一
山田は機嫌が悪かった。子供の夜鳴きのせいで十分に睡眠が取れなかったうえ、出掛けに妻と口喧嘩したことが主な原因だったが、自分の目の前にえらそうに座っている東京から来た若すぎるお偉いさんにも原因があった。山下主幹が連れてきたお客さんを、山田秀作は最悪の気分でむかえた。
市役所の八階にある電算器室は、紀子の部署から主幹の山田を頭に、加藤、大田という三名が常駐し、運用管理を任されている。
山田は今年三十二歳だが、この世界ではそう若い方ではない、それでもS級四百八十位はそれなりの実力である。S級合格が二十八のときであったから、紀子に比べるとずいぶん遅咲きだ。それだけに紀子に対する感情も穏やかではなかった。
加藤は二十六歳。大学院は「ユキシステムにおける感情の誕生と制御について」という論文で卒業したが、いまだ親元に寄生して生活している。論文自体は今までの理論を再確認したにとどまったが、感情が制御不能になった世界で人類が直面する恐怖についての記述は、論文と言うよりむしろSF小説に近かった。友人がそれを小説にすることを薦め、本人もたいそう乗り気であったが、最初の書き出しに苦労した上、四百字詰め原稿用紙で二百枚に達することが出来ず断念した。
「人にはむき不向きがあるんですよね」
加藤の空想はすばらしいがそれを文章にする能力は優れてはいなかったようである。
大田は工業高校を卒業した。入社は紀子と同期である。軽いのりで先輩方にはさほど印象が言い良いわけではないが、年上の女性には妙に人気があった。だから十歳も年上の彼女と歩いている姿を見ても誰も不思議に思わなかった。
二人とももう一歩S級に届かないでいる。加藤は自分がこの道に実は向いていないのではないかと思うこともあったが、大田のほうはまだ若いので気にしていなかった。同じ歳なのにS級である紀子に対してもただ尊敬の念だけを持っていた。
紀子が連れてきた特S級である可奈に対して、山田は敬意を払うべきだし、どう考えても上下関係は明白だったが、彼は見た目が小娘の可奈の高圧的な態度が気に食わなかった。
「ファイアウォールのログを見せてくれない」
机の上に並べられた書類に目を通し終わると加奈は、不機嫌に座っている山田に視線を移した。山田は無言で加藤のほうを振り向いた。
「昨日までは別に異常はありませんでした」
加藤に渡されたファイルをチェックする可奈の表情は真剣だ。その真剣な顔が一瞬だけゆがんだのを紀子は見逃さなかった。
「どうかしました」
可奈は意外そうに紀子を見てすぐに資料に目を落とした。しかし三枚目の資料を見たとき、可奈は紀子に耳打ちした。頷いた紀子が部屋を出るのを見届けて、山田が口を開いた。
「何か問題でも」
ここの責任者は自分だという自尊心がそうさせたのか、山田は無謀にも可奈に挑戦した。
「ログはすべてチェックしています。あなたが必要な情報は無いと思いますが」
「ええ、一般的なチェックはされていますし、別にあなたに落ち度は無いでしょう。でもわたしが探しているの特殊な痕跡であって、それは通常探し当てることは出来ません」
もっともな反論に山田も口をへの字に曲げただけだった。
「ところでここのサーバーのバージョンは」
「3.54に最新パッチを当てています」
大田がはっきりとした口調で答えた。
「現在の最新バージョンは――」
「5.22です。確かにセキュリティーの基本は最新バージョンへの移行が重要だと思いますが、財政的に厳しい中ではそうもいかないのが現状です」
「財政課がうんと言わないんだろう」
「まあそういうことです」
「ああいうところは、数字上の予算カットが仕事だからな。あとで問題になったからといって責任とる訳でもないからたちが悪いよ」
OSも長く世に流通すれば必ず解析される。かなりの頻度でバージョンアップを繰り返してきたユキシステムはその脅威から比較的遠い位置にいた。しかしバージョンアップの頻度が多くなるにつれ、ユーザーが悲鳴をあげた。その多くは金銭的な理由からだった。
「しかし今回はそれがいい結果となったわけだ」
組みなおした足が短めのタイトスカートから少し多めにぞのいたので、大田は少し照れて目をそらした。
「3.70以前の実存するサーバーが必要だったんです。敵はそれ以降に感染するウィルスを使用するはずなんですよ」
何時の間にか戻ってきた紀子が可奈の後ろから説明した。敵に付いての説明はすでに受けていた。オリジナルメインフレームである「眠り姫」を覚醒するプロジェクトの推進派と反対派の抗争が本格的に始まり、可奈が反対派の陣頭指揮をとっているので、推進派を「敵」と呼んでいるのだ。
可奈は紀子から一本のメモリーカードを紀子から受け取るとそのまま山田に差し出した。
「攻撃型防壁のプログラムよ。昨日作ったばっかりだから設定値は適当に入れてあるの。ここにあわせて変更してからコンパイルして」
山田はしばらくそのメモリーカードを眺めていたが、無言で向き直り端末に差し込んだ。コンパイルする前にソースを眺めて頭をふった。これだけのプログラミングを昨日作ったんだとしたら化け物だ。
「何時から作ってたんです。これ」
「だから昨日って言ったでしょ」
山田は変数を丁寧に確認していった。その作業が終わる頃、変数を適当に入れてあると言う言葉は冗談なのかも知れないと思っていた。変数の設定は完璧だった。加藤にもう一度確認させたが問題はなかった。
「そう。あなたたち基本に忠実なのね」
スノウサーバーのバージョンとハードウェアの機種名によって推奨値というのが存在する。可奈はその推奨値をデフォルトで打ち込んでおいただけだった。
大きなソフトになるほどコンパイルには時間がかかる。このソフトも半日ほどかかりそうだというと可奈は食事に行くと言い出した。山田は後輩二人に現場をまかせて、二人を案内することになった。
「やきとり」
階級順に言えば、田澤課長が一番えらい。課長判断と言うことで、見た目には入店を禁止されそうな二人を引き連れて山田は行きつけの居酒屋に向かった。店の中は木で装飾されていて雰囲気はそこそこいいし、値段も高くは無い。店の若奥さんが山田とは中学の同級生だった関係でひいきにしているが、それでもこの店に来るのは月に一度か、地方からお客が来た時くらいである。小さい子供が家にいる事も合って、飲んで帰ると妻の雷が落ちるからだ。カウンター脇には三十九型のプラズマテレビが掛けられていて、ナイター中継を流している。店はいつもどおり閑散としていたので、一番奥の座敷に座った。
店員がかったるそうに近寄ってくると「お飲み物は」と無愛想に聞いた。
ビールを注文した後、やきとり、焼きうどん、ステーキなど腹の足しになりそうなものばかりを追加して、三人は乾杯をした。
「お疲れ様でした」
再年少の紀子は、若さを前面にだして中ジョッキーを一気に飲み干すと、店員を捕まえてグラスの補充を要求した。
酔いが回ってきたとき、山田をデジャブが襲った。入社してすぐに行われた研修に当時は主幹だった田澤課長がいたような気がした。名前を特に覚えていたわけではなかったが、今はっきりとその姿を思い出した。
「人違いでなければ。俺は二十年ほど前に、あんたに会ったことがある」
可奈はその話を当然のような顔で受け流した。
「思い出したみたいね。わたしははっきりと覚えているけどね」
山田のほうが驚いた。ただ研修に行っただけの地方の若造を研修担当でもない課長が覚えていたことにただ驚いた。
「わたし名前を覚えるのは昔から得意なのよ」
「でも」
山田は残りのビールを一気に飲み干した。
「あなたはあれから少しも歳を取っていない」
しばらく静寂が訪れた。カウンターの客の笑い声が聞こえる。テレビではナイター中継が終わって、日本ハムの勝利を報道していた。山田は三杯目のジョッキに手をつけた。
「そうよ。わたしは歳を取らないんだもの」
特S級の課長はそう言うと、手に持っていた焼き鳥のくしをテーブルの脇のつぼに投げ入れた。
「特S級」
SSと呼ばれるその資格は、S級での実績はさることながらネットワークから物理化学、著作権法などに至るまであらゆる知識を要求される過酷な試験を通過して初めて手に入れる事ができる。その筆記試験のレベルで言えば弁護士のそれ以上で、その権限は、緊急避難的にネットワークの保安における超法規的処置が許可されるほどと言われてるが、その本当のところは、その資格を得るまで知ることは出来なかった。
現在十三名いるといわれている特S級は、ハンドルネームではなくファーストネームが使用される。特S級は各種競技で審判や判定をする立場にもあったので「カナ」というハッカーの名前をどこかで目にした事もあったはずだが、審判のお名前を気にする人などそうはいない。山田もそうだった。
結局、歳を取らない課長の謎をその場で解決することは出来なかった。酔っ払った紀子が山田に絡んできたので収拾がつかなくなったからだ。その話は別の機会にしようと考えて店を後にした。沢山頼んだ料理の大半は紀子の胃袋に消えて、彼女は満足げに市電にのって先に帰路についた。まだ九時だというのに駅前の商店街はその大半が既に眠りのなかにいて、ゲームセンターとコンビニ、ファーストフード店がわずかな明かりを発していた。
山田は泊まっているホテルまで可奈を送ると、少し考えてから行きつけの店に寄る事にした。
その店は表通りを少し入ったところにあった。カウンターに六席ほどの椅子があるだけの小さな店で、カクテルを中心に出していた。店のマスターは山田よりかなり若いが結構客からは好かれていて、若い女の子の常連が多い。だからというわけではないが、山田はこの店が結構気に入っている。おつまみと言うより本格的なご飯ものも出していたし、適当なカクテルを適当に作ってくれるいい加減さが魅力だった。
いつもなら、若い女の子でにぎわっているこの店も、今日はなぜか客がいなかった。
「お仕事でしたか」
「そう。接待」
何となくまたビールを注文してから少し後悔した。
「珍しいですねいまどき接待なんて」
「自腹だけどね」
なるほどとマスターがうなずいてビールを山田の前に差し出した。
「珍しいね貸切なんて」
「今日はほら、誰だかのライブがあるらしいんで」
そういえば大田がそんなことを言っていた。知らないんですかと聞かれて、自分も歳を取ってしまったと嘆いた。
客が一人入ってきた。若い女だったが常連ではなかった。その女は迷うことなく山田のとなりに座るとカクテルを注文した。背の高い女だった。山田は見上げるようにその女の長い黒髪と子供のような顔つきを観察した。
「助けて欲しいの」
女は突然、それでいて冷静に正面の棚に並んだ酒瓶を睨みつけるような態度で言った。かなり酔いの回っていた山田は最初そのセリフが自分に向けられたものだとは思いもしなかった。
「助けて欲しいのよ、ラウンドパン」
山田は自分の耳を疑った。見も知らずの女が自分のハンドルネームを口にするなどという事は考えられなかった。口まで運びかけたビールをゆっくりとカウンターの上のコースターに戻してから、もう一度その女を見た。
「何処でそれを」
女はそれには答えずに手にもっていたグラスの中身を一気に飲み干すと初めて山田のほうを振り向いた。
「でもこれはお願いじゃないの」
山田は急に抑えようの無い眠気に襲われた。頭を支えているのが困難なほどにまぶたが下がってくる。この女何を言っているのだろう。俺に何をしろと言うのだろう。
「もう目を覚ましても良い頃だと思わない」
女の声が遠ざかる意識のなかにこだました。
「お客さん」
マスターの声に、山田は意識を取り戻した。隣にはもう女の姿は無かった。
「だめですよ寝たりしちゃ」
マスターの笑顔につられて山田も微笑む。今何時だろうかと時計を見たが、店に入ってからそう時間は経っていなかった。隣にいた女の事を聞くとさっき帰ったという。
「一杯しか飲んでいかなかったんです」
口に言わなかったのかもと笑い飛ばすマスターの言葉を上の空に聞きながら、山田はさっきの言葉を思い出していた。
「もう目を覚ましても良い頃だと思わない」
山田は真っ先にユキシステムの事を思い出していた。「眠り姫」というあだなのとおり、彼女は実際には眠っているようなものだと先輩からも聞かされていた。意志をもち自ら改良し成長するプログラムの存在を安易に肯定できるものではないが、山田は「眠り姫」に対してある種の憧れを持っていた。
「彼女に会えるのだろうか」
そう思った自分が少しだけ恥ずかしくなり、勘定を済ませると夜の町に出た。夜ともなれば少しは肌寒い。酔いを覚ますのにはもってこいだ。山田は半分に欠けた月を見上げると大きく深呼吸をしてから、小走りで駅へと向かった。