1・1 生贄になるはずが
馬車の扉が外から乱暴に開けられた。険しい表情の兵士が
「降りろ」
と、ぶっきらぼうに命じる。
王宮の、だけどその中では最低グレードの馬車を降りた。
目の前に広がる大部分は空で、残りは空に向かっていく地面だ。途中でぶつりと消えるそこは崖になっているはず。
「歩け」
そう言った兵士に槍の柄で背中をこづかれる。
あんまりな扱いだわ。きっと、次期国王である第一王子に捨てられた令嬢なんかは、粗雑に扱っていいと思っているのね。彼らは殿下の直属隊だから。
悲しいけれど涙は出ない。もう枯れ果てたもの。頬とお腹の痛みだけはきのうよりも増していて、つらい。
震える足を心の中で叱咤しながら崖に向かう。あの下には災厄の竜が住んでいるという。わたくしはその生け贄になるのだ。民のために。勇気を奮って、自分で飛び降りなければならない。
竜に食べられるのは痛そうで怖い。だけど、生きていても仕方ない。最愛の人にお前なぞいらぬと言われてしまったのだから。彼に必要とされないなら、死んだほうがいい。
「そこのお前」
惨めなわたくしの死が、国民の幸福につながるというなら、これほど嬉しいことはないわ。誇りを持って死のう。
崖の下からビュオウビュオウと強い風が吹いてくる。生け贄の証としてつけられた白いヴェールが飛んでいきそうで手で押さえる。
「そこのお前。呼んでいるのだが」
先ほどより近くで声がした。
「わたくし?」
振り返る。すぐ後ろ、三歩ほどのところに灰褐色のローブ姿の男が立っている。肩にかかる癖の強い髪は見たこともない深緑色。瞳も炎のように赤い。顔の左半分はケロイド状でかなり崩れている。火に焼かれた跡みたいだ。
これほど目立つ男は兵士の中にはいなかった。
いえ、そもそも兵士はどうしてこの男がわたくしに近づくのを黙認しているのだろう。
そう不思議になって彼の背後に目をやったけど、兵士も乗ってきた馬車も消え失せていた。
首をかしげる。
引き上げる気配が風で消されて、わたくしは気づかなかったのかしら。だけどわたくしが飛び降りるのを確認せよと、殿下から命じられていたはずなのに。
「そうだお前だ」と男。「どこの娘かは知らぬが、俺の話を聞け」
「失礼しました。わたくしは災厄の竜の生け贄ですが、なにかご用でしょうか?」
「飛び降りたら死ぬぞ」
「ええ、生け贄ですもの。死ぬことはわかっています」
「そうじゃない。普通に墜落死する」
「竜は生者よりも死体がお好みなのですね」
墜落死と生きながら食べられるのなら、前者のほうが怖くなさそうだわ。死ぬのは一瞬で済むにちがいない。良かった!
「……お前はバカなのか? そんな反応は初めてだ」
男のバカという言葉に、きのうの出来事がフラッシュバックする。胸が苦しくなるのを深呼吸してやり過ごす。
「お前は生け贄にはなれない」と男。「なぜなら災厄の竜なんてものはいないからだ」
「え、でも」思わず崖を振り返る。「古来より災厄の竜に生け贄を捧げると、国を襲っていたあらゆる厄災が払われるとの伝承があります」
「作り話だ。生け贄を出したのに何も変わらなかったなんて、王家の面目が丸つぶれだろ。偶然状況が良くなったときだけ吹聴して、ダメだったときは『生贄が逃げたせいだ』と嘘をつくのだ」
「……作り話ならば今、国内で猛威をふるっている疫病は……」
「竜は関係ない。お前がそこに飛び込んでもムダだ」
「そんな。だけど――あなたのお話が作り話の可能性もありますわよね?」
「そんなことを言われるのも初めてだ」
男は突然自分の髪を抜いた。それを投げて、聞いたことのない言葉を呟く。次の瞬間、彼のとなりに巨大な竜が現れた。深緑色の硬そうな体、炎のような瞳。
「このとおり」と男。「災厄の竜と呼ばれるものは、俺が作った幻だ。物理的な攻撃はできるが病気を流行させたり、天変地異を起こす力はない。信じたか」
「あなたは……あなた様は魔法が使えるのですか」
魔法はかつて存在したと伝えられている。でも誰もがそんなものはお伽噺だと思っている。魔法よりも災厄の竜のほうが、わたくしたちにとっては現実だった。だけど目の前で竜が造られたのをわたくしは今、この目で見た。
魔法はお伽噺ではなかったのだわ!
「まあな。俺は魔術師だ。で、お前、名は?」
わたくしは白いヴェールを外した。
「リリアナ・バジェット。バジェット公爵家長女です」
「で、第一王子の婚約者か」
「どうしてそれを?」
「兵士たちが話しているのを耳にして、覗いてみた」
覗く? どういうことかしら?
首をひねるわたくしをよそに男――魔術師様はまた聞きなれない言葉を口にしながら、人差し指で空中になにかを描いた。
ブンッと音がして目の前に王宮の礼拝堂の内部が現れる。半ば透けていて、その向こうに魔術師様や景色が見えた。
「これは――」
「きのうの疫病撲滅祈願礼拝」
彼の言葉に心臓がドクリとする。
確かに祭壇前に司教の背が見える。そう気づいたとたんに祈りの言葉が聞こえてきた。