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翼竜とすみれ色の瞳

 国が本当になくなっていたらどうしよう?


 マイラの目下の不安はそれだった。

 忘れていた記憶が蘇り、彼女の体にべったりと張り付いた後悔が彼女の視線を過去へと向けさせる。それに伴い今は生まれ故郷である賢者の国がなくなっていたらどうしようか、という不安だった。もし国が亡くなってしまったのなら、両親はどこに行ってしまったのか?そもそも生きているのだろうか?両親のその後を知る者はいるのだろうか?でも、もしなくなったとしたら、どうやって国はなくなってしまったのだろうか?まさか男あまりの国に戦いでも仕掛けられて、あらゆるものを奪い国を空っぽにしてしまったのだろか。花嫁候補の中にはそういった娘もいた。だから、起きてもおかしくはない。

 彼女は不安に駆られると髪の毛を触る癖があった。すっかり赤くなった葉をつけては揺らしている木々を窓辺から眺めながら、彼女は髪の毛を無意識に触っていた。そしてどうしてかふいに、ここには居ないはずのジルヴァンに手を握られている自分を想像した。彼はいつも、マイラが髪の毛を触れるとその手を握ってくれたり、背中に手を添えて摩ったりしてくれた。不安に苛まれている時は一人で大きな嵐の中に放り込まれているのと等しいものだった。目の前では時が流れているのに、自分だけが渦の中に取り込まれて、永遠に不安に駆られて行くのだ。それでも、彼が手を添えてくれるだけで、マイラは落ち着くことが出来た。渦が徐々に静まり、彼女を冷静にさせてくれる……。ジルヴァンは、無事に賢者の国の近くにに辿り着くことができたのだろうか。


「あの子は強い翼竜ですから、大丈夫ですよ。スタミナもあるし、何より彼の飛行力は女王陛下のお墨付きですよ。空を読んで上手に飛ぶ子です。国に着いたらすぐに連絡を送ってきますよ、ジルヴァンは妻を愛しておりますから、ね」


 ボジェナに心配をかけてしまっている、とマイラはますます落ち込んだ。

 相手に気を遣わせてばかりでどうしようもない。彼女は自分をそう詰りながら洗面所の鏡を拭った。鏡にうつる自分は男のあまりの国に居た頃よりも少しだけ丸くなっていた。ボジェナやジルヴァンに言わせれば、当時がやせ過ぎだったらしい。痩せすぎかはわからないが、今あの国で着ていた服を着られる自信がないのは確かだった。あの国からジルヴァンの手を取り逃げ出し、ここまでやってきた。なのに自分の魂はすっかり男あまりの国に囚われたままのように思えた。全く違う生活をしているのに、心は過去に向いている。

 攫われてしまった日よりも前の事は思い出せない。どんな日々をすごして、どんな言語を話していたか。両親がどんな声をしていたかも、どんな声だったかも思い出せない。記憶を無くしてしまう程、あの国に囚われてしまった。自分はあの国に奪われてしまった。許せない、許せない。もし叶うのなら、あの男達を、自分の手を引いていった彼らに問いただしたい。どうして、あんなことをしたのか、と。でも、きっと彼らは答えない。彼らはもういない。あの国こそ転覆していったのだ。でも、自分はどうして……マイラは手を止めて鏡の中の自分を見つめた。そしてふいに、洗面器の淵に置いてある銀色のハサミが視界に入った。ジルヴァンが時折、自身の服のほつれを直すときに使っているものだった。

 彼女はそれを手に取り、眺めた。歪に自分がハサミに映る。髪の毛の長い化物のように見え、マイラは何だか自分が忌々しく見えた。


『王子も陛下も髪の短い女はお嫌いですから』

『短い髪の女など女ではありません』


 鮮明に蘇る侍女たちの声を塞ぐように、いいや、彼女たちの顔を斬るようにしてマイラは自身の髪の毛を切ってしまった。ずっと切ったことのなかった長い髪の毛を、バッサリ切ってしまったのだ。髪の毛が洗面所の至る所に散らばる。鏡にうつるのは左右非対称の自分だ。なんてこと!と思ったのと同時にマイラはこれまでに感じたことのない達成感でいっぱいになった。何だか晴れ晴れとしたのだ。雲が頭の中から抜けていくような思いだ。マイラは勢いに任せてもう片方の髪の毛を切った。腰まであった髪の毛はあっという間に胸を隠すか隠さないかくらいの長さになった。質の良いハサミだったのだろうか、髪の毛は一直線に切れている。


「まあ!レディ・ミラ!!」


 なんてこと、と言わんばかりにボジェナが洗濯物を落とした。

 マイラはしまった、と思った。咄嗟に怒られてしまうかもしれない!と。でも、実際は違った。


「切りたいのなら教えてくださいよ!切ってあげたのに!」

「え、あ、切って、くれるの?」

「当たり前ですよ、こちらにいらして!」


 ボジェナは怒るどころかマイラの髪の毛を綺麗に整えてくれた。聞けば、彼女の母親が美容師で、ボジェナも時折店に出て人の髪の毛を切っていたというのだ。切り終わると、彼女は手鏡を差し出してくれた。


「……すごい」

「すっきりしましたね」

「でも、ジルヴァンは怒らないかしら」

「なぜです?」

「彼に聞かずに切ってしまったから……」

「何を仰ってるの、この髪の毛はあなたのものですよ。あなたがしたいようにしていいんです。ジルヴァンがとやかくいう資格はありません。そもそも彼は言わない子ですから。あの子はあなたがどんな髪型をしていようと愛しますから」


 ね、とウィンクを鏡越しにされる。

 マイラは少し気恥ずかしさを感じつつも、立ち上がってボジェナに礼を言った。短くなった髪の毛が肌にあたり、少しだけくすぐったい。しかし心地よいくすぐったさに彼女は一人微笑んだ。


 ◇


 賢者の国近くに位置する夕焼けの国までの道のりはとても楽だとは言い難かった。

 交易の中継地点にもなるここは多くの旅人と商人で賑わっていた。初めてきた国だったが、ジルヴァンはあまりこの国は得意ではないと思った。人があまりにも多すぎる。人だけではない。あらゆる種族が集まっているのだ。国中が活気に満ちているが、大都会にきたような錯覚に陥るのだ。国土面積は翼竜の国よりも小さいのに、密度が高すぎる。魚だったら酸素不足で窒息しているかもしれない、と思いながらもジルヴァンは任務をこなした。

 国民柄なのか、行き交う人々の多さゆえなのか、この国の出身だと思われる者は皆せっかちだった。簡単にいらだったかと思いきや、すぐに笑顔になる。それもまたジルヴァンを混乱させた。


「早く帰りたい」

「奥さんに会いたいってことかよ」

「まあ、それはどこにいてもそうだが」

「ふざけんなよお前」


 同僚は彼に惚気るなと言っているのだろう。

 しかし今回は任務を終えても帰ることはできない。ジルヴァンはこの国につくなりミラに手紙を出した。返事が来ないかと彼は野営地でそわそわと幾夜も過ごした。そしてある夜の遅く、伝達係の小さなドラゴンがテントの中に滑り込んできた。


「飛ぶのが下手だなこいつ」

「そういうな」


 ジルヴァンは伝達係の小さなドラゴンに礼を言って、斜めに掛けていた袋を取った。中には封筒が三つ。

 ミラからの手紙を見つけるのは簡単だった。最も美しい文字を書くからだ。ほか二通をそれぞれの受け取り主に渡し、彼はテントの外に出た。


『ジルヴァン

 お手紙をありがとう。夕焼けが綺麗な国なのですね。でもどうして、美しい景色を悪魔の炎のように喩えたのかしら。不思議です。そういえば、エウヘニアに会ったときに意図的に国を地図から消す国もあると聞きました。私の国もそうなのでしょうか。もし既に知っていたらごめんなさい。追伸、この間髪の毛を切ってしまいました。 

 ミラ』


 読み終わり、彼は「え」と短く呟いた。

 髪の毛を切った?え、そうなのか、と彼は驚いた。急いでテントに戻り伝達係に「帰るな!」と言って、もう一枚買っていた絵葉書にペンを走らせる。明後日までに絵葉書を買わないと、と彼は思いながらミラへの返事を書く。彼は彼女が返事が来てもすぐに出せるように、予備の絵葉書を買っていたのだ。なるべく綺麗な字を書くように意識したが、はやる気持がペンに追いつかない。それにドラゴンの気がかわる前に早くしなくては。ドラゴンがいつ飛び立つかわからない。彼女の手紙への返事を手短に、そして最も大事なことを書き綴った。

『髪を切ったあなたを早く見たい。あなたの笑顔をもっと見つめてしまうかもしれないが、許してほしい』彼は短い手紙を書き切り、再びドラゴンの袋にそれを突っ込んだ。するとドラゴンは待ってました!と言わんばかりに性急に飛び立って行ってしまった。

 任務は順調だった。大きな戦闘が発生することもなく、比較的穏やかで静かな任務だったと言える。

 束の間の休みの日、一緒に任務に出ている騎士達で繁華街に出た時のことだ。この国に住む者は皆、男女問わず目以外全てを覆うような服を着ていた。そういった類の物を着ていないという事は異国からの訪問者ということになる。

 酒場とも食堂とも呼べぬ場所でジルヴァンは二人の男が気になった。一人は自分よりも年上だったが、もう一人はミラよりも若そうだった。青年と呼ぶには幼いし、少年と呼ぶにはどこか大人びている。ジルヴァンが気になったのは、二人の視線のせいだった。何かを探しているように周囲を見やる視線はやけに鋭い。それに何よりも瞳の色がミラと同じなのが彼の意識を惹きつけた。

 不意にその男と目が合う。こちらが先に彼を見ていたのがわかってしまうような目の合い方だった。ジルヴァンは従来決して社交的ではないが、無礼に感じられたかもしれない、と思い謝罪した。


「申し訳ない。同じ異国の者が珍しいと思って」

「別に構いません。どこからですか?」

「翼竜だ」

「わあ、それはすごい。初めて見ました」


 翼竜を初めて見た、という言葉にジルヴァンは驚いた。

 翼竜の数自体は決して多くはないが、珍しいと呼ぶほどの種族ではないのに。青年は少年の方へ視線をやると、少年の瞳は少しだけ興味に輝いた。


「あなた方はどこから、いらしたんですか?」


 ジルヴァンの質問に青年は肩を竦めながら「近くですよ」と言った。

 近く、と言ってもこの国の民ではないだろう。国名を言わないあたり、交流したい訳ではなさそうだった。彼はそれ以上青年らに尋ねはしなかったが、どうにも腹落ちが悪かった。

 店を出ると、太陽の時間は長いらしく殆どの店はまだ開いていた。ミラへの土産物でも買おうかとジルヴァンは繁華街の入り口にあった本屋に立ち寄った。この国だけの本だけかと思ったが、あらゆる国の本が置いてあった。彼でも読んだことのない文字の本が多く並んでいる。ミラが喜びそうな本はどれだろうか、と彼はゆっくりと店内を巡り、一冊の本を手に取った。今日はすみれ色に縁があるらしい。その本もすみれ色だったのだ。表紙からはわからなかったが、随分と年季が入っている。表紙をめくってすぐに目に入ったのは大きな緑の木々だった。その後のページは文字の羅列だった。小説か何かだろう。翼竜の国と言語は似ているようだった。小さな声で一人で発音してみると、ジルヴァンの知っている単語に聞こえるのだ。母音の発音の仕方が違うのかもしれないが、音はよく似ていた。何よりも挿絵が可愛らしかったから、ミラが気にいるのではないかとそれを店主の元に持っていく。


「お目が高いね、お客さん。これは賢者の国の本なんだよ」


 財布から金貨を出しているところだった。


「賢者の国は、まだあるのですか?」

「賢者の国は、もうないな」


 ジルヴァンが首を傾げると店主は耳を貸せ、と手招いた。

 彼がその通り耳を店主に近づけるとこう囁いた。


「賢者の国は雷の国になったんだ。許可された者しか入国できないようにしたんだ。交易も全てうちやめ、どこの国にもその通告はしていない。お妃様の愛娘が男あまりの国に攫われちまったからな」


 店主の言葉にジルヴァンは目を丸くしたくなったが、彼はそれを抑えた。


「どうして、その話を知っているんですか?」

「時々来るんだよ。賢者の国の奴らがな。あいつらの国には紫色の瞳をした者がいる。あの国でねえと生まれない目の色だ。ここら辺で見たら、そういうことだ。旅人のふりをして、大量に物資を買って帰るんだ」


 ジルヴァンは本屋から飛び出て、先ほどの店に戻った。

 しかしあいにく店にはあの紫色の瞳をした青年と少年はいない。あの店主が言ったことが正しければ、あの青年らは賢者の国からやってきている事になる。ジルヴァンは朧げな記憶から青年らの匂いの跡を辿った。香辛料の匂いが彼の方向をくらませる。時折強引な物売りに腕を掴まれるも、彼はなるべく丁寧に彼らの手を振り払い二人を探した。途中匂いが恐ろしく薄くなったが、彼は勘に任せて港に出た。そこには船に乗ろうとしている少年を助ける青年がいた。


「おい、待ってくれ!」


 青年は怪訝そうな顔をし、船に片足を掛けながら待ってくれた。


「賢者の国の人間か?」

「だったら?」

「あなたの国のお姫様を知っている」

「そういう事を言う奴はごまんといた」

「あなたと同じすみれ色の瞳をしている」

「すみれ色だと言って、青紫の瞳の女なら何度も会った」

「いいや、あなたと同じ瞳の色だ。見間違う事はありえない」

「その確証は?」


 青年の瞳はミラと同じようなすみれ色だったが、青年よりも船上からこちらを見下ろす少年の瞳の方が良く似ていた。もっとも瞳だけではなく、顔そのものが彼女に似ている気がしたのだ。瞳だけ見れば、ミラに婚姻を申し入れた時と全く同じだった。瞳の底で燃えるような怒り、こちらへの敵意を感じる瞳だった。


「俺の妻だからだ。男あまりの国の転覆に際して、婚姻を申し入れた。彼女の願いは祖国を見つけること。俺はそれを叶えたい。叶えて、彼女の誕生日を祝いたい。あの国で十二年も生き延びたんだ」

「……それが賢者の国のプリンセスだという保証はどこにあるんだよ」

「俺の鱗を担保として剥いでも構わない」


 翼竜の鱗はかなりの高級品である。

 ジルヴァンはそれをわかっていて、言っているのだ。青年の瞳がきらり、と光る。青年は船上にいる少年の耳に囁くと、少年が青年の耳に囁き返した。従者と雇い主といったところだろう。暫しの両者の相談を眺めたのち、青年がこちらに向き直った。


「では、君の鱗と引き換えに入国許可書を発行しよう。まずは君の鱗を剥がせてもらう」


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