4・2 婚約指輪ですが
ひらひらと飛んできた蝶に向かって、エドが指を向ける。と、蝶がとまった。
密やかに笑うエド。
「魔法?」
声を押し殺して尋ねる。
「いいや」とエド。
ふわりと飛び立つ蝶。
「魔法で大量に集めることもできるが?」
「それはいいわ」
魔法でなんでもできるエド。そんな彼に以前、国内に蔓延している疫病を収めることができるかを尋ねてみた。でもそれは、できないらしい。
『病人をひとりひとり治すことはできる。だけれど一度に疫病を終息させるのは、俺とて無理だ』
ということらしい。
世間が大変なときに、わたくしだけ穏やかな日々を送ってもよいものなのかと、良心がとがめてしまう。だけどそう言ったらエドは、
『リリアナは生け贄として、災厄の竜を鎮めるという大役をこなしている最中じゃないか』と笑ったのだった。
なんでもできる魔術師様は、疫病を終結させることはできないけれど流行らせることは簡単にできるらしい。
『そんな意味のないことは、やらないけどな。だが必要となれば、いつでも』
『必要なときって?』
『不届き者どもが俺の地を荒らしたとき、かな』
エドは谷底を『俺の地』と呼ぶ。底といってもかなり広く、都と変わらないほどの面積があるらしい。だけれど地上に通じる道はなく、ここに入るためには垂直の崖を降りるしかないそうなのよね。
エドは迫害をされてここに住むようになったのかと思ったけど、どうやら違うらしい。その理由は教えてくれない。――呪われた理由も。
フォークとわたくしのふたりで作った軽食を取り出す。パイ生地を練るところから始めたキッシュ。スプーンが小川で釣ってきた新鮮な魚と、ナイフが育てているオリーブのマリネ。わたくしがひとりで焼いたクッキー。
野菜がたっぷり入ったキッシュを口にして、エドが
「うん、下女はいい仕事をしている」とにんまりする。
「料理することがこんなに楽しいとは思わなかったわ」
「魔法なら一瞬なのに」
「疲れているときにはいいわよね」
「そうだな。――手作りにはこういうスリルもある」
エドがペッと口の中のものを手のひらに出した。指輪だ。わたくしの。
「いやだ! 気づかなかったわ! ごめんなさい」
「料理をするときは、指輪を外すことを勧める」
「そうするわ。本当にごめんなさい」
指輪をはめようとして――手を止めた。
ここへ来たときに着ていた服とつけていたアクセサリーはすべてしまいこみ、一度も身につけていない。だけどこの指輪だけは外さなかった。とても大切なものだから。それなのにわたくしは、これが失くなっていることにまったく気づかなかった。
「どうかしたか」とエド。
「これは婚約指輪なの。ガエターノ様に捨てられたのにわたくし、外したくなくて――」
「俺がもらう」
ひょいとエドが指輪を取る。
「いいか?」とわたくしの顔をうかがうエド。
「――いいわ」
胸の奥が痛いような気はするけれど、嫌ではない。
エドが振りかぶる。
指輪は彼の手を離れ、ゆるやかな曲線を描いてぽちゃりと泉に落ちた。
エドがわたくしを見る。
「きっとこれでいいのだわ」
わたくしがそう言うと、彼はわたくしの手をとり、ちゅっとキスをした。
感じていた痛みが消えて、手に熱を感じる。
泉に到着したときにガエターノ様の名前が口をついて出たけど、このところ彼のことを考えることはない。わたくしは毎日が楽しい。
以前はいつも、これ以上ガエターノ様に嫌われないようにと彼の顔色をうかがっていた。冷ややかな視線に胸をえぐられ、侮蔑の言葉に傷つき、どうすれば以前のように優しくしてもらえるのか、そればかりを考えていた。
だけれどガエターノ様は、陛下たちが視察のために城を出るとわたくしをますます嫌ったのだった。
思い出してまた胸の奥が痛くなる。
エドがぶつぶつと呪文を唱える。するとどこからともなく掌サイズの光の珠がいくつも集まってきた。
「これはなに?」
「よく見てみろ」とエド。
光に顔を近づけてみる。すると中には背中に蜻蛉の羽が生えた人のような姿が見えた。
「精霊だ」とエド。「会話はできないが、簡単な意志疎通はできる。崖上に生け贄が来たことを知らせてくれるのはこいつらだ」
「まあ。わたくしの恩人なのね。皆さん、ありがとう」
「綺麗な光景だろ?」
「ええ。でもどうして呼んだの?」
「リリアナが落ち込んでいるから」
エドはそう言って、片手に持ったグラスを下に向けて傾けた。果実酒がこぼれるーーと思ったらそれは無数の小さな雫となって空中にとどまった。精霊たちがそれを両手に抱えて去っていく。
「あいつらには酒は作れないからな。嗜好品といったところだ。力を借りたら礼をする。そうでないときも礼を尽くす。付き合いの基本だな」
「わたくしがもっと魔法が使えるようになったら、彼らを呼べるようになる?」
「百年はかかるぞ」エドが笑う。
百年後にわたくしはきっと存在しない。
だけれどエドは――。