二
伊集院・浅野研究室から少し離れたひな壇の最上階で杉中涼子は夜の街を眺めていた。もうとっくに日は暮れたというのに、この辺はまだ熱気が抜けていない。夏用の制服はかなり涼しかったが、それでも額にはわずかに汗が滲み出してきた。
涼子の位置から見渡せるテーブルでは、学生がスタンドの明かりだけでなにやら楽しそうに話している。時々涼子のほうを見てはものめずらしげに笑っている。これだけ遅い時間に大学の校舎に女子高生がいるのは確かに珍しいかもしれないけど、涼子はまったく気にしていなかった。
しばらくすると男が一人階段を上ってきた。くたびれたポロシャツにジーンズ。大学院生に違いない。彼は最上階まで上りきると周りを見渡し、セーラー服の涼子を見つけると足早に近づいてきた。
「杉中参事ですか」
涼子はわずかにうなずいた。
「自分は山口恭平であります」
山口が直立不動で敬礼したので、涼子は手を振ってそれを止めさせた。
「田澤は」
「先日山下主幹といらしてからはまだ」
「今日あたり来るわね」
「あの」
山口が心配そうに涼子の顔を覗き込んだ。
「心配無いわ。言うとおりにうまくやって頂戴」
「了解」
山口はまた敬礼をすると足早に去っていた。
「眠り姫」を起こす事は簡単だった。直接YUKIにアクセスし再起動をかけるだけだ。しかしそのためには彼女の守護神とも言える基幹用スノウサーバーを突破しなければならない。そのサーバー用のファイアーウォールも並大抵のハッカーには敗れない。涼子でさえ難しいだろう。それができるのは田澤佳奈のほかに四人いるだけだ。そのうちの一人、池田瑞希を無理やりとはいえこちら側につけることが出来たのは幸いだった。上田京子のミスが涼子を助けたのだ。
杉中涼子もユキシステムズの管理職で渉外部処理課の参事である。つまり京子の上司だ。十三人いる超S級の一人で、可奈とは会社設立時期からの同僚であり、一時はパートナーとして仕事もした。もともと年が離れているので、親友とまでは行かなかったが、それなりに付き合いの深い仲である。
「眠り姫覚醒プロジェクト」は、その賛否をめぐって社内抗争となり両者の間で小競り合いを続けてきたが、ついに急進的な推進派が政治家を巻き込み力ずくでプロジェクトを推し進める事になった。
もちろん会社設立当初のメンバーは、YUKIの覚醒に否定的であったから、涼子もそう言った立場から言えば可奈とともに戦うはずであった。けれどそう出来なかった。その理由が論理的に説明できなかったので、涼子は可奈に「ごめん」とだけ告げて別れた。涼子自身は覚醒に積極的ではなかったが、彼女の古い記憶はYUKIの覚醒を無意識に望んでいた。少なくとも涼子はそう感じていた。それが彼女の過去に原因があるのだとしても、あえてそれを思い出す気も無かった。
十三人の超S級のうち、推進派に回ったのは涼子だけだ。反対派には可奈と浅野の二名がたち、あとの十名は中立を表明した。推進派と反対派が予備調査で半々になったことが原因だ。超S級が二手に分かれて全面戦争をするなど、関ケ原のような戦いを再現するつもりは無かった。
超S級は、全員が集まって方針を決めるなどという習慣も権限もない、個別に活動するハッカーである。各人が日本にとって最善の方法を選択する権利があり、そのために他の十二人を敵に回したからといって誰からとがめられる事も無い。
今回十人は傍観する事を良しとしたのである。
涼子は柵を乗り出して、下の階を見下ろした。
髪を腰まで伸ばした少女が、二人の少女を引き連れて浅野の部屋に向かっているのが見えた。すぐに長い髪の少女が涼子の視線に気づいて振り向いた。
「さすが」
涼子は踵を返すと大学を後にした。