三
「まず行きたいところがあるの」
応接室から出てきた可奈に、早速紀子はつかまった。
目的の施設は市立大学の研究室だった。ここから車で三十分はかかるので紀子は可奈のためにもう一度ミニバンを車庫から出さなければならなかった。
可奈を乗せたミニバンは駅前をとおりすぎると今度は海と反対の方角に向かった。車が目的地に着くまでの間、可奈はほとんど窓の外を眺めていて、紀子に声をかけることもしなかったし、紀子も運転に集中した。
大学の敷地は山の中腹にあり、海に囲まれているこの街が一望できる。建物はやはり当時の流行であるガラス張りに吹き抜け大空間で出来ており、少しくすんだ外壁が過ぎ去りし時を感じさせる。紀子は正面玄関の目の前に車をとめた。
この大学もユキシステムを採用しているため、紀子は何度かここに来たことがある。市立大学とはいえ一時期はやったアウトソーシングとやらの影響で、職員のほとんどが民間委託先の社員となり、システム管理も紀子の会社が受託している。
正面玄関を入ると可奈が迷うことなく進んだので紀子は慌ててその後を追った。ちょうど授業が終わったところなのか、学生がぞろぞろと廊下に流れ出してきていた。可奈は学生にぶつからないように注意しながらもその流れに逆らって進んだ。
五階分の吹き抜けになっている空間の正面はすべてガラスで出来ていて、前方に広がる街全体を一望する事が出来た。ガラスの反対側はひな壇状になっていて、開放された空間ではテーブルが無造作に並べられている。そこでは学生たちが課題に取り組んでいた。
紀子はその学生の一人が悪戦苦闘しているのに気づいて、その画面を覗き込んだ。出力されている文字の羅列からC言語によるプログラミングだと分かった。コンパイルしたプログラムをスタートさせると「HELLO WORLD」と表示されるというテキストの最初にある例題だ。紀子はそれを中学に上がる前に卒業していたが、その学生はなんどもコンパイルを繰り返しているようで、そのたびに出現するエラーメッセジに今にも泣きそうな顔をしていた。
「三行目位のセミコロン」
前方からあまり機嫌のよさそうではない声が聞こえた。先に歩いていた可奈だろう。その学生のソースをみると確かに三行目で行末につけるべきセミコロンが抜けている。余りにもあたりまえの事に紀子は気づけなかったが、可奈は瞬時にそれを理解していたのだ。紀子は可奈に対する評価を上げた。そしてそうする事が学生のためにならない事を知っていながら、そっと学生に耳打ちした。自分以外の力を借りて、画面に「HELLO WORLD」と表示させることに成功したその学生は、一瞬の歓喜のあとに紀子に礼を言ったようだったが、紀子は先に行ってしまった可奈を追いかける事に集中していて、その学生の言葉を聞き取る事が出来なかった。
可奈は足を止めると近くにいた学生達になにやら話し掛けていた。そしてそのうちの一人が指を差した近くの部屋に入っていった。
「娘かな?」
「愛人だろ」
紀子がその学生達のそばを通り過ぎたとき、彼らのささやきが聞こえた。「娘」なら見えなくも無いが「愛人」はないだろう。可奈はそんな風に見える容姿ではなかった。男好きする感じではなく、年下の女の子にチョコレートをもらうタイプに思えた。
可奈の入っていった部屋の扉には「伊集院・浅野研究室」と書かれていて、ガラス張りの壁の中には四十代後半の男がいた。多分この部屋の主人だろう。入るべきかどうか悩んでいると、その男と目が合った。
「何しているの、入って」
ガラスにはさまれた扉が外側に開いて可奈が顔を出した。
正面の机に座っていた男は無精ひげにぼさぼさ頭と言うふた昔も前の「博士」といったような風貌だったが、少し大きい眼鏡の奥の瞳は輝いているようにも見えた。
「浅野といいます」
浅野は丁寧にそう告げると紀子を値踏みしていた。
「山下主幹よ。案内係なの」
「山下紀子です」
浅野は紀子の名前を聞いて驚いた顔をした。紀子にはその意味を理解できなかったが、問い掛けるのはどうかと思い、浅野の言われるままに近くの椅子に座った。
「わたし入れてくる」
お茶をと浅野が立ち上がるのを制した可奈が奥の研究室に入っていくのを見届けて、紀子は部屋の中を見回した。壁にはフリーキングマッチの告知ポスターと一枚の油絵がかけてあり、天井までそびえたつ本棚にはネットワーク関係の専門書がぎっしりとつめられていた。多くは紀子も読んだ事があるものだが、中には図書館に置いてなく、値段が高すぎるために手が出なかった本が何冊かあった。
「好きな本を貸してあげますよ」
もの欲しそうな目をしていたのを見透かされて、浅野に声を掛けられた。
「いいんですか」
紀子は喜んでとびあがると本棚に近づき、電話帳ほどの厚さの本を取り出した。
それは「ユキシステム」という題名の本で、その題名どおりの内容だが、歴史から基本的な構造までが書かれているバイブルのようなものだった。授業ではそれを簡単に解説した「ユキシステム概論」という教科書が使われていた。
紀子は少し興奮気味に本をめくっていたが、中にしおりのような物がはさまれているのに気づいて取り出した。それは二十歳くらいの若い男女が腕を組んで並んでいる写真だった。ふたりの後ろにはシンデレラのお城が建っていた。
「これ」
紀子はその写真を浅野に手渡した。
「こんなところにあったんですか。これ若い時の僕なんです」
「隣の人は」
紀子がそういったのには理由があった。その女の顔に見覚えがあったからだ。
「彼女ですよ。あの頃から全く変わっていない」
そこに可奈がコーヒーを持って現れた。彼女の笑顔は、写真のそれと全くと言っていいほどそっくりだった。その写真の浅野は明らかに年を取っていたが、可奈はむしろ若返っている様に見えた。
「まだあったんだ、このマグカップ」
可奈は黄色いクマと小さいピンクの豚が手を取り合って踊っている絵の描かれたマグカップを高く掲げた。
「ああ、捨てられなくてね」
可奈は浅野の机にお茶を置き、さっきまで紀子の座っていた椅子に座わると紀子にもティーカップを手渡した。
「あんた勉強熱心ね」
「いえべつに」
紀子は慌てて本をもとあった場所にしまうと、背表紙の著者名をみて「あっ」と声を上げた。
「こいつが書いた本面白い?」
「失敬な」
浅野健二はユキシステムの暴走を収拾したメンバーの一人で、その技術を買われてユキシステムズ社設立に貢献した。ユキシステム自体は会長でもある伊集院玲子が書き上げたプログラムだったが、途中で第三者の手が加えられた。そのためシステムの全容を理解している人は一人もいなかったのだ。浅野はユキシステムの解明に人生の大半をつぎ込むことになった。彼の名前を知らないハッカーなどいないはずだが、紀子は歴史的人物そのものへの興味が無かったから、誰が書いた本かなんて余り考える事は無かった。だから彼の名前を聞いたときもそう驚きはしかった。
瑞希は写真を可奈に見せた。
「あら、ずいぶん懐かしい写真ね」
「でもこれ」
紀子は写真の可奈を指差した。
「どうかしたの」
「今のほうが若くないですか」
可奈は驚く様子も見せずにコーヒーを飲むと紀子から写真を取り上げて目の前にかざした。
「そうよ。このときは十九だったもの」
可奈が当然のような口調でそうつぶやいたので、紀子はそれ以上何も言わなかった。
少しの間を置いて浅野が口を開いた。
「ところであんたは幾つなんだ」
女性に年齢を聞くという礼節の無さを披露した事に浅野は何も感じていなようだったが、紀子は別に不快に思う事も無く答えた。もちろん彼女の年が今の倍はあったらそうも行かなかったかも知れない。
「その年で主幹って事は、S級ライセンス保持者だろう」
浅野は眼鏡の奥の瞳を輝かせた。戸惑いながら紀子がうなずくと、浅野は端末に目を移したまま付け加えた。
「おや、キリュウに負けたのか」
紀子は戸惑いが不快感に変わるのを感じたが、相手の力量と立場を考えればそれぐらい造作ないことだと思い直した。
「ま、彼女は強いからな」
「いいじゃないの、それより」
可奈が話題を変えた事で紀子は少しほっとした。自分の事を詮索されるは好きではないし、フリーキングマッチの戦績をとやかく言われる筋合いも無い。
紀子はS級ランキング八十八位だった。一回戦でキリュウに判定負けを喫したとき別に悔しいとは感じなかった。組み合わせの不運をのろったりもしなかったし、実力の無さを嘆いたりしなかった。冷静に反省して、次の対戦、つまり来年に向けて努力する。「やる気の無さ」が魅力の紀子が実は努力家である事を知っている人は少ない。しかし勉強にしろ優秀な成績を収める人間が努力をしていなかったなどという事は皆無である。彼らは努力している事を隠しているだけなのだ。紀子もその一人だった。高校進学のとき、大学へ進むための進学校ではなく商業高校を選んだのは、ただS級ライセンスを最大限利用するためでもあった。だからといって彼女を打算家であるとはいいきれない。
「ほらよ」
浅野は机の中から鍵を取り出して可奈に放り出した。そのかぎには流行の鍵型メモリーカードが一緒につけてあった。
可奈は無言でその鍵を受け取ると壁の絵を見つけてしばらく眺めていた。それは中央にソメイヨシノの大木があって、その花びらが一面に舞っている絵で、木の下には白いワンピースを着た少女が立っていて、地面は雪が積もったように真っ白だった。
「いいだろその絵」
可奈の視線が絵に向かっているのに気づいて浅野が言った。
「由香の絵だ」
「そう。さびしい絵ね」
紀子は絵には詳しくなかったが、その画風に見覚えがあった。
「応接室の絵」
可奈がその言葉に気付かなかったかのように部屋を出たので、紀子は慌てて後を追った。
さっきより傾いた太陽がオレンジ色の光を放ち、ガラスを通って暑さだけが部屋の中を漂っていた。