蛾
英司は深夜、飲み物を買いに外に出た。アパートから歩いて3分の、建物に囲まれた狭い公園に自販機がある。ペットボトルのお茶、ファンタグレープ、缶コーヒーの無糖、微糖、エナジードリンクなどが並んでいる中にコーラもあった。百円を二枚入れてボタンを押すと、ガタンと音がして500mlの赤い缶が出てきた。釣銭をポケットに突っ込むと、数字が揃うともう一本もらえる、スロットの間の抜けた音を無視して、隣のベンチに座った。
タブを上げると、カシュッと気持ちのいい音がした。一気に煽ると、炭酸の心地よい刺激が喉に伝わる。残り半分になった缶を横に置いた。はあああ、と息を吐き切り、両手で顔を覆い、うなだれる。ベンチに縮こまった英司を照らすのは、突き刺さりそうなほど細く輝く月と、自販機の白い光だけである。月のきれいな、ちょうどこんな夜は、彼女のことばかり思い出すのであった。
沙耶花は去年の夏、事故で死んだ。その晩は、いつものように、どうでもいいことで英司と喧嘩をしていた。泣きながら部屋を出ていくシーンは、今でもくっきりと思い出すことができる。満月の白い光が当たった長い黒髪と白い肌。黒い大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれて光った。沙耶花は、近所迷惑なんか考えないで、「もう知らない!」と叫んだ。とっさに手を伸ばしたが、ドアは閉まった。
何してんだよ、俺。早く追いかけろよ。どんなに後悔しても、その日の英司が追いかけることは無かった。どうせすぐ帰ってくるんだろ、とふてくされていた。
おかしいと思ったのは一時間後だった。ラインをしても、既読にもならず、そのまま寝てしまおうかと一度布団に入ったが、目を瞑っても沙耶花のことが頭に浮かんだ。謝れば帰ってくるだろう、と思って電話をかけた。
呼び出し音がしばらく鳴ったのち、聞こえたのは、低い男の声だった。何を言っていたのかは、もう思い出せない。事故に遭ったことと病院の場所しか理解できなかった。そのあと、タクシーをつかまえて病院へ急いだ。病院のソファでずいぶん待ったあと、看護師が奥から出てきて首を振ったところで、記憶が途切れている。その後、息をしなくなった沙耶花に会ったはずだが、知らない間に思い出せなくなっていた。
翌日の通夜で、沙耶花の両親に初めて会った。喪服の母親は泣き疲れたような顔をしていた。父親は目も合わせようとしなかった。事情を話すと、なんで、どうして、と何度も詰め寄られた。お前のせいだ、とも言われた。その通りだと、自分でも思う。一か月後、沙耶花の父親から、すまなかった、と手紙が来た。仕方のないことだった、仏壇にも手を合わせてほしい、と書いてあったが、結局行けなかった。真っ黒な額縁に入れられた沙耶花を見ることはできなかった。
記憶を辿っていると、過呼吸のようになっていた。メンタルクリニックで教わったように、時間をかけて、ゆっくりと深呼吸をする。今夜もまた、眠れないのだろう。
膝に手をついて立ち上がり、コーラを飲み干した。ゴミ箱に缶を投げ入れると、ゾンビのようにふらふらと歩き始めた。いつか角を曲がった先に、沙耶花がいるかもしれない、なんて幻想を信じていた。
あてもなく徘徊していると、いつの間にか知らない道に入ってしまった。遠くにぼんやりと光が見える。英司は蛾のように、その明かりに吸い寄せられていった。近づくと暖簾が見えた。居酒屋であったか。中からは、暖色の光とともに若い女性と老人の楽しげな声が聞こえてくる。尻ポケットの財布の中身を確認して、引き戸を開けた。
カウンターの中にいた老人と、その前でジョッキを持った女性は、英司の入店に驚いたのか、動きをぴたりと止めてこちらを見た。
店主と思しき爺さんが申し訳なさそうな顔をして、
「お客さん。悪いけど、もう閉店なんだ。」
と言った。
「じいちゃん、暖簾出したまんまだよ。」
「あ、いけねえ。」
孫娘に指摘され、老人は英司の横を通って、暖簾を外しに行った。
英司は店を出なければならないが、そこから一歩も動けなかった。その女性から目が離せなかったのだ。彼女は沙耶花と瓜二つだった。長い黒髪をひとつにまとめており、小さな額が見えた。白い肌に大きな目、ピンク色の唇はふっくらとしていた。彼女の着ている服も、沙耶花の好みのものと似ていた。髪をかき上げる仕草、足首のあたりで足を組む癖さえ一致していた。
「お兄さん、飲んでいきなよ。」
と言って手招きされれば、断ることは出来なかった。英司は彼女の隣に座った。
彼女はカウンターに入ると、ジョッキにビールを注ぎ始めた。
暖簾を持って、店に戻ってきた老人は
「亜弥香!勝手に入れるんじゃないよ。」
と言った。
英司は、すみません、と言って出ていこうとしたが、亜弥香と呼ばれた彼女は意にも介さず、
「いいの、いいの。今日は酔いつぶれたい気分だから、話し相手になってよ。」
と言って、ビールを差し出してきた。
店主はやれやれといった様子で、カウンターの奥へ入っていった。
亜弥香はこちらへ戻ってくると、
「それじゃあ、かんぱーい」
と言ってジョッキを軽くぶつけて、2/3ほどを一気に飲んだ。英司は苦笑いをした。飲みっぷりも沙耶花に似てるな。
あまり酒に強い方ではない英司は、沙耶花と一緒に飲むといつも先につぶれてしまう。思えば、沙耶花が酒に呑まれたところなど見たことが無かった。
飲みすぎたときに、酔いと吐き気でくらくらする視界の中、心配そうな顔をしていたのをよく覚えている。懐かしい記憶と滲み出てきた涙をビールで流し込んだ。
「お兄さん、仕事は何してるの?」
「食品会社で営業をやってます。」
「へえ、タメでいいのに。かわいい。」
亜弥香はクスクスと笑った。おそらく英司の方が年下なのだろうが、可愛いと言われると子ども扱いをされているようで、ムッとする。
「お兄さん、彼女はいないの?」
亜弥香はつまみをもぐもぐしながら聞いてきた。
「いないというか、その…」
ここで沙耶花のことを、そっくりの彼女に話してしまったら、彼女がまた消えてしまいそうな気がした。何て答えたらいいかわからず、もごもごとしていると、亜弥香が不思議そうな顔をしていた。小首をかしげて顔を覗き込んでいる様が可愛らしい。悩みながらも、事故があった日のことをゆっくりと語った。
話し終えると、亜弥香は眼に涙をためて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。知らない間に後ろの小上がりにいた爺さんは、辛かったなあ、とおいおい泣いている。
英司は話をしている間にビールを二杯も飲み、顔が赤くなってきている。
亜弥香も酔いが回ってきたのか、少し呂律が怪しくなっていた。
「あたしも最近、男に振られたの。」
亜弥香は先月、付き合っていた男と突然連絡が取れなくなったという。噂では何人も浮気をしていたらしい。
「あんなに好きだよって、言ってくれてたのに。」
大きな黒い目から涙が零れ落ちていくさまを見て、あの日の沙耶花の姿と重なっていく。俺が守らなくては。沙耶花を、いや、亜弥香を抱き寄せて、頭を撫でる。
「可哀そうにな。俺が代わりになれたらいいのに。」
亜弥香は英司の胸元から、顔を見上げる。潤んだ瞳とぽってりとした唇が艶やかだ。
英司は亜弥香の頬に手を添えると、軽く口づけをした。
店内には、老人のいびきだけが響いている。
「あたしの家、近くなんだけど来ない?」
こうして、英司は亜弥香に手を引かれていった。
*
暗い部屋の中、英司は裸のままベッドで横になっていた。左腕には、キャミソール姿の亜弥香が、こちらに背を向けたまま頭をのせている。右腕で亜弥香の腰を抱き、まだ少し湿った肌の感触を味わっていた。
「ねえ、いくら前の彼女に未練があっても、あたしのことサヤカって呼ばないでよ。」
「ごめん。俺のことも元彼の名前で呼んでいいから。」
「違うの。そういうことじゃないの。」
そう言うと、亜弥香は英司の腕の中で、ぐるりと寝返りを打った。
「あたしはもう、割り切って生きていきたいの。」
亜弥香は縋るように言うと、英司に抱きついた。亜弥香の髪をなでながら、英司は眠りについた。
夢の中で、英司は夜道にいた。素足からアスファルトの熱が伝わり、遠くに蝉の音が聞こえた。街灯が等間隔に並んでおり、見えなくなるほど遠くまで続いている。歩いていくと、自分のアパートの前、近所の公園の前を通る。道端に花が供えられている場所に来た時、薄暗い道の先から若い女性が近づいてきた。沙耶花だ。あの日と同じ、淡い青のパジャマ姿だった。
「沙耶花、ごめんな。ずーっと会いたかった。」
そう言って、英司は沙耶花の両手をとった。沙耶花は何も言わずにニコニコしている。そっと肩に腕を回した。抱き寄せると、柔らかな身体の感触が伝わる。香水のような、いつもより甘い匂いがした。沙耶花は人形のように、ぴくりとも動かなかったが、それでもよかった。
英司が、いなくならないで、と言ったとき、沙耶花はそっと英司の腕から抜け出した。英司の身体から沙耶花が離れていく。突然のことであったが、驚いたのはそれだけじゃなかった。いつの間にか、沙耶花はボロボロと涙を流していた。まるで、あの日のように。
「私のこと、忘れないで。」
沙耶花は泣きながら道を引き返していった。英司が全力で追いかけても、沙耶花はどんどん遠くに行ってしまう。水色のワンピースは白い点になって、やがて暗闇へ消えていった。
英司は目を覚ますと、亜弥香の部屋にいた。隣には沙耶花とは似ても似つかない女が眠っていた。沙耶花はもっとまつげが長いし、髪はつややかで、口も鼻も小さい。抱きしめると照れたように笑って、遠慮しながら甘えてくる。もっとちゃんとしていて、出会ったばかりの男を部屋に入れたりしない。俺にはもったいないぐらい、いい娘だ。
英司はそっと起き上がって服を着た。ワンルームの小さな玄関で靴を履いているときに、一度だけベッドの方を振り返った。ベッドの中の亜弥香は、こっちに背を向けて眠っていた。微かに寝息が聞こえる。扉を小さく開けて、身体を滑り込ませるように外へ出た。
昼前の柔らかな日差しの中、昨日の記憶を頼りに歩いていくと、あの公園に着いた。枯れて乾涸びたユリの花が、地面に落ちていた。
家に帰ると、沙耶花の写真を抱きしめて、もう一度眠った。
今夜もまた、眠れなくなって飲み物を買いに行くのだろう。