一
瑞希からその不思議な体験を話されたとき、里子は落ち着かない気分で授業の終了を待っていたが、終了のチャイムと共に、瑞希に野暮用があるとだけ告げて一人で問題のジャンクショップへと向かった。里子は行きつけの店に比べて格段にみすぼらしい印象を与えるこの店を前にして、アクセサリーショップへの入店を辞退する彼女の恋人とは違った意味で戸惑っていた。「やな感じ」を里子は痛烈に感じていたけれど、危ないと言うわけではないさそうなので、お化けが出るという噂の廃屋にでも入るかのような慎重さで里子は店の敷居をまたいだ。
里子がS級九十八位と言う実績を持っているわりに、ハードウェアーに関してはそれほど執着心を持ち合わせていなかったのは、彼女の財政が裕福だったからに違いない。彼女は常に最新型のハードを入手できたからに違いない。
ジャンクショップは中学の修学旅行以来だ。瑞希に連れられていった秋葉原は確かに魅力的ではあったが、里子にはそこに集まる若者たちの特異な熱気が好きになれなかった。
リンゴマークを横目に八吋フロッピーディスクドライブの前を通り過ぎると、アダルトソフトを物色中の大学生が思わず持っていたメディアケースを手から滑らせた。大学生から見れば「この場に似合わないお姫様」が歩いているのだから無理も無い、しかし里子はそれを無視してまっすぐに奥のカウンターへ向かった。
「待っていたよ」
古いレジスターの陰で初老の男が本を梱包していた。その言葉が意外だったので里子はとりあえず立ち尽くすしかなかった。
朝から不機嫌な瑞希を見て、里子はただ事ではないと感じていた。瑞希が感情を表に出すことを嫌っていたからで、里子としてはその理由を聞き出すために骨を折る必要があった。
昼になってようやくその不思議な体験を聞き出した里子も「これはお願いじゃないの」という台詞に不快感を禁じえなかった。それはつまり脅しだった。それは里子にとっても許せることではなかった。
「具体的な要求が無いのよ」
瑞希の不快の原因は多くはそのことだったようだ。これは命令だと言っておきながら「たすけて」としか言わない少女。何からどうやって助けるのか、それもと手伝えと言うことなのかさえわからなかった。ただ、少女に緊迫感が無かったと聞いて、それは後者だろうと里子は考えていた。店の老人に会って問いただそうと決心したのはすでに終業のチャイムが鳴る五分前だった。
その男は持っていた荷物を床におき、奥の部屋に里子を招き入れた。里子はお嬢様ではあったが、別に純粋とか無垢とか、ましてや箱入りとか言う物からは無縁だった。歳相応の知識もあったし、経験もしていた。だから奥の部屋に入り込むことの危険を里子は知っていた。しかし彼女自身がそれなりの武術の修得者で、相手も老人だったから、用心しながらも彼女はそれに従った。
奥の部屋は和室になっていた。里子は古い倉庫を改造した商業施設の中にあるこの純和風の部屋を妙に感心して眺めていた。畳の上には黒ずんだ色の丸いちゃぶ台が急須と茶筒を支えていたし、脇にある低い引出の上には黒電話が静かに座っていた。テレビはまさに昭和初期のものだった。ただ店の奥に置いてある端末だけがその雰囲気を明らかに壊していた。最新機種がそこにあった。
老人はお茶を入れるとユキシステムについて淡々と話し始めた。
里子にとってそれは驚くべきことではなかった。その多くを彼女は母親から聞いていた。ただ彼の主張は里子には理解できるものではなかった。
「ユキは目覚めなければいけない」
「どうして」
「世界がそれを望んでいるからだ」
里子は少し考えて、それだけじゃその話には乗れないと答えた。
「だけど、君らはそうするしかないんだ」
彼はにやついていた。
「それは運命だからだ。運命からは逃れられない」
次の瞬間、老人は縦に二つに割れていた。
何が起こったのか理解するのにしばらく時間が掛かった。老人の血が部屋中に散らばっているのを見て、PTSDになるかもと冷静に考えている自分がいた。目の前に短い髪に高い背の少女が日本刀を振り下ろした姿勢のまま肩で息をしていた。少女の顔は少女漫画に出てくる王子様のように整っていて、胸は必要以上に大きかった。
「あなただれですか」
里子は頬についた赤い液体を拳で拭い取るとその少女を睨みつけた。その少女は負けずに睨み返すと日本刀を振り上げて里子の方へ飛び込んできた。里子はすばやく身をひるがえし、飛び込んできた少女の背中を軽く押した。勢いあまった少女はそのままふすまに飛び込んだ。立ち上がった少女が発した言葉は平凡そのものだった。
「あんた何者」
何が起こったのか里子の頭はそれをすぐには理解できなかったが、何をすべきかは瞬時に判断し実行していた。ちゃぶ台の湯飲みを投げつけると里子は出口に向かって走り出し、店のほうへ転がり出た。店には誰もいなかった。カウンターの後ろに、シャッターをおろすときに使う鉄の棒が立てかけてあったので、里子はそれを引き寄せ相手が飛び出してくるのを向かい打つために構えた。心臓がどきどきする。息が苦しい。額ににじむ汗をふき取ると血の匂いがした。
「逃げたみたいですね」
相手があられないようなので、里子は顔についた血の混じった汗をふき取って、カウンターの椅子にかけてあった老人のジャンバーを羽織った。その紺色の薄手のジャンバーが血だらけのセーラー服を包み込んでくれた。季節に似合わない格好だが仕方が無い。顔を伏せたまま近くのトイレに駆け込みとりあえず顔を洗った。冷たい水で一気に目がさめる。それでもさっき起こったことは夢ではなかった。里子の手には確かに血がついていた。
里子が顔を上げたとき、鏡の中にさっきの少女がいた。