メロディーに誘われて
大きな窓から午後の陽が差し込む部屋の中、俺は書きかけの楽譜を宙に投げ捨てた。
面白くも美しくもない旋律とは裏腹に、ひらひらと優雅に舞い落ちて、大理石の床に広がる。
グランドピアノの鍵盤に、だらりと突っ伏すと不協和音が小さく響く。そのまま鍵盤を拳で叩きつけたい衝動にかられたが、寸前のところで踏み止まった。
高校三年生の時に作った曲で大きな賞を受賞した俺は、周囲から反対されても大学には進学せず、そのまま音楽の世界で生きていこうと決めた。
そして、心から止めどなく湧き出て、こぼれそうなほどの量の旋律を逃さないために、ピアノと楽譜に向きあう日々を送ることになる。
幸いにも、ドラマや映画の劇中曲の製作依頼が多く舞い込み、「職業 作曲家」として食べていけるだけの収入もあった。
二十代前半までは飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍し、大手企業のコマーシャルに起用されると、自分が作った曲が世間で流れない日はなかった。
だから、そのまま順風満帆に、この業界で生きていけるのだろうと信じて疑わなかった。
しかし、二十五歳の誕生日を迎えた頃だっただろうか。心の中で音楽が生まれなくなり、頭でひねり出すようにして曲を作り始めた。
ちょっと疲れてるのだろう、スランプというほどのものではない、そんなふうに甘く考えていたが、日を追うごとに自分の中から音が消えていく恐怖は大きくなっていった。
そして、二十七歳の誕生日を過ぎた現在、とうとう頭の中で曲を作ることさえ困難になってしまった。定石のメロディーラインをアレンジしたような張りぼての曲しか生み出せない自分に辟易する。
独身、彼女なし。タワーマンションの一室で、ひとりでピアノに向かい続ける日々。最初は高揚した高層からの景色にも、いつの間にか何も感じなくなっていた。
ある時、少し環境を変えてみてはどうか、と親子ほどに歳の離れた友人からアドバイスを受けた。そして、閑静な住宅街にある一戸建てを格安で譲ってもらうこととなった。
その友人も多くの名曲を世に出している。
まだまだ現役で通じる人だ。その気になれば第一線で活躍できるはずだが、現在は仕事を厳選し、夫婦仲睦まじく保養地で半隠居生活を楽しんでいるそうだ。
成功者が所有する物をもらい受けると恩恵がある、と聞いたことがある。
そんなジンクスにすら縋りたい状態だった俺は、ひとりで住むには広すぎる家で暮らし始めた。
恩恵なのかどうかは分からないが、引っ越してからすぐに、満足のいく曲が久しぶりに完成した。わりと大きな仕事だったため、流れていた引退説の噂も払拭することができた。
しかし、それも長くは続かず、また音は消えてしまった。
家具付きで購入したこの家には、友人家族の温かな団らんの気配が残っている。ひとりきりで、ここで暮らしていると、さらに孤独を感じてしまうようになった。
こんな精神状態では、自分も他人も満足するような曲が作れるわけがない。
そう頭では分かっていても、ここから抜け出す方法が分からない。
(もういっそのこと、このまま――)
前も後ろも見えない暗い道に迷い込んだような気分になり、大きく首を振った。
少し外の空気を吸いに行こうと、コンビニに行くような格好でサンダルに足を入れる。そして、重厚な門扉を開けて私道に出ると、街の様子がおかしいことに気づいた。
周囲がやけに静かだ。
平日の昼過ぎは、買い物帰りに世間話をする主婦の声や、公園や学校から聞こえる子どもがはしゃぐ声で溢れている。しかし、今日はそれが聴こえない。
まるで、街から音が消えてしまったようだ。
一瞬、自分の聴力の不調かと思い、背筋が寒くなった。
しかし、どこからか若そうな女性の鼻歌と、拙くピアノを弾いているような音が聴こえ、強張った肩から力が抜けた。
(……少し音痴だな)
ふだんなら、ずれた音は不快に感じる。しかし、今は思わず口元が緩んだ。
世界に音があることにホッとしたのだ。
歌にもピアノの音にも、あれほどうんざりしていたのに。
(どこから聴こえてくるんだ?)
耳をすますと、わりと近いように感じる。
(――あの角のあたりか)
少し先に小さな十字路がある。
道が交差する場所に立って左右に視線を向けると、右側の道だけ異様な世界が広がっていた。
「何だこれ!?」
思わず、大きな声が出た。
道いっぱいに白の横線と、それより少し短い黒色の横線が交互に塗られている。まるで、ずっと遠くまでピアノの鍵盤が続いているように見えた。
いたずらにしては、手が込みすぎているのではないだろうか。左側の道は、普通の灰色のアスファルトだ。
もう一度、右側に視線を戻すと、やはりおかしな道が続いている。目の錯覚ではないようだ。
呆然と立つすくんでいると突然、スキップやケンケンパと子どもが遊ぶように、楽しげに跳ねる女性が蜃気楼のように現れた。
ウェーブがかった腰まである長い黒髪と、ノースリーブの白いワンピースをふわふわと揺らして、リズミカルに先へ先へと進んでいく。
少し音程がずれた鼻歌を口ずさみながら。
(さっき聴こえてきた鼻歌は、この女性の――)
どのような仕組みになっているのか、彼女が踏んだ場所はピアノの音が鳴っている。
彼女が足で奏でているのは、聞いたことのない不思議なメロディーだった。
(童謡じゃない。クラシックでもジャズでもないな……)
どうやら彼女が即興で奏でているようだ。音はずれているが、なぜか心地の良いメロディーだ。
不可思議な道に思い切って踏み入ると、「ドー」と低い音が鳴った。自分にも音が出せるらしい。もう一歩進むと、「レー」と鳴る。
久しく感じていなかった、くすぐられるようなイタズラ心に似た感覚がじわじわと湧いてくる。
(彼女が奏でている曲をアレンジ……いや、連弾してみたい!)
俺は無意識に口角を上げ、彼女を追いかけるようにステップを踏み始めた。
彼女が奏でるメロディーに合わせながら大股で近づいていくと、彼女は驚いたように足を止めて振り返った。見た目からすると、二十歳前後だろうか。
(うぉ、想像してた以上に可愛いな……)
思わず見とれていると、彼女が怪訝な表情を浮かべた。
(あ、やばい。変質者だと思われてるのかも)
「えっと、大丈夫! 怪しい者じゃないから!」
俺の言葉を聞いた彼女は、眉を寄せたまま小首を傾げた。
(あー、「怪しい者じゃない」なんて言う奴は一番怪しいだろ……!)
どうするか……と考えあぐねて、本当のことを伝えるのが最善策だと思った。
「怖がらせてごめん! でも、君のメロディーに惹かれて来ただけだから。この距離以上は近づかないって約束する! だから、さっきの曲の続きを聴かせてほしい。それと……もうひとつだけ、わがままを言うと君と連弾しても良いかな?」
空を見上げながら少し考える仕草をした彼女は、声を出さずに小さくうなずくと、後ろ向きに数歩ステップを踏んでから、また前を向いて進み始めた。
(声が出せない? 耳は聴こえてるようだけど……)
「あ、やばい! 見失う!」
音楽家の中でも、ストレスや病から一時的な失聴や失声は珍しいことではない。
そんなことを考えているうちに、どんどん間隔を離されてしまった。
慌てて彼女を追いかけながら、同じメロディーを奏でる。不規則なステップを踏む彼女に合わせるのは骨が折れた。
しかし、超絶技巧と呼ばれる難曲を弾きこなせた時よりも心が躍る。
(あ、道が途切れる……)
次の十字路が見えると、そこで鍵盤が途切れていることに気づいた。
最後に、鍵盤の上を指で滑らせて弾くグリッサンドのように走り抜けた彼女は、両手を後ろで組んでピョンッと振り向いた。
そして俺と目が合うと、可愛らしく満面の笑みを浮かべ、十字路の角を曲がって走り去ってしまった。
「ま、待って!!」
引きこもりで、運動不足の体を恨む。
鍵盤になった道をようやく抜けた時には、彼女の姿はもうどこにも無かった。
振り返ると鍵盤も無くなり、どこにでもあるようなアスファルトの道路に姿を変えていた。
いや、これが本来の姿なのだろう。
しかし――、不思議な体験だった。
「狐に化かされる」など、田舎の祖母から迷信のような話をたくさん聞いて育ったためか、俺は人よりも不思議なものを信じられる質だ。
こんなことも時にはあるのではないか、と両手で頬を叩きながら納得する。
(あっ! のんびり浸ってる場合じゃない。今の曲を楽譜に!)
早歩き、小走り、全速力とスピードを上げながら自宅に戻ると、グランドピアノが置かれている部屋に飛び込んだ。
そして、心の中で鳴り響く軽やかな音色が消えてしまわないうちに、まっさらな五線譜に彼女と奏でたメロディーを書きなぐった。
こんなに乱暴に書かれた楽譜は、おそらく俺以外は読めないだろう。
最後の一音を書き終えると、汗ばんだ手で鉛筆を置いた。
そして、深呼吸をしてから鍵盤の上で指を踊らせる。彼女と一緒にステップを踏んだ感覚を心に描きながら。
(できた……! この曲だ!!)
弾き終わると鼓動は忙しなく、息も切れて汗だくになっていた。
しかし不思議なことに、なぜか自分が弾くと、軽やかというよりもずいぶんと情熱的な曲になった。
メロディーラインは間違いなく再現できているはずなのに、どうしてだろうと考え、ひとつの答えが浮かんだ。
(あぁ、そうか。俺はまだ彼女を追いかけたいのか)
指が……いや、全身が震えた。
何とも言えない感情が体の中で暴れている。
思わず楽譜を抱きしめて下を向くと、一粒二粒と涙がこぼれ、しだいに止まらなくなった。
曲が作れないと気づいた時、荒れて酒に逃げたりはしたが、涙が出たことは一度もなかった。
しかし、今は止めたくても止まらない。
楽譜だけは濡れないように、しっかりと腕の中に抱き込んだ。
また彼女に会いたい。
できることならば、こんなふうに彼女を強く抱きしめてみたい。
そんな思いに激しく心を揺さぶられて、心臓が焼かれるように痛い。
(恋って、こんなに厄介なのか……)
二十七歳にもなって、しかも、おそらく人ではないだろう相手が初恋の人だなんて、冷静になると笑ってしまう。
しかし、こればかりはどうすることもできないのだろうと、初めての感情ながらも理解できた。
あの十字路に行けば、また彼女に会える日が来るのだろうか。
彼女の笑顔と後ろ姿に想いをはせながら、会いたい、次は声を聴いてみたいと強く願った。
そして、予感がする。
彼女との出会いでスランプは抜け出せるだろうが、今度は甘いメロディーに心を侵食されてしまうかもしれない、と。
しかし、それはとても心地よく、とろけるような悩みになるだろう。
きっと俺はこれから、声も名前も知らない、人かどうかすら分からない彼女へ向けたラブソングをいくつも生み出していく。
その曲を、いつか彼女は聴いてくれるだろうか――。
久しぶりに小説らしい形の作品を投稿することができました。