二
学校での瑞希は、目立たない普通の女の子だ。里子が掛け値無しにかわいいので、その引き立て役というか、取り巻きというか。サブキャラクターというよりむしろエキストラといった感じである。
瑞希が目立たないのはその容姿によるところが大きいけれど、小学生のときにいじめを受けてから努めて目立たないよう生きていく決心をしたからだ。一時期「引きこもり」と化した瑞希がハッキングに目覚めて力をつけたのはその反動だ。それは親に無理やり連れて行かれた空手でも発揮された。先生に目をかけてもらったこともあるが、小学校を卒業する頃には黒帯を巻いていて、中学に入ると道場には相手がいなくなっていた。それを知っているのはもちろんクラスで里子だけだった。
平凡なかよわき乙女と演じている瑞希の成績は目立たないほど中間点である。学年一番を取る事だって出来る頭脳は主にテストで平均点を取ることに使われた。常に十番以内をキープしている里子はいつも瑞希に勉強を教わっている。
「どうしてまじめにやらないんです」
一度だけ里子がま顔で聞いたことがある。
「平凡に生きる事に人生かけているんだもん」
瑞希は冗談ともつかない風にそういった。里子も瑞希の気持ちはわかっているのでそれ以上は言わなかった。
「おはようございます」
里子がいつものような笑顔で瑞希の前に立った。襟と袖口の部分が水色で三本の細い白線が縫ってある真っ白のセーラー服は、里子のポニーテールによく似合っていた。芸能人のように洗礼された顔立ちは、甘ったるい声と常識はずれの言動で学校中のアイドルになるのに十分な器量だった。少し長めのスカートは紺のフレアで、首には丁寧に紺色のスカーフが巻かれている。背の高さは瑞希と同じかそれより小さいくらいだが、スリーサイズは格段に里子に軍配が上がったので、時々不公平な神をのろいたくもなった。同じ制服を着ていてもその差は歴然だった。
「寝不足みたいです」
里子が大きなあくびをした。近くの男子がそれを見て感動している。あくびで感動するなよと思いながら瑞希は「はしたないぞ」と里子に忠告した。里子は分かっているというような顔をしてから瑞希の机に両手をついて顔を近づけた。嫌な予感がした。
「放課後ちょっと付き合ってくださいな」
「やだ」
「そういわずに」
「いつものところでしょ。だったら彼氏誘いなさいよ」
「断られました」
「私だって」
いやだよといいかけて瑞希は言葉を失った。いよいよ泣きそうな顔で訴えかけている里子がそこにいた。
「わかったよ」
観念した瑞希がそう答えると、悲しみに沈んでいた里子の顔が一瞬で笑顔に変わる。
だまされた。
学校に演劇部が無い事もあって里子は地元のアマチュア劇団に所属している。ノルマのチケットを買わされて何度か劇場に足を運んだ。オリジナルの脚本はお世辞にもすばらしい出来とは言えなかったけれど、素人の瑞希が見ても里子の演技はすばらしかった。相手がそんな「女優」であったことを瑞希はすっかり忘れていたのだ。うれしそうに手を振って自席に戻る里子を見ながら自分の今日の運勢を呪った。
不運は続くもので、昼休みに入ると自他ともに認めるパソコンオタクの梶原健介が、昨日のフリーキングマッチの話題を自分事のように自慢げに話していた。健介が「ウエストアイ」のファンというより「狂信者」である事は日ごろの言動から明らかであったが、教室の中の大半はそんなことに興味があるはずなどなく、彼の話を迷惑そうに聞いているだけだったし、瑞希に至っては迷惑この上なかった。
「すごいよやっぱり彼女はさ」
瑞希は助けを求めて向かいの机で弁当箱を開けようとしている里子の顔をうかがった。
「すごいよ」
里子が楽しそうに健介のまねをしたので、瑞希は口を尖らせて応戦した。
「一度会ってみたいな。きっと絶世の美女に違いないよ」
里子が机に突っ伏した。きっと声を出さずに大笑いしているに違いない。
(おまえの目の前にいるよ、その絶世の美女とやらがさ)
心の中でそう叫びながら大きくため息をついた。いくらファンサイトなんかで同様の書き込みをみて免疫が出来ているとは言え、生でそのセリフを聞かされるとは思っていなかった。瑞希はなんだか恥ずかしくなった。
「でもなあ」
健介は考えるように少しだけだまったかと思うと真剣な顔で続けた。
「性格は悪いかもしれない。この前もチャットでいじめを受けているやつがいたんだ」
そういえば何日か前にチャットで喧嘩を売りつけてきたのがいた。無視したけれど余りに執拗なのでちょっとだけからかってやったら逃げ出した。他人事のように語っているがたぶん本人だろう。瑞希はこれ以上ウエストアイの事を自分の前で話さないことを祈っていた。そしてどうやったらあの忌まわしい口をふさげるか考えていた。
「いっそ殺すか」
別にネットで悪口を書かれるのはなれている。しかしすぐそばで本人がいるとも知らずに発せられた言葉に瑞希の苛立ちは限界に達していた。殺すまでいかなくても殴り倒すぐらいは許されるだろう。瑞希の口元がゆがんだ。
健介は別に「悪口」を言っているつもりは無かった。なぜなら彼はウエストアイの狂信者だったからだ。けれど瑞希にとって彼の話は既に腹立ちの原因でしかなかったし、その結果に対しての苛立ちがさらに瑞希を腹立たせていた。
彼は運がよかった。もし彼女が本気で殴ったなら、今ごろ救急車の中で生死をさまよっていたに違いない。
瑞希は立ち上がると怒りに任せて机をたたいた。いや殴ったというほうが正しいかもしれない。ものすごい音が教室中に響き渡り、合板で出来た机の天板に大きなひび割れができた。一番驚いたのは瑞希自身だった。向かいで里子が呆れ顔で箸を咥えていた。
「ごめんね」
すぐに冷静さを取り戻した瑞希は、ゆっくりと教室を見回すと誰にとも無く謝った。そして恥ずかしさで真っ赤になった顔を伏せたまますばやく椅子に座わった。
教室はすぐに喧騒を取り戻した。健介だけが狐につままれたような顔をしていたが、すぐに目の前の弁当箱に興味の対象を移した。瑞希は焼きそばパンの残りを早々と口に放り込むと、チョココロネとアンドーナッツをものの五分で平らげた。
「普通の女子高生はお昼を五分で食べないですよ」
小さな弁当箱に申し訳程度につめられているご飯を口に運んでから、里子はその箸を瑞希に向けた。
「本性ばれてもいいんですか」
瑞希は聞こえない振りをして牛乳を飲んでいたが、動揺したのか大きく傾けすぎた。口から鼻に流れ込んだ白い液体は瑞希の口の中を飛び出すと、そのまま目の前で弁当を食べてる里子の髪の毛に散らばった。
里子は顔を伏せたまま乱暴に箸を置いた。
「ごめん」
瑞希はそう言うのが精一杯だった。