真新しい服と靴
マイラは軽やかな足が嬉しくてたまらなかった。
エウヘニアの皮のブーツが重かったというのもあったが、自分に似合うものを見繕ってくれた事が何よりもうれしかった。
男あまりの国では自由に服を選ぶのは許されなかった。髪型も、服も、靴も全て国王が美しいと思うものだけしか身につけられなかった。中にはマイラには似合わない華美な服も合ったが、国王が美しいと思えば袖を通さなくてはいけない。
靴屋の店員に選んでもらった革靴はこげ茶色で、決して派手ではなかったけれども自分の足に合う靴を履くというのはこんなにも気分が良い事だなんて知らなかった。
「翼竜の国の騎士様かい。これはこれは驚いたね」
次は服の仕立て屋だった。
赤みがかった木材で造られた衣裳店に入ると、たまねぎを三つ重ねたような髪型をした年老いたドワーフの女が眼鏡から視線を外してこちらを見遣った。
「妻にいくつかドレスを仕立てたい」
妻、と言われた時に彼女ははっとした。そうだ、自分は隣に立っている男と婚姻の契りを交わしたのだと。年老いたドワーフは暫しこちらを見つめてから、読んでいた新聞紙をカウンターに置いた。
小さな爪先は赤く塗られ、十本指全てには様々な指輪が嵌められている。
宝飾品から見るにきっとこの女性が店主なのだろう。
「いつまでに?」
「明日の朝までにお願いをしたい。何着までなら、出来る?」
「二着だね。軽い素材のでいいかい?まさか寒いところに行くって言うんじゃないだろね」
「いいえ。袖の長い服であれば十分だ。毛織の羽織はある」
「お嬢さん、こっちへ来な」
ドワーフの女店主に手招きされ、マイラは大人しくついていった。
ふわふわな毛足の長い赤い絨毯の上に靴を脱いで立つと、ジャガード織のカーテンが閉められた。
金縁の全身鏡から女店主が脚立のような椅子にのぼっているのが見えた。
「こんなサイズの合わない服なんて、辛かろうに」
「替えがなかったので」
「そうかい。明日の朝には新品の、あんたの為の服が出来るよ」
「……私の」
「そうさ、あんたが着ないなら誰が着るんだ?」
マイラには”自分の”という考えがなかった。
「どの色の生地がいいんだい?無地、ストライプ、小花、ダマスク、ドット……」
試着室から出ると、先程のカウンターに見た事もないような柄の生地をいくつも出され、彼女の視界はちかちかと揺れる。
柄のみならず、何種類もの色がそれぞれの生地にあるらしい。
彼女は目を瞬き、困ったようにジルヴァンの顔を見た。どうしてか彼の方に顔を向けてしまったのだ。
なんとなく、彼なら何か言葉をくれるのではないか、と思った。
「好きなのを選ぶと良い」
「好きなもの……」
「あなたが着ていて、心地良く感じるものだ」
「でも、私が好きでもあなたが好きじゃなければ」
そう言うと彼は不思議そうな顔をした。
「俺はあなたがどれを選ぼうと気にしない」
「お、お金を私はもっていないから選ぶ権利なんて」
「ミラに贈りたいんだ。あなたが欲しいと言ったものを、俺に贈らせてほしいんだ」
「まあ、いい夫だねえ」
ドワーフの女店主は並べた生地の近くに手をつきながら頷いた。
「私が、赤いドレスを着たいと言ったら?」
「選べば良い」
結局、マイラは三十分かけて選んだ。
無地のオリーブグリーンとフレンチグレイを一着ずつ選んだ。
「ドワーフは手先が器用で、センスも良い。行商人達からの人気も強い」
「翼竜の国もドワーフはいるの?私の……私が居た国にはいなかったわ」
「多くはないが、それなりに。竜人の背が大きいせいで、サイズを測るのは大変そうだ」
ジルヴァンの笑みが向けられる。
黙っていると強面ではあるが、微笑むと彼の形の良い唇が左右綺麗に上がるのだ。
そして怜悧な瞳の目尻が緩み、優しい印象を与える。
思わずどきり、としたがマイラはそれを隠すように「それもそうかもね」と返事をした。
与えられたものを身につけ続けたせいだろう。
自分の好きなものが何なのかすっかりわからなくなってしまった。着心地が悪い、という感覚はあってもいつしか彼女にとっての正解は国王やその息子たちが気に入るかどうかになっていた。
買い物を終え、宿に戻った時のことである。
宿泊する宿の部屋に限りがあったらしく、一人一部屋取る事が出来なかったようなのだ。
「え、ジルヴァンとですか?」
「……夫婦は一つの部屋で寝るだろう?まあ、夫婦になったとはいえよく知らない男と不安なのはわかる。だが生憎、一人一部屋与えられる程大きな宿ではない。安心してくれ、レディ・ミラ。ジルヴァンは約束を守る」
エウヘニアに肩を叩かれ「大丈夫だ」と言われたが、マイラは不安だった。
男あまりの国から脱出した事で安堵したのも束の間、彼女は自ら受け入れた婚姻とはなんたるかをようやく理解した。夫婦というのは概して同じ部屋で眠るものだし、今後はそれ以上の事が起きたっておかしくない。少なくとも両親が見つかった後だが。
その日の夕食は宿の近くで食事を取った。彼女は概して食事に興味はなかったが、初めての異国の料理に目を見張った。チーズも見た事ない程の種類があった。男あまりの国の祝い事の席で出された料理よりもよっぽどここの料理の方が好きだった。でも一つだけ、どうしても受け付けないのがあった。
「豚の内臓を使ったソーセージだ」
ジルヴァンが手を止めて教えてくれた。
不思議に思いじっと凝視していたのがバレたのだろう。
見た目は確かにソーセージだが、見えた断面は知っているソーセージとは異なっていた。
「ここの国の名物だが、好き嫌いがわかれる。一口、食べてみるか?」
マイラは暫し間を置いてから彼の問いに首を縦に振った。
これまで出された料理はどれも美味しかったから、きっとそれも美味しいのだろうと思った。
ジルヴァンは切ったソーセージを差し出してくれた。口元の高さに合わせて差し出されたが、彼女は彼からフォークを受け取り、自身で口に運んだ。
なんだ、見た目が違うだけで普通のソーセージと変わらないじゃないか……いや、違う。マイラは思わず口を片手で覆った。
「ははあ、ご令嬢はこのソーセージが苦手と見た。俺は大好きだけどねえ、この臭さが」
ジルヴァンよりも年上の騎士が豪快に笑った。
マイラはなんとかそれを飲み込み、口の中の味を消すように水を飲んだ。それでもソーセージの味は消えない。モツの独特な風味が彼女には合わなかった。
「一口酒を飲めば良い」
隣に座っていたエウヘニアにグラスを差し出される。
流石に女王と同じ盃に口をつけるのは畏れ多い。でもどう断れば良いかもわからず、マイラは狼狽した。
「そうか、夫のが良いな。一杯頼んでお前が残りを飲み干せ。あなたが飲めるなら、全て飲んでも構わないが」
エウヘニアは華やかな美女だった。所作にはどこか紳士的な要素があり、洗練されていた。
夫となったジルヴァンよりも、彼女の方が人の好意を惹きつけるのではないか、と思う程に。
彼の元にワインが運ばれると、ジルヴァンは先にマイラに飲ませてくれた。酒はあまり得意ではない。
どっしりとした重い赤ワインは渋く、彼女は思わず目を瞑った。でも喉を過ぎた頃にはソーセージの味は消えていた。
「あの、ありがとう」
「大した事ではない」
食事を終え、宿の部屋に各々戻った。
マイラは先に湯浴みを済まさせてもらい、一人でベッドの上に寝転んでいた。足を床につけたまま、淵に横渡った。
食べ過ぎてしまったようで、少々胃が重い。男あまりの国では食事すらも監視されており、誰も会話をしようとしなかった。でも今日の食事ではジルヴァンは勿論、女王も垣根なく楽そうに皆会話をしていた。
これまでの食事の時間は酷く無機質で、どれも美味しいとは思えなかった。いつも苦痛で、味のしない塊を噛んでいる様な気にすらなった。せいぜい美味しいと思ったのは庭で自分でもぎった果物くらいだった。まだ男あまりの国を出て一日とちょっと。実は全てが夢だったりしないだろうか。野宿をした時もマイラは眠るのがこわかった。目が覚めたらまた、あの檻のような生活に戻るのではないか、と思ったからだ。
その感覚は今日も抜けず、彼女は何度か目を瞑ってみた。目を覚ましても見える天井は違う。自分の顔を抓っても、叩いてみても、痛い。きっと夢じゃないのだ。何度目かに目を閉じた後、マイラは意識を手放した。
「ミラ」
自分の名前ではない。
マイラの意識は深い海の底だが、違うという感覚はあった。
でも、どこかまだしっくりと来る気もした。
「ミラ、起きるんだ。ミラ」
マイラはゆっくりとまだ重い瞼を上にあげた。
視界に男が飛び込み、彼女は思わず飛び起きた。そのはずみでヘッドボードに背中があたる。
国王の何番目かの息子が寝込みを襲いに来たのかと思って、驚いたのだ。彼女の眠気は一瞬にして飛んで行った。
しかし起こしてくれたのは紛れもないジルヴァンだ。彼は両掌をこちらに広げてみせた。
マイラは掛布をかき集めるようにして胸元まで引き寄せた。
「何もしてないし、何もしない。俺が湯浴みを終えた頃には、あなたはぐっすり眠っていた。足だけがベッドに乗り切っていなかったから、少し整えさせてもらったくらいだ。女王に誓う。何もしていない」
ベッドの乱れを見る限り、きっと何もなかったはずだ。初めての行為には痛みが必ずあり、翌日も痛みは残るとマイラは結婚をしたかつての花嫁候補達から聞いていた。痛みも無いし、マイラの初めてはまだ守られている。彼女はひっそりと安堵した。
真剣な眼差しにマイラはこくこくと頷いたが、ジルヴァンは彼女の呼吸が落ち着くまで待ってくれた。
それから「驚かせすまなかった」と言って、側の机にあった朝食を彼女の元に運んでくれた。
「よく眠っていたから、起こすのは悪いと思った。温かなミルク粥を貰って来たから、食べると良い。食べ終えたら、あなたの服を受け取って出発する」
とっくに起きていたのだろう。彼は既に身支度をすませている。
「私、起きるべきだったんじゃ……」
「構わない。女王も誰も気にしておられない。国が倒れ、連れ出したのはこちらだ。突然の環境の変化に疲れているのも当然だ」
それでもマイラは明日からは少しでも早く起きれるようにしよう、と思いながら温かなミルク粥を口に運んだ。
昨日訪ねた衣裳店に向かうと、店は既に開いていた。
店主はまた新聞を読んでおり、マイラ達の姿を見るとそれを同じようにカウンターに置いた。
一面に『男あまりの国、反政府軍が自治を取る』と書かれていた。
齧りついて読みたかったが、時間はない。マイラは店主に導かれるがまま試着室に入った。
「幸せな翼竜だよ」
「え?」
「こんなに美人な花嫁を貰うなんて、そうそうないさ。私にはわかるよ、あんたが心麗しい娘だって」
「そ、そんな。私は決して美人ではありません」
「どーしたらそんな事が言えるんだい?見てごらん、美人と老婆が映っているじゃないか」
顔をあげるように促され、マイラは鏡を見た。
オリーブグリーンの身軽なドレスは、彼女のウエストを自然と美しく見せてくれている。それに何だか顔色もいい。
自分は決して美人ではない筈だ。だって、花嫁候補の中では魔法もいまいちだったし、見た目も国王家族からそこまで気に入ってもらえなかった。結婚していった花嫁候補達は皆、女神の様に美しかった。
「昨日は色々出したけどね、あんたの肌に似合いそうな生地を選んだのさ。うちのドレスは着る者を美しく見せるのをモットーに作ってるのさ。翼竜の国にはたまに行くから、メンテナンスをしてほしかったら来るんだよ。あんたの旦那はいい男だよ、誠実そうな顔をしている。それに翼竜はパートナーをとことん大事にするんだ」
店主に背中を叩かれ、真新しい服に身を包んでマイラは試着室の外に出た。
どこにも寄りかからず、ジルヴァンは店の中で立って待っていた。
こちらに気が付くと彼の両目が大きく開かれ、息をのむ音がした。
「……すごく似合っている。綺麗だ」
手がこちらに伸びかかっていたが、彼はその手を引っ込めて握りしめた。
まじまじと褒められ、マイラは恥ずかしさから唇をかみしめた。
店から出る時に店主はいくつか果物を袋に入れて持たせてくれた。そして出発の時は「幸せになるんだよ」と別れの言葉をかけてくれて、マイラは嬉しくて店主が見えなくなるまで手を振り続けた。
翼竜たちとの旅路は楽しかった。
自由もなく抑圧された日々から解き放たれ、マイラは移りゆく景色を馬の上から眺めた。
会話よりも景色を見る事に夢中になっていたせいで、彼女はあまり会話をしなかった。
それでも時折ジルヴァンが見える景色の説明をしてくれた。渓谷の間に飾られた小さな星、崇高なる魔女の心臓が隠されていると言う天高い教会、岩山の上にある十字架、それらの逸話や伝説を彼はよくよく説明してくれた。翼竜は概して賢く、どんな詐欺師にも騙されないし他人の嘘を見抜くのが得意だという。また、翼竜というのは好き嫌いが激しく、神経質だと聞いていたがジルヴァンはそうではないのだろうか。
「あなただからだよ、レディ・ミラ」
旅の途中の休憩。
青々とした芝生の上に腰かけ、途中寄った小国の市場で買った果物をジルヴァンが切っている。
「あいつは基本的に言葉数が少ない無骨な男だ」
「そう、なのですか」
「ああ。我々翼竜は、一度仲間と認めたら裏切らない。ジルヴァンがあなたを妻として迎えたから、我々はあなたを歓迎しているのさ。でも、彼はまだいい方で、他の騎士はもっと神経質で人の好き嫌いがあるな」
パンを半分に切り、オリーブオイルを垂らしてその上に切ったトマトとチーズをのせる。塩を足して、パンを閉じただけの簡単なサンドイッチだったけれども、十分美味しかった。
「ミラ嬢はどんな日々を過ごしていたの?」
旅を初めて三日。
あと二日もあれば翼竜の国につくが、彼女は一度も彼らに男あまりの国での日々を話したことはなかった。今朝立ち寄った国の市場ですら、男あまりの国が転覆した事の話題で持ち切りだった。国外の者からすれば酷く異質な国だった事が伺える。
「嫌だったら話さなくても良い」
ジルヴァンは彼女を気遣ってジミーを制してくれたが、マイラはこれまでの日々について話した。
「特に面白い日々ではありませんでした。毎日決まった時間に起きて、侍女から教育を受けて。勝手に城の外に出る事は勿論、決められた場所以外の往来は禁じられていました。来客が来た時のみ、広間に出ていました……国王や、その息子たちがやってきては話を聞かせてくれました」
「どんな話?」
幼い騎士の質問に彼女は肩を竦める。
「彼らの武勇伝のような話です。私たちはその時、彼を囲む様に座れと言われているので、彼を囲って、楽しそうに頷くように言いつけられていました」
騎士達の表情が曇る。よほどおかしな日々を送っていたのだろう。自分ではこの日々に慣れてしまったが、やはりおかしいのだろ。
「それ以外の時間は?自由時間とかさ」
「自由時間は……昔は、私が幼い頃は刺繍が出来ましたが禁止されてしまったので、絵を描いていました」
「どうして禁止にされたの?」
「刺繍針を飲み込んで自殺を図った者がいたからです。彼女は発見が遅かったのでなくなりました」
皆の手が止まり、騎士たちは互いに視線を巡らせた。
マイラと同室の花嫁候補の娘だった。彼女よりも年上で、賢くて美しい娘だった。彼女が生まれたという国の言葉での歌をいくつも教えてもらったのを覚えている。太陽の様に明るい娘だったけれども、次男との結婚が決まった日の夕方、彼女は一人部屋に下がり命を絶った。
「そしたらペインティングナイフとかもミラ嬢は使えなかった?」
「ええ、禁じられていました」
「へえ、そうなんだ……」
返す言葉がないのだろう。
青空には似合わない重さを孕んだ静けさが、朗らかな空気を奪う。赤裸々に話さなければ良かったのかもしれない、とマイラは後悔した。穏やかさを彼らから奪ってしまった。
「絵を描くのが好きなのか?」
重さを孕んだ静けさがジルヴァンの声で破れ消える。
視線が再びマイラに集中する。
「え?……ええ。何冊も描いたわ。もう、そのノートはないでしょうけど」
「なら次の街でノートとペンを買おう。あなたはこの間、湖を見た時に描きたいと言っていただろう。次の街の先に綺麗な花畑が見える。そこで一時間程の休憩が取れるはずだから」
突然の提案にマイラは思わず、きょとん、としてしまった。
ヒュウ、と他の騎士が口笛を吹くとジルヴァンは「何だ」と少しだけ目尻を赤く染めた。
少し色を得た空気の中、エウヘニアの不敵な笑みが花を添える。
「良いノートとペンを買ってもらえ。こいつは金を貯めるばかりだったからな」