極北の虹の下で
タイトルは、この話を書いているときにイメージしていた歌の題名にインスパイアされたものです。
耀子と芳麿は密かに宴会場を抜け出し、人気のない別室に移った。芳麿は廊下に誰も居ないことを確認すると、扉を閉めて耀子の正面に座る。
「えっと……お話、とは……?」
「今日こそ、どうしてそんなに生き急いでいるのかをお話していただこうと思いまして」
芳麿はまっすぐに耀子の瞳をまっすぐに見つめてそう告げた。
「うーん……」
耀子は悩ましげな様子で芳麿から目をそらしている。これでも以前は何ともなさそうにはぐらかしていたのだから、普段よりは手ごたえがある方だ。大正上皇からの一言が効いているのだろう。
「……病弱な次男坊では、力不足ですか?」
「そんなことはありません!そういうことじゃないんです!」
試しに芳麿が自虐的なことを言ってみると、耀子は目の色を変えて否定しだした。いくら他人の心に鈍感な彼女とて、明らかな地雷くらいは判別がつくし、良心自体は人並み以上にある。
「……芳麿さんは、素敵な方です。知的で、優しくて、頼りになって。でも、だからこそ……」
「……」
「だからこそ、私、そんな素敵な人に、嫌われたく、なくて……」
そう言って耀子はまたうつむいてしまった。嗚呼成程、この人はそういう人だったのかと思った芳麿は、内心歯が浮きそうになるのを抑えながら、強引に耀子と目を合わせると、その手を取って静かに告げる。
「耀子さん。大丈夫です。天地がひっくり返ったとしても、私は鷹司耀子という女性を、愛しておりますから」
彼女は、間違えることを極端に恐れていた。芳麿に自分の心の最後の1部屋を開かないのもそれが原因である。ならば、絶対に間違えないことを確約し、ついでにロマンチックな言葉でも吐いて正常な判断力を失わせれば、妻は自分にすべてを打ち明けてくれるだろうという目論見である。
しばらく耀子は芳麿と見つめあっていたが、とうとう耐えられなくなったのか、芳麿の読み通り、自分の正体を打ち明けようと決心した。
「……わかり、ました。すべてを、お話しさせていただきます」
「ありがとう。でも、その前に」
芳麿はそういうとすたすたと歩いて行って勢いよく扉を開ける。
「鷹司公爵家では盗み聞きを美徳としているんでしょうか?」
「ほらぁ、やっぱりやめた方がいいって言ったじゃん」
「いや、信輔兄さんがついてこなければバレませんでしたって」
そこには、扉の前で聞き耳を立てていた信輔と信煕がいた。
「すみません芳麿さん。信煕のやつ聞かなくって」
「妹の心配をしない兄が、どこの世界に居るってんだよ」
静かに怒っている芳麿に対して、信輔は平謝りする一方、信煕は少々不貞腐れた様子である。
「もうその辺にしてあげてください。せっかくですから、お兄様たちにも聞いていただきたいです」
「良いのですか?」
「もう当たって砕けろって感じですけど、全てがうまくいくならこっちの方が都合がいいので」
自分を心配してくれる人がいる喜びをかみしめつつ、観念したように耀子は言った。
「まあ、耀子さんが良いのなら」
「それでは、少々長くなりますが、改めてお話させていただきます……あれは今から一万三千……」
そうして、耀子は大体のことを3人に語った。
自分には前世の記憶があること。
その前世では今から100年弱未来の日本で暮らしていたこと。
今まで自分の挙げてきた成果は、そのほとんどが未来の知識によってもたらされたものであること。
自分が生き急いでいるように見えたのは、おそらくこの先日本に訪れる悲劇的な運命を回避するために奮闘していたからであること。
どこまで信じていたのかはわからないが、煕通はこのことを知っていたこと。
「……以上が、私という人間の正体でございます。正直、とても信じていただける話とは思っておりませんので、忘れていただけた方が気が楽なのですが……」
事情を語り終えた耀子は、処刑を待つ罪人のように三人の表情をうかがう。
「……いや、信じますよ」
「というか、その方がよっぽどしっくりくるな」
しかし、彼女の予想は盛大に裏切られ、芳麿と信煕はむしろ納得がいったようにうなずいていた。
「ええ……」
拍子抜けである。嫌われるかもしれない、狂った女だと思われるかもしれない。そう思って、今までのらりくらりとかわしてきたのは何だったのだろうか。
「うーん、まあ、何をどう言おうと、耀子さんは耀子さんでしょ。僕はそれでいいかなあ」
信輔だけは、父と同じように軽く流すようなそぶりを見せている。四六時中鳥の事を考えている兄ではあるが、やはり煕通の長男なんだなと耀子は思った。
「というか、前世の記憶も何もなく、素であれだけのことをする方が異常じゃないか?」
「……まあ古今東西のいわゆる天才鬼才と呼ばれている人たちは、前世の記憶に導かれてその偉業を成し遂げたわけではございませんので、ありえない話ではないんですけどね」
「まあこの話はその辺にしておいて……ところで耀子、1つ聞かせてもらっていいか?」
信煕が芳麿との議論を切り上げて耀子に質問する。
「なんでしょう?」
「結局、歴史は変わっているのか?」
「はい。お父様はもちろん、芳麿さんやお兄様たち、その他たくさんの方々のおかげで、私の前世の時より、今の日本は遥かに良い状況に置かれています」
「ん?陸軍で兵器開発をしている信煕はともかく、僕なんか役に立ったっけ?」
「信輔さんにそう言われると、私もなんか不安になりますね。一応、バイクのフリート試験は手伝ったことがありますが……」
信輔と芳麿が疑問を呈する。
「えっと、まず信輔お兄様は脚気の再現実験の時に鶏の世話を手伝っていただきましたよね?前世の日本では、脚気に対する理解が不十分だった結果、日露戦争で戦死した方よりも多くの兵士が病死してしまったのです。最終的にケリをつけてくれたのはお父様と今の上皇陛下ですが、私が信輔お兄様と一緒に取ったデータは、大勢の陸軍の皆さんを救ったんですよ。あと私に芳麿さんを引き合わせてくれたこともファインプレーだったと思います」
耀子にそう言われたことで、信輔は今になって自分が重要事項にかかわっていたことに気づいた。
「それから芳麿さんは御国航空練習所を運営してくださっている武彦殿下とのつながりを作っていただけたというのが助かりました。航空機の発展速度はまだまだ衰えませんから、今の内からパイロットを大勢養成していただけるのは非常に大きいです。そしてそれ以上に、芳麿さんご本人が私の精神的な拠り所になっていただけるうえに、子供まで授けてくれることがとってもありがたくて……もしよろしければ、あと1人2人くらいほしいなあ、なんて……」
耀子が急に頬を赤らめてもじもじしながらノロけだしたため、その場の空気が何とも言えないものになってしまう。信煕はわざとらしく咳ばらいをすると、わき道にそれた議論を元に戻すべく、次の質問をぶつけた。
「まあ大体わかった。それで、これからどうするつもりだ?」
その言葉を聞くと、耀子は少々困ったように返答する。
「とりあえず、米露との諍いを先送りし、英国との協力関係を強化しながら、国力を充実させていくということでよいと思います。ただ、具体的にどう立ち回ればいいかと言われましても、もはや前世の"史実"は影も形も残っておりませんので、一介の技術者である私では何とも……」
「それなら耀子も今は『この時代の人間』なわけだ。今まで無理させて悪かったな。これからは背伸びなんかしないで、我々と一緒に歴史を作っていこう」
歴史の流れが変わっても、未来の記憶は確かに存在しているし、この先大きな功績を上げる有能な人物もある程度はわかっている。それでも耀子は、以前「自分は強くない」と言っていた兄の言葉に、どこか救われた気持ちになったのだった。