第2章 36 偶然を装って
翌日から、俺は偶然を装って彩花に近づく策を練り始めた。
彩花は平日は7時半にアパートを出る。
アパートの1階には屋根付きの駐輪場を置くスペースがあり、雨の日以外は自転車に乗って彩花は駅まで向かう…。
その時を狙うのだ―。
「おはよう、南さん」
朝7時半―
偶然を装って俺は彩花の出勤時間に合せて、俺も仕事に行くふりをしてマンションを出た。
「あ、おはようございます。上条さん」
自転車を押しながら道路に出てきた彩花が挨拶を返してくれた。
「南さんも朝、俺と同じ時間に仕事に行くんだね」
「ええ。そうですね」
スプリングコートを羽織り、グレーのパンツに紺色のパンプスを履いた彩花が俺に尋ねてきた。
「あの…上条さんて、お仕事されてるんですよね?」
「ええ。そうですよ。あ…もしかすると俺の仕事が何かって思ってるでしょう?」
「え?ええ…まぁ、それは…」
彩花が不審に思うのは無理も無いだろう。何しろ俺はスーツを着ているわけではないからだ。
もともと、大学教授のアシスタントとして働いているのでスーツなんか着る必要は無
い。パーカーにジーンズ姿で出勤し、職場に着いたら白衣を着る。
そんな生活をしているのだ。
今更…例え、フリだとしても普通のサラリーマンの格好など出来るはずは無かった。
「実は俺、大学教授のアシスタントをしているんですよ。だからスーツは着ていないんです」
「そうなんですか…。あ!ごめんなさい、遅刻しちゃうかもしれないので失礼ますっ!」
彩花は慌てて、頭を下げると自転車にまたがってこぎ去って行く。
その姿を見送りながら、俺はポツリと呟いた。
「行ってらっしゃい…彩花」
そして次にアパートを見上げた。
一番左の角部屋…彩花の住む右隣には子供時代の俺と…あいつが昨日から暮らしている。
今は春休みの最中だから、小学校はまだ始まらない。
そして…。
「もし、この世界が俺の知っている世界と同じ時間を進んでいるとするなら…親父は後30分位で出掛けるはずだ…」
記憶が正しければ、俺の新しく通う小学校が新学期を迎えるまではアイツは働くことはせず、駅前のパチンコ屋で店の開店時間前から並んで、昼過ぎになるまでアパートに、戻ってくることは無かった。本当に…最低な奴だ。
「早く…アパートから出て来いよ…」
アパートを見あげ、唇を噛むと拳を握りしめた。
アイツがアパートを出たらさりげなく部屋を訪ね…盗聴器を仕掛けるんだ。
子供時代の俺を理不尽な暴力から守る為に…。
この世界で、卓也を守り…そして彩花の死を回避させてみせる。
俺は新たな決意を胸に抱き、奴が部屋から出てくるのをひたすら待ち続けた―。




