンも驚いていたようだった。少しだけ瞳が見開かれていたが、すぐに細められる。
「その時は手ほどきを願おう。そろそろ出発だ」
彼は花冠を頭に載せたまま、マイラが立ち上がりやすいように手を差しだしてくれた。
その手を取り、立ち上がると他の騎士達からからかう声が遠くから聞こえた。
「ミラ」
ジミーが「やってくれるね!」と叫んでいたが、マイラはジルヴァンに呼ばれて、振り向いた瞬間に意味がわかった。
いつの間にか摘んでいた花を彼女の耳につけてくれたのだ。
彼は花を耳につけるだけつけて、何も言わない。じっとこちらを見つめてから「綺麗だ」と言って、馬の方へ歩み始めてしまった。
エウヘニアの近衛兵であるコリーが「可愛いよ」と言いながら、手鏡を差し出してくれた。マイラは言われるがまま鏡を覗いた。……確かに、可愛いかもしれない。少なくとも、男あまりの国で身につけよ、と与えられていた自分には華美すぎる物よりも、この小さな花の方が似合う気がした。だから、途中風でその花を攫ってしまった時はすごくがっかりした。
ジルヴァンは「またある」と言ってくれたけれども、気持ちはすぐには晴れなかった。
◇
ジルヴァンからミラへの愛情は静かに、確かに大きくなっていった。
男あまりの国を出たばかりの頃は緊張していたが、今は随分と和らぎ表情も変わる様になってきた。
同室で眠らなくてはいけない時、何も思わない事はなかった。あわよくば、なんて一瞬の気の迷いは出ない事もないが、ミラを傷つけるのは嫌だった。嫌だったし、彼女からの信頼を得られないのは最も避けたかった。ミラに信じてもらう事が何よりも最優先だったし、知って欲しかった。自分は彼女に取り巻いていた男達の様に、花嫁に足る女かどうかで判断しているのではない、と。
翼竜の愛は得てして本能的であった。翼竜ならではの、本能である。
伴侶となる相手を見つけるとナイフで胸の深い場所を抉られたかのように、その者を強く想ってしまう。
その恋心に気の迷いなどなく、恋破れてもなお思い続ける翼竜も多い。
旅のはじめこそ、ミラはあまり男あまりの国の話をしなかったが、空気を読まぬジミーのおかげでヴェールに包まれていた日々が徐々に露になっていった。
常に監視の目があり、決まった時間にしか建物の中から出られなかったのは知っていたが、彼女ら日々は想像以上に酷いものだった。
基本的に国王とその息子、または許された関係者しか彼女らと接触出来なかったという。侍女は皆既婚者か未亡人だったそうだ。というのも、未婚の侍女と爛れた関係になった花嫁候補がかつていたから、と聞いた時は呆れた。別に未婚であっても既婚であっても、爛れた関係に踏み込む者は踏み込む。本人同士の倫理観の問題であり、その者の婚姻の有無は関係ないはずだ。
男あまりの国の国王とその息子たちは花嫁候補達が謀反を起こさないように、目を常に光らせていたと言う。特に食事の際は食事を取る彼女たちの周りに兵士が定点的に立っていたらしい。
腹の中に未来を宿せる娘たちはどんな宝石よりも大切で、誰にも渡しまいとしていた姿勢がよく伺える。
抑圧された日々―監禁生活と言っても差し支えないだろう―がミラのあらゆるものを奪っていったのは容易に想像出来た。
ミラの描いた絵は上手だった。
画家として商売をやってもいいくらいの腕前に思えた。
ペンは黒いインクしか出ないが、白と黒なのにここまで緻密に描けるのなら、絵の具を贈っても良いのかもしれない、と考えた。
飛び地である翼竜の国の領地に辿り着き、少し早い昼食をとることになった。ここまで来ればあと少し、翌日の夕方には母国に帰れるくらいの距離までやってきた。
やけに体躯の良い人間が多くなると、ジルヴァンは少しだけほっとした。同胞がいる異国というのは何だか安心するものだ。それは他の騎士達も同じだったが、ミラだけは違った。
彼女が食事時や、他の人間や馬車とすれ違う度にそわそわとしているのはいつもの事だったが、今日だけはやけに神経質そうに周囲を警戒していた。理由を尋ねても彼女は首を横に振るだけだった。
この四日間の間、初日に比べたら随分と心を開いてくれたと思っていたが、まだまだのようだ。深い心の打ちを話してくれるほどの親しみを自分には持ってくれていないようで、項垂れたくなった。彼女との距離は一歩進んで一歩下がる。いいや、一歩以上下がっているのかもしれない。
ジルヴァンはここで自分がどれ程、彼女に心を寄せているのか気が付いた。
ミラが作り直してくれた花冠は、落としかねないから荷物を括る紐に括りつけた。翼竜の国に戻ったら、思い出を残せる魔法を知っている魔術師に永遠に枯れない術を施してもらおうと思ったのだ。
自分の作った下手な花冠を立派にしてくれた感謝の気持ちを伝えたくて、小花を彼女の耳にかけた。
本当に美しかった。すみれ色の瞳に白い花が良く映え、さながら花の妖精といった所だった。コリーから手鏡を受け取った後も口元に笑みをたたえていた。
気に入ってくれたのか、時折彼女はそれが耳にしっかりかかっているのか確認するかのように花に手でそっと触れていた。しかし、途中強い風にあおられ、小花は攫われてしまった。
その時のミラは酷く悲しそうな顔をしていた。あまりにも悲しそうだったから、額に口づけを落として慰めたい気持ちになったが、彼女はそれを嫌がるだろうと思ってジルヴァンは控えた。
「翼竜の騎士様、こんにちは」
途中で市場があった為、皆で足を止めていた時だった。
一人の少年がジルヴァンとミラの近くにやってきた。少年の手にはふわふわとした可愛らしい子犬がいた。
「この間生まれたばかりなんです、見て下さい」
旅人があまり来ない地域らしく、少年は異国の者であるジルヴァンに興味深々のようだった。
彼は小さな笑みをたたえ、子犬を見やった。ベンチに腰かけている妻にも見て貰おうと「ミラ」と呼びかけたが、聞こえたのは悲鳴だった。
「ひ、あ、あ、いや!やめて」
酷く怯えている様で、彼女は慌ててベンチから立ち上がった。それどころか、そのままベンチの上に立った。まるでせり上がっては呼吸を奪おうとしている洪水から逃げ惑っているようだった。ジルヴァンは驚きながらも彼女を落ち着かせようとした。
「ミラ、ただの子犬だ。あなたを噛む事はない」
「いや、やめて、いやなの。近づけないで」
ベンチの上に立った事で、ミラはジルヴァンよりも背が大きくなった。
彼女が落ちたら危ないから、と手を伸ばすと逆にミラの手が彼の首元に回った。縋りつくように頭を抱え込まれ、柔らかな腕の中に抱き込まれてしまった。ふいの丸く甘い香りがジルヴァンの鼻をくすぐる。
柔らかい、こんなにも彼女は柔らかいのか、と意識がミラに向かったがこれでも腕利きの騎士だ。彼はなんとか意識を子犬と少年に向けた。
「わかった、恐いんだな。大丈夫だ。子犬は噛まないし、この子はあなたをこわがらせるつもりはない」
少年は驚き逃げ惑うミラを見て唖然としていた。
ジルヴァンはおずおずと、彼女の背中に腕を回せば肩で息をしている様が伝わった。
結局、彼女は子犬が居なくなるまでその姿勢のまま動かなかった。かわりに、エウヘニアがその子犬を抱き上げ、事なきを得た。子犬はこの場からいなくなった。
「ミラ……もう子犬はいない」
彼女を見上げて言うと、ミラは恐る恐る顔をジルヴァンの肩口から離した。そしてはっとしたように、今度は彼を突き飛ばした。正しくは、突き飛ばそうとした、である。彼くらいの体躯だと彼女に押されても何ともないのだ。
ミラは周囲を見渡したかと思いきや、ベンチから跳ぶように降りて大きな木の下に座り込んでしまった。
「子犬がいなかったとかかな」
その様子を見ていたらしいジミーが横から声をかけてきた。オリーブが乗ったパンをかじりながら。
「そんな事あると思うか?」
「刺繍やペインティングナイフが駄目なんだよ。子犬も子猫もいなさそうじゃない?娘たちを傷つける危険性があるからって言って」
「まあ、それもそうかもしれない」
木の下で彼女は膝を抱えて座ってはいるものの、視線は落ち着かない。そわそわと、不安そうに周囲を忙しなく見ている。
「でも、どう?柔らかかった?」
「柔らかい?」
「ミラ嬢が」
ジルヴァンは頭の中では頷いたが、ジミーには「黙ってろ」と答えた。
旅路に戻ろうと馬の方に各々が歩き出すと、ミラは立ち上がりばつが悪そうにこちらにやってきた。
「ごめんなさい、取り乱してしまって」
「子犬に触れた事は?」
「……多分、連れ去られる前に」
「そうか。なら、久しぶりで驚いただけだ」
ミラの瞳は不安気だった。
ジルヴァンが何も言わず、その瞳を見つめていると、反らされてしまう。
久しぶりの外の世界ともなれば、慣れるのにも時間がかかるのかもしれない。彼は少しだけこれから先に起こり得る事を憂いたが、ずっと恋焦がれていた相手と添い遂げられるのであれば必要な過程だと考えた。