一
その日、倉庫街のそばの市電沿いにある六階建て建物の一室では、朝からかなりあわただしかった。
「東京からシステムインテグレータがやってくる」
事業部長から朝の定例でそう聞かされた社員たちは税務署の査察でも受けかのように緊張していた。
この会社は地元の情報ビジネスをほぼ独占していて、この街の情報システムの導入から管理・運営までを一手に引き受けている優良企業だ。とはいってもそれは株式会社ユキシステムズの全面的バックアップがあるから成り立っているのである。
ユキシステムズは「スノウ」というオペレーションシステムを開発し、今や日本の情報システムのほぼ百パーセントを掌握する大企業となった。経営戦略の一環としてハッカー協会を設立したのもこの会社である。ユキシステムの特徴は全国に散りばめられた十二台のメインフレームとそれに接続された七十二台のスノウサーバーだ。すべての公官庁が既にスノウサーバーに移行済みであり、それは独占といっても過言ではなかった。公正取引委員会の正義感あふれる若者がこの状況を何とかしようと立ち上がったが無駄だった。委員会もすでにユキシステムの配下にあったのだ。
四月にこの部署に所属となった山下紀子は社名の入ったミニバンにのって海岸通を東に向かって進んでいた。窓を開けると匂いのしない潮風が紀子の首筋を通り抜けた。
透き通る青空というにはすっきりとしない空。この街はなんとなくぼんやりとした薄い雲がいつも立ち込めている。その雲から大きな音を立てゆっくりと現れた巨大な物体。ジャンボジェット機が紀子の頭の上を通り過ぎた。
「そうですね。そうします」
地元の商業高校の進路指導室で就職担当の先生から今の会社への推薦話を進められたとき紀子はそれほど深刻に考えることなく従った。将来について深く考えていたわけでもないし、当時付き合っていた五歳年上の市役所職員と結婚でもすれば、生きていくのにそれほど困らないだろうなと考えていたりしていたからだ。
何かあきらめたところがあるような言動が魅力となって、紀子は結構男子には人気があったが、肩より少し長めのストレートヘヤーは思いっきりありきたりな髪型であったし、別にそんなに取り立ててかわいいと言うわけでもなかった。
紀子は学内で唯一のS級ライセンス所持者だった。それは推薦の最低条件となっていた。当時S級で三百十八位の実力のほか、学年十二位の学業成績、クラブ活動での実績や生活態度、どれをとっても文句の付けようはなかったが、面接官が紀子の「やる気の無さ」を感じていたことを歓迎会の酒の席で人事部長に耳打ちされた。
「ま、今まで通りやっていればいいんじゃないか」
苦笑する紀子に部長はそう言ってグラスを差し出した。
「生きている事が楽しいかどうかは別にして、今の仕事は結構楽しいかも」
久しぶりに集まった友達に、少し酒が入って上機嫌になった紀子はそういった。
空港の駐車場に車を止めたとき、東京からのお客さんが乗っているはずの便は既に到着している時刻だった。「遅れるなよ」という部長の言葉が頭の中で再現されたが、紀子は慌てるつもりも無くゆっくりと到着ロビーに向かった。
到着ロビーの案内板は東京からからの到着便に十五分の遅れがあったことを知らせていた。紀子はとりあえず遅れなかった事に感謝し、ロビーの長いすでお客さんの到着を待つ事にした。
それ程大きくない到着ロビーは、荷物受け取りのコンベヤーとガラスで隔たれていて、到着した乗客がお迎えを探すのに便利に出来ている。少し前に到着した大阪からの便の荷物がコンベヤーの上を流れていた。
「こっちやで」
大きな荷物を持った集団が旅行会社のプラカードを持った女性に集まっていく。関西方面からの観光客だろう。それにしてもにぎやかだった。
お客さんの特徴を部長に聞いたとき、女性だという事しか聞かされなかったし、部長もそれ以上わからんと眉をしかめてた。
「それじゃ見つけられないですよ」
抗議する紀子に同僚の恵子が近寄ってきて紙の筒を手渡した。筒を広げた紀子は頭を抱えるしかなかった。
「こんなの持つんですか」
紀子は再び丸めた筒を部長のほうに差し出した。
「歓迎。田澤可奈様」
その筒には旅館の案内人が持つような決り文句がドデカイ草書フォントで印刷されていた。
東京からの飛行機が到着したという放送が流れたので、紀子はだるそうに立ち上がると、その筒を窓ガラスに貼り付けるように広げた。そうすれば少なくともロビー側からは見えなかった。自分だったら恥ずかしくて声もかけれないなと文句を言いながらも、これ以上の手段を思いつく事は出来なかった。
荷物を受け取った若い女が、瑞希の持つ紙をみて一瞬ひるんだが、何も見て無かったかのように自動ドアを通ってロビーへでてきた。高校生ぐらいに見えるが、顔はサングラスをかけていてよくわからない。腰に届きそうな長い髪と細い体。プロポーションはそれなりで着ている黒っぽいスーツがとても似合っていた。
その女はまっすぐとこちらに向かってきた。紀子はその女に興味を惹かれたが、自分の客ではない事を妙に確信して立っていた。
「いくよ」
そのまま通り過ぎたと思ったとき、後ろから声をかけられた。慌てて振り向いた紀子に手を振ってまっすぐと駐車場に向かっている。紀子は手にもっていた紙を急いで丸めるとその女の跡を追った。
「恥ずかしくないの」
「いや、これは部長が」
駐車場の入り口でその女は待っていた。紀子が追いつくと女は紀子に名詞を渡した。そこには「株式会社ユキシステムズシステム事業本部システム管理課 課長 田澤可奈」とかかれていた。目的の人物を確認して紀子は可奈を車へと案内した。
「お若いですね」
車に乗ってサングラスをはずした可奈の顔を見たとき、紀子は素直にそう思った。
「おいくつなんですか」
鋭い眼光と落ち着いた態度をのぞけば、高校生に見えなくも無い。紀子は興味をそそられた。
「あんたは」
「十八です。去年入社したばかりで」
「じゃああんたの母親と同じくらいだ」
「ご冗談を」
ルームミラーで後部座席の可奈をのぞきながらその理不尽な答えを笑った。
「見えているものが真実だという保証が何処にある」
そう答える可奈の横顔は少し険しくゆがんでいたので、紀子は話題を変えて今日の飛行機の込み具合についてたずねた。
「変わらないな」
駅前を通ったとき可奈はそうつぶやいた。
「この前はいついらしたんですか」
「三十年くらい前だと思う」
「その頃より大分にぎやかになってませんか」
今の駅舎が出来たのが三十年前だ。特に産業も無く、観光だけで生計を立てていたこの街は、地価の高騰とともにドーナツ化現象が進み、駅前商店街の多くはシャッターを下ろしたままの状態で、市役所周りは職員のための月極駐車場が増える一方だった。長年親しまれていた老舗のデパートも当の昔に取り壊されていたし、路地を一本入った小さな歓楽街でも少しずつ店が消えていき、ついには買い手のつかない更地となっていた。
それでも十年程前に、市役所のてこ入れで駅前商店街が大改装されてから、シネコンを中心として小さい店も少しずつ増えて活気が戻ってきた。
「建物は新しくなったかな。少し増えた気はするけどね」
そのあとに続く言葉を紀子はわかっていた。確かに建物は増えたがここには若者の姿がほとんど見られなく、活気が戻ったと断言できなかった。その理由は再開発のやり方だと高校の先生が言っていたのを紀子は思い出した。
「役所仕事だからな。何のためにやるのか考えてないんだよ」
結局「事業を消化する」という目的のためだけに作られた多くの公共施設を見ればそれは一目瞭然だった。
「公務員って人種は何時までたっても進化しないんだよ。そういう俺も公務員なんだけどね」
笑ってそう付け加えた先生の悲しげな表情は、いつまでも紀子の記憶の中に留まっていた。