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何を言われているのだろう。

毒草と知っていて、マントの下から除く唇できれいな弧を描きながらその植物を見る女は、未知の生き物に見えた。


「ちょ、ちょっとあなた!ディアさまを離しなさい!」


呆然としてしまったアクセルは、うっかり彼女の手をつかんだままだった。

怯えを含みながらも強く非難するもう一人の若い声に、慌ててその手を離した。

とっさだったので強くつかみすぎたのではないか、と眉を寄せてにらむようにディアと呼ばれた彼女の細く白い手首を見ていると、彼女はその視線に怯えた様子もなく、「リジー、口を慎みなさい」ともう一人をたしなめた。どうやら彼女の方が身分が上のようだ。


「でも突然触れるなんて・・・」

「あ・・・、それは、すまなかった」


納得ができなそうにディアとアクセルの間に割り込み、にらみつけるリジーに素直にアクセルが謝罪をすると、ディアがリジーを押しのけて頭を下げた。


「失礼しました。あなたは心配をしてくださったのですよね」


そういってまたまっすぐに顔を上げる。アクセルの方がずいぶんと背が高く、見上げる形になったために、マントが後ろにずれ、色白で卵形の顔がはっきりと見えた。

その瞬間に息を呑む。

見たことがないほどに美しい女性の、桜色の唇から白い歯がこぼれた。


「でも大丈夫です。わたくし、毒草には精通しておりますので、あぶないものはわかります。そもそも、ここには毒草採取に参ったので。なにせ馬車に揺られている最中、ずっと外を見つめておりましたらこの森はどう見ても毒草の宝庫でした。たまらずに馬車を停めていただき、ここで散策して毒草摘みしていたのですよ」

「・・・え」


何を言っているのか。

ここが魔物が出た森だと知らないのか。いや、そもそも毒草摘みってなんだ。花摘みのように気軽にいう話なのか。


アクセルの頭は混乱した。


「ディアさま!そういうのはだから、見知らぬ人に言わないでください!こんなところにいきなり一人でいて、見るからに不審そうな男に!」

「あら、いけない」

「いけないじゃありません!」


キッとリジーがアクセルをにらみつけた。そんな反応も珍しく、アクセルは気圧される。


「いいですか!あなた!ここでのことを誰にも話すんじゃありませんよ!」

「わ、わかった」

「だいだいどこから湧いて出たのですか?ほとんど人通りがないと御者に聞いていたのに、馬の声もきこえなかったですし」

「それは・・・」

「まあまあ、リジー。そんなこといいではないの。彼は親切にも毒草だと教えてきてくれたのよ。悪い人ではないわ。毒草にも詳しそうですし素敵ですわね」

「は・・・?」

「そうだわ、このあたりの植物に詳しいのかしら?ほかにどんな毒草があるかご存じ?」

「は・・・?」


ぱちん、と手を合わせてニコニコと笑うディアを、リジーが「駄目ですってば!」と叱っている。


「どうして?こんな自由はこの旅限りなのよ?」

「・・・それは」

「ねえ、あなた?もう少しこの森を案内してくださらないかしら?」


どうやら事情があるらしい。

うふふ、と笑う彼女はどこかの貴族だろう。それほどの気品にあふれていた。


「だが、ここはあまり安全ではない」


そうは言っても魔物の森だ。今はなりを潜めているが、いつまた湧いてくるのかも予測がつかない。


「ほらやっぱり!ディアさま、もう戻りましょう」


ぶるぶると身を震わせるリジーに対し、ディアは不服そうだ。


「こんなに宝の山なのに・・・」

「その、魔物が頻繁に出てきた森だから、瘴気が濃いんだ。だからよくない植物が多く生えている。あちらのツルも、その手前の白い粉をふいている葉もそうだ。植物は魔物の血を浴びると簡単に変異してしまう」

「「魔物?!」」


その言葉にリジーは震えあがり、ディアはキラキラと目を輝かせた。


「まあまあ、こんな森のはずれまで魔物が出ていたのですか?」

「知らないのか?」


魔物が森の外で暴れていたというのは有名な話だ。では彼女は中央の貴族なのだろう。

民を見ず、ただ自分たちの財産や名誉のことだけを考えていた彼ら。それを心底軽蔑していたアクセルだが、それでも彼女の無邪気な顔を見ていると、不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。


「世間知らずで申し訳ありません。ここ何年も外に出たことがなかったもので」

「なんだと?」

「ディアさま、余計なことを言わないでください」


リジーが即座にたしなめたが、ディアはまだ無邪気にほほ笑んでいる。


「いいではないの。わたくし、どうせ、もうそう長くないのですから」

「・・・どういうことだ?」

「そうですわね、この森の毒草のことをもう少し教えてくださったら、教えて差し上げますわ」


うふふ、と笑うわりに物騒なセリフだった。


「毒草・・・」

「わたくし、毒草を観察することが趣味なんですの」

「趣味・・・」

「お父様が残してくださった毒薬に関する資料を読み解くために見られるだけの本を読み漁ったのですが、やはり実物にはかないませんわよね」

「どういう父親なんだ?」

「そうですわね・・・優しい方でしたわ。とても頭がよくて、私を大切に思ってくださっていました」


貴族の娘に毒薬の資料を見せる時点でとてもまともとは思えないが、ディアはにこにこと笑っている。その微笑みに凝りはない。


「さ、親切なお方、少しこの森を案内してもらえませんか。哀れな女の最後のわがままですわ」

「最後のって」

「あっ、そうですわよね、あなたには関係のないことですもの。すみません、少し浮かれすぎたようです」


突如しゅん、と首を垂れたディアに、アクセルは困惑した。


「あなたは俺が怖くないのか?」

「怖い?なぜですの?あなたは親切にもわたくしに忠告しにきてくださったのでしょう?」

「それは・・・そうだが。いきなりこんなでかいやつが来て驚かれないのは初めてだ」

「私は驚きましたが」

「そうだよな、すまない」

「まあまあ、あなたはとても良い人なのですね」


むっと主張するリジーに素直に頭を下げたアクセルに、ぽんとディアが手を叩く。


「親切をしようとして驚かれることに傷つくのは当然ですのに、それよりも人を慮ることができるだなんて」


アクセルはぎょっとした。

姿を見せるたびに「きゃあ!」と甲高い悲鳴をあげられることを「傷つく」と表現した女性は初めてだったし、良い人と初対面で評価されることも意外だった。

にっこりと美しい顔に企みの見えない微笑みを浮かべるディアに、じわじわと顔に熱が集まってくる。

照れ屋な彼の性質が家族以外に素直に出るのは珍しかった。


「あら、どうされましたの?お顔が真っ赤ですわよ」

「こ、これは!別に!」

「ディアさまに恋慕しても無駄ですよ」

「そっ、そういうつもりではない、んだが・・・」


あたたかなディアの声音と冷たいリジーの声音に、アクセルの感情は行ったり来たり忙しい。

しょんぼりと肩を落とすアクセルの姿は、大型犬がうなだれているようだった。


(まずいな、誤解されてしまう)


こんなにも美しい貴族の娘がこんな辺境の地で怪しげな男に好意を持たれたら怖いだろう。

常に女性には優しく、紳士たれ、と騎士団の先輩たちに言い含められてきた素直なアクセルは、「あー」とか「うー」とか繰り返し、ようやく意を決したのかまじめな顔で言った。

そのまじめな顔が無表情で余計に怖がられる原因なのだが、彼としてはへらへらと軽薄な表情を見せるべきではないと思ってのことだ。


「俺は、あなたに危害を加える気はない」


きょとん、とディアの目が丸くなった。それからまたにっこりとほほ笑む。


「ええもちろんですわ。あなたからは危険な意思が感じられません」

「そっ、そうか・・・わかってもらえたならありがたい」

「ディアさまは甘すぎます。どうせ毒草に詳しい人はいい人とか思っているんでしょう?


リジーのあきれた声にアクセルもさすがにそれはないだろう、と内心思う。毒草なんてろくでもないことを企むやつが詳しいのが関の山だ。

するとディアは「もちろんそんなことないわ」とほわほわとした声で否定した。


「毒草に詳しいだけなら放っておいたでしょうけど、彼はわたくしを心配してくださいました。だから良い人と申し上げたまでです」


単純な理屈に、アクセルは彼女が少し、いや、だいぶ心配になった。

人助けされたら誰でも信用してしまいそうな危うさがある。


「俺が言うことではないが、その・・・もう少し危機感をもったほうがいい。あなたはか弱い女性なのだから」

「もっと言ってあげてください!」

「!!?」


突然の援護射撃にアクセルは驚く。


「そうなんです。ディアさまったら、世間知らずなんです。世の中はもっと汚いものにあふれているのに」

「あら、わたくしは世知辛い世の中を知っていてよ?」

「そういうことじゃなくてですね。もっと自分以外に警戒心を持ってください。だいたいこの人なんて怪しさ満点でしょう。なんかいきなり出てきたし!私たち女性2人なんですよ!物取りだったらなんの抵抗もできなくて殺されてもおかしくないんですよ!?」

「・・・あなたは健全な危機感をお持ちなのだな」

「当たり前です!ディアさまを守るのが私の役目なのですから」

「そうか・・・」


では早くこの森から出た方がいい。

そう続けようとしたアクセルの耳に、またしてものんきなディアの声が届いた。


「うふふ、わたくしは運がいいのですわ。だってこうして求めていた知識を持つ良い方に出会えたのですから」

「だから良い方って決めつけるのはよくないと」

「では悪い方なのですか?」

「いや、違うが」

「ではよいではないですか」

「ディアさま、こんな得体のしれない男性を信用するんですか」

「そうだな、それが正しい反応だ」

「ほらごらんなさい!やっぱり怪しいじゃないですか!」

「い、いや、俺はこの領地の・・・」


そういえば名乗ってなかったとアクセルが告げようとしたとき、ディアはアクセルの前に指を一つ立て、そして、しーっとするように自分の桜色の唇に当てた。

そのしぐさにアクセルの胸がどきりとする。


「どうぞお名前は名乗らなくて結構ですわ。わたくしも名乗れる立場ではございません。この一時の出会いに感謝するだけで足りますわ」


ではディアというのは偽名なのだと気が付いた。

うふふ、と笑うこの美しい女性の神秘的な様子にますます視線を奪われる。

じろじろと見てしまっていることに気が付いたのだろう。リジーが、不快そうに彼女を背にかばい、それからこそこそとディアに何かを渡している。


「どうせあの人に案内させたいってねだるんでしょう、せめてこれつけてください」

「ええ?どうせもう会わない人だからいいじゃない」

「駄目です。ディアさまのお顔はそうそうさらすものじゃありません」

「視界が悪いのだけれど」

「とにかく駄目です。これ以上は駄目です」


不満そうなディアだったが、次に振り返った時には顔全体を覆う白い仮面をかぶっていた。

ぎょっとしたアクセルに、ディアがこてんと首をかしげながら、ため息をつく。


「大変申し訳ありません、リジーは過保護なもので」

「当たり前です。ディアさまのご尊顔をこのような怪しいものにさらしていては何をされるかわかりません」


それは疑われているのか。だが、もうその仮面の下がどれほどに美しいかは知ってしまっているので遅いのでは、とアクセルは眉を寄せる。

それを不快ととらえたのか、ディアは「本当に申し訳ありません」と残念そうに言った。


「ですが、わたくし、せっかくですからもう少しこの森に詳しい方と一緒にいたいのですが、駄目でしょうか」


両手を組み、ディアがねだる。

なるほど、確かにこのような仕草をされるだけでもぐっとくるものがある。


(いやいやいや!グッとくるってなんだ!?)


ふと浮かんだ思いには、さすがに騎士にあるまじき感情だとアクセルは慌てた。無表情の下で。

ごほん、と一つ咳払いをして、アクセルは平静を保った声で応答する。


「先ほども言ったがこのあたりは魔物が出た地域であまり長居をしないほうがいい」

「でももう魔物はでないのですよね?あなたは先ほどから過去形だけで話してますわ」

「それは・・・確かにもういまは気配を感じないが」

「あなたはこの森に詳しいですのね」

「そうだな、俺は誰よりこの森をよく知っているから」


魔物の討伐に頻繁に出入りし、今も管理する立場だ。


「まあまあまあ!わたくし、なんてついているのでしょう」

「つ、ついてる??」

「ディアさま、お言葉が乱れて」

「だってリジー、こんなところでこの森に誰より詳しい人に出会えるなんて」

「それだって本当かわからないのに簡単に信じてどうするんです!世間知らずがひどいんですから、ディアさまは!」

「だって、この森に詳しいって!こんな宝の山のような森に!詳しいんですって!」


興奮しきりなディアに、アクセルはあっけにとられた。


(この森が宝の山とは?)


魔物の影響で瘴気を常にまとわせている陰鬱な森を宝と呼ぶ人間がこの世にいるとは思えず、アクセルは耳を疑うのだが、ディアの興奮は止まらない。



「だって!魔物の血で植物が変異するだなんてお父様の研究にもなかったわ!」

「ディアさま、落ち着いて!」

「だってだって!あれもこれも、文書でしか伝えられていなかったものばかりなのに、それが実物であるんですのよ?」

「・・・き、君はずいぶん毒草に興味があるんだな」

「ええ。それはもう。今は亡きお父様との思い出ですから」

「そ、そうか」


いったいどういう父親なんだ、と遠い目をしそうになるが、興奮極めてディアが勝手に歩き始めたので、慌てて後を追う。


「勝手に奥までいこうとするな!」


大声になってしまったのは心配したからだ。

しかし、アクセルの低い声は人を怯えさせる響きがある。怒鳴ってしまってからはっとなったが、ディアは気にした様子もなかった。


「あら、申し訳ありません。つい」

「ついって」

「うふふ、あなたはやはり良い人ですわね。心配していただけるなら、案内をお願いできると大変うれしいのですけれど」


本当に物おじしない彼女は、きっとここで断ったら勝手に森の奥にまで入り込んでしまいそうだ。

アクセルはため息を吐いて、こくりと頷いた。


「・・・わかった。少しの間だけなら仕方ない」

「ありがとうございます!」


仮面で顔が見えないが、紫の瞳がキラキラと輝いたのはわかった。きっと、全力の笑顔だっただろう。

直視しなくてよかった、とアクセルは思った。

仮面越しにもどきどきと心臓が早鐘を打つ。見ていたらまた真っ赤になるだけでは止まらないかもしれなかった。

なるほど、リジーは正しい。ディアの美貌は目の毒だ。


「ディアさまぁ、私は嫌なんですがぁ」

「ではリジーはそこで待っていて」

「だめです!旦那様以外の男性と二人きりになるなんて!ディアさまはお嫁入りしにきたのですよ!」

「まあ・・・そうよね、そういうものよね。すっかり忘れていたわ」


ふぅ、とため息をつくディアにアクセルは思いのほかショックを受けた。

嫁入り、この綺麗な女性が。

がっかりというのがぴったりの気分だった。

しかし慌てて気を取り直す。

このような美しい気品のある女性が、決められた相手がいないわけがないと。

そもそも自分は通りすがりの他人だ。気分が下がる理由もない。


「ではリジーもついてきてね」

「うううっ、いやですけど、仕方ありません・・・ディアさまはこうと決めたら譲らないんですから・・・」

「さぁ、参りましょう!」


意気揚々と手を叩いたディアに、彼女の夫はどういう人なのだろう、と思った。


(いやだから俺には関係ないだろう)


葛藤している自分がおかしい。

すぐ隣を歩くマントの上からでもわかりそうな華奢な女性にドキドキしている自分はおかしい。


平常心を保とうとしているものの、ディアはすぐにあれは?これは?とと駆け出そうとするので慌ててアクセルは彼女の肩をつかまなければならなかった。


「ちょっと、ディアさまに触らないでください!!」

「っ、す、すまない・・・」


リジーが目を吊り上げて怒るが、ディアは「ごめんなさい、つい」とアクセルに対してしょんぼりと謝る。

ずぐ、ともう胸が痛いレベルで衝撃が走った。


(・・・これ、なんだ)


可愛い、愛でたい。

そんな衝動が沸き上がって、アクセルは急激に顔を朱に染めた。


「だから!ほら!ディアさま、男の人なんて危険ですって!」


そんなアクセルを見咎め、リジーが怒り狂っている。

アクセルは慌てて弁明した。


「自分が危険なつもりはないんだが」

「あら、大丈夫よ、リジー」

「何を根拠に!」


おっとりほんわり、というのがぴったりのディアにしっかり者のリジーという組み合わせは、アクセルが比較的迷いもせず安全と判断した場所でそれからたっぷり四半ダグ(30分)はうろうろとして、リジーが持つかご一杯に毒草を摘んでいた。繰り返すが、全部毒草である。


「・・・それは、どうするつもりなんだ?」

「悪いことには使いませんわ」

「悪事は企んではいませんのでそこは安心していいですよ」

「悪事“は”?」

「・・・そこに引っかかられると思いませんでしたが、ディアさまの毒草好きはただの趣味です」

「そうか」


確かにこんなに楽しそうにしているディアが誰かに危害を加えるというのも考え難い。

後ろ暗いことがある人間は大概、態度にでるので、わかるものである。

女性という欲目が入っていないかと言われると多少不安だが、なんとなくアクセルの勘は信じてもいいという方に向いていた。


「だが、その・・・それをもって嫁入り先にいくのか?」


くるくると小躍りでもしそうに浮かれていたディアがその言葉でぴたりと止まる。


「そうですわねえ、この自由を満喫するのは最後ですから」

「さっきから最後最後ってなぜだ?」

「この先は死ぬか逃げるかのどちらですもの」

「ディアさま!!」


リディが口止めするように大声を上げた。

アクセルの眉根がきつく寄る。


「どういうことだ?」

「ディアさま」


しゃべるなという代わりにリジーが厳しい声でディアを呼んだ。


「ふふ、駄目なのですって。申し訳ありませんわ」


ディアがマントの端をつかみ、膝を曲げ、美しいカーテンシーで頭を下げた。

その優美な仕草に彼女の身分の高さを思う。

他人が勝手に踏み込んでいいものとは思えない。だが。


「死ぬとはそのような物騒な言葉を聞きながら若い女性を放置できるわけがない。俺の騎士道に反する」

「ま、騎士様でしたか。そうですか、道理で紳士的と思いましたわ。でも、わたくしは、このために生かされてきましたから」


表情が見えない仮面の下で彼女はどんな表情だったのだろうか。


「いつか役立つための道具なのですからお役目は果たさねば」


それは高貴な身分ならやむをえない義務だ。アクセルも辺境伯の息子でなければこんな呪われる運命を背負うこともなかっただろう。

それでも。

この美しい若い女性が命をかけるというのは、自分が命を張ることと同等とは思えない。


「命を投げ出すほどなのか?」

「あら、無防備に死ぬつもりはありませんわ。このお役目から逃げられるかもしれませんもの。交渉次第ですわね」

「ディアさま!もう行きますよ!いい加減彼らが探しに来ます!」

「そうねえ、逃げ出したと思われるのはいいことがないわねえ。それでは、失礼しますわ」

「おい、それでいいのか!本当に!?」

「うふふ、優しい騎士様。素敵な思い出をありがとうございました。どうぞわたくしたちのことはお忘れになってくださいまし。それがあなた様のためですわ」


業を煮やしたリジーに引きずられるようにしながら、ディアは手を振った。

アクセルはそのあとを追おうとしたが、「首突っ込まないでください!ディアさまが余計に危険になるんです!」

と叫ぶリジーに、足が止まった。

どう見ても貴族の彼女に、辺境に住む自分が何かできると思えない。もしかしたら、他国に嫁ぐのかもしれないし、外交問題になるのかもしれない。

でも。


「俺に、できることはないのか?!これでも俺は人一人をかくまうことができるとは思う。会ったばかりで信じられないかもしれないが」

「・・・そのお気持ちだけで。他に不利益が及ぶことは私の望むことではありません。これは、私の問題です」


それでも差し出そうとした助けは、凛とした声にきっぱりと拒絶された。


「さようなら」


もう一度、ディアは優雅にお辞儀をして、そうして、立ち尽くしたアクセルの視界から去っていった。

しばらくして、馬のいななきと、幾人かの男の声が遠くから聞こえた。

おそらく彼女の馬車なのだろう。やがてがたたん、と特有の音がしてそれがゆっくりゆっくり遠ざかっていった。

どれくらいそのまま立ち尽くしていたのだろうか。

アクセルはようやく頭を振って、来たときと同じく、森の奥へ歩き始めた。


「・・・馬鹿だな」


英雄だなんていわれても、女性一人助ける力もない。

本当の自分はただの、辺境にいる呪われた人間だ。貴族としての力もない。

信頼なんてされなくて当然だ。


初めて覚えた胸の高鳴りの分、ひどく苦い気持ちがアクセルを支配した。


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