五
「ここは。前に来た事がある。YUKIの夢だ」
可奈は古い記憶を引き出した。
少し離れたところに紀子と瑞希が立っている。京子が居ないと言う事は彼女の意識が無いからだろう。可奈の前には慎重に周りを観察している涼子がいた。
涼子の視線が一点に定まったのに気づいて、可奈はその方向に視線を向けた。真っ白な空間のはるか遠くに、小さな人影が見えた。
「誰だ」
涼子の口から無意識に出たその言葉に、誰も答えなかった。その答えはだれもが知っていたからだ。
「おはよう」
顔立ちもはっきりとしないほど遠くから、真っ白なワンピースを来た少女が声をかけてきた。それは耳から聞こえたのではなく、頭に直接語りかけてきたようだった。
「わたし、前に逢ったことがある」
瑞希が少女のほうを見たままつぶやいた。
「あんたが見たのは本当の彼女ではない。ただの影だ」
「でも、そっくり」
「それはそうさ。影だからな」
涼子ははき捨てるように言った。瑞希にはYUKIの姿を再現した映像を以前に見せていた。メモリーカードから現れた少女がそれだ。涼子はある記憶からあの少女の再現を行ったが、涼子自身もYUKIを見るのは初めてだった。
その少女は、すっきりとした顔立ちで、日本人形を思い出す長い黒髪を持っていた。くるぶしまでの白いワンピースのそではひざと手首との間で切られたようになってた。
真っ白い靴を履いてゆっくりと近づいてくる少女は、貫禄のある歩き方と強い存在感でそこにいる四人を圧倒した。喉が渇き、額に汗がにじんだ。
メインフレームに見せられている映像だという事がわかっていても、瑞希はまるで運命を握られている奴隷のような心境だった。多分他の三人も同じような気持ちだろう。緊張した面持ちと、にじみ出る脂汗が、瑞希の考えを肯定した。
YUKIはゆっくりと四人の顔を眺めまわすと、まず可奈のほうに近づいた。
「お久しぶりですね。可奈さん」
可奈はさらに緊張した様子で、それでも何とか返事をした。
「お元気そうで何よりです」
「ありがとう。昔の友達に逢うと安心しますね。そう緊張しないでください。いま紅茶を入れますから」
瑞希の前に以前と同じように食卓テーブルが、ティーカップが、そしてイチゴのミルフィーユが人数分並んだ。YUKIは席につくよう催促し、全員が座ると紅茶を一口すすって、ケーキを口にほおばった。紅茶はあの時とおなじアッサムティーの匂いがした。
「やっぱり紅茶にはこれが一番ですね」
瑞希はあっけにとられてしばらくYUKIを見ていたが、思い切って尋ねてみた。
「あなたは目覚めたの?」
YUKIは二口目を食べようとケーキにフォークを入れながら、小さく頭を振った。
「あれからどれだけ時間が立ちましたか。ここは暦と言う概念がないのでよく分からないんですよ」
話しかけられた可奈はそれでも口を開くことは無かった。可奈はその答えに意味が無い事を知っていた。
はじめ白一色に思えたこの「夢」の世界は、目が慣れてくると部屋のように見えてきた。それはまるで学校の保健室だった。窓際に取り付けられたカーテンは安っぽい白い生地で、近くにはパイプ式の白いベッド、その対面にモニターが乗せてある事務机がおいてあった。
剥き出しの蛍光灯は実際のそれより明るく感じられて、部屋全体が輝いているようだった。
「妹さんはお元気ですか、涼子さん」
突然名指しされて、涼子は一瞬体を硬くした。
「あなたに会いたがっています」
「だけど、わたしをここに閉じ込めたのはあの子なのよ」
「それは」
「知らないわけではないでしょう」
「でも」
ユキシステム開発者の中に、システムに最初に取り込まれた「記憶」を持つ少女に、養子に出された実の妹がいたという話をどこかで読んだ。けれどその妹の苗字が杉中だったかは記憶になかった。
YUKIは笑っていた。涼子とのやり取りを楽しんでいるようでもあった。久しぶりに友達が遊びに来た午後のティータイム。YUKIはそんな時間を思い切り満喫していた。
「そこへ」
今度は瑞希の番だった。YUKIに指示されるまま、部屋の隅にあるモニターの前に瑞希は座った。モニターの電源は切られたままの状態だったが、机の下にあるパソコンは静かに息をしていた。電源を入れたモニターに映し出された文字を見て瑞希は呟いた。
「UNIX」
「お気に召さなかったかしら」
ユキシステムが普及する前はサーバーのOSと言えばUNIXが主流だった。今でも世界の大半はUNIXだから、ハッカーとしてその習得は必須であった。けれどそのシステムが実際に動いているのを見るのははじめてだったし、YUKIがUNIXで動いていることに実際驚いた。
「どうすればいいの」
「あなたの望む世界を」
「どうしてわたしが」
「一番最初にそこに座ったのは、あなたのおじいさんなのよ」
おじいさんといわれてすぐには思い出せなかった。母方の祖父はたしかに四六時中端末に向かっているような偏屈なじいさんだった。瑞希にはそんな印象しか残っていない。
「そしてわたしの愛した唯一の人」
祖父の話を母は余りしなかったが、ユキシステムの開発に深くかかわっていた事は一度父から聞いた事があった。
「私がまだ人だった頃。あの人と一緒にここへ来た事があるの。ずいぶんと長いこと二人で過ごしたけど、あの人は。そう、あの人は一人で帰ってしまった」
YUKIはここではないどこか遠くを見ていた。
「あの人との記憶は、私の中で今もはっきりと残っている。忘れることができるなら、こんなに苦しまなくてもいいのにね」
そういえばあの偏屈のじいさんが一度だけ瑞希に昔話をしてくれた事があった。大切な人を置いてきてしまったと、祖父が悲しげに語ってくれた。
「平凡に生きていれば・・・・・・」
祖父が最後につぶやいた台詞を、瑞希は思わず口に出していた。
「0か一か。あなたの選択肢は二つに一つよ」
この場でこういう選択をするという事が、私の運命なんだろうか、私の生まれてきた意味なのだろうか。祖父が残した想いが、YUKIとの思い出が。でも、瑞希にとってそんなことは関係なかった。
紀子は黙って瑞希を見ていた。可奈はケーキのナイフをもてあそんでいたし、涼子は腕を組んで目をつぶっていた。瑞希はそれらの人たちを見回してから、もう一度モニターを睨みつけた。
「わたしは平凡に生きるって決めたんだもん」
そばにいる紀子にしか聞こえないような小さな声だった。けれどその声が聞こえたかのように、YUKIは瑞希に視線を移すと微笑んだ。
瑞希はYUKIその笑顔を打ち砕くかのように、ありったけ大きな声を出した。
「わたしは今のままがいい」
部屋中に声が響きわたった。その声に弾き飛ばされたかのように、ベッドもモニターも窓についていたカーテンもあっと言う間にこなごなになって、その破片が、YUKIとその後ろのに残る窓に降リ注いだ。
それはしんしんと降り積もる雪のようだった。
YUKIはしっかりと瑞希を見つめていた。
「そうね。それがいいとわたしも思う」
その答えを待っていたかのようにYUKIはまた微笑んだ。
それの答えを聞いて、紀子がたまらずに口を開いた。
「いいんですか、その先を、行き着く先を見てみたくは無いんですか」
「いいの。私はこれでいい」
瑞希はすべてから開放されたようなすっきりした気持ちでYUKIを見た。
「それにね、まだ時間が必要だとおもうのよ。残念だけど」
YUKIがそう付け加えたので紀子は黙ってしまった。けれど残念そうなそぶりではなかった。むしろ安心したのかもしれない。YUKIの行き着く先を見ることが出来なかったという現実に。
「また会いましょうね、可奈」
「わたしは会いたくないけど」
「そんなこと言わないでよ、わたしたち兄弟みたいなもんでしょう」
「そう思ったことはないよ」
「怜子さんは元気」
「ええ、とても」
「よろしく伝えてね。二人のお母さんなんだから。でもそうね、わたしに取っては二人とも大切な友達よ、きっと」
そう言うとYUKIと真っ白な空間は電源を落としたかの様に消えてなくなり、視界は薄暗い電算器室へと戻っていった。