鷹は空へ死体は土へ
それは、あまりにも突然の訃報であった。
1926年2月17日、鷹司煕通、亡くなる。死因は史実通り脳溢血だった。
「うそでしょ……正月にあったときはあんなに元気にしてたのに……」
母の鷹司順子が父の遺体に縋り付いて泣いている横で、耀子は呆然と座っており、いつもの覇気がまるでない。鷹司家現当主として粛々と指示を出している信輔とは対照的だ。とはいえ、耀子は女性であるし、今は山階家の人間であるから、とりあえず戦力外とみなされて放置された。皆動揺しており、それどころではなかった。
当初、運よく書き残されていた遺言状によって葬儀は身内だけで粛々と進められる予定であったが、陸軍時代の知人や付き合いのあった華族(例えば順子の生家である徳大寺家や房子が嫁いだ米沢上杉家など)はもちろん、その昔資金を援助してもらったという馬産地の牧場主に、いつの間にか買収していた朝霧高原にある零細牧場のスタッフ一同、挙句の果てにはおしのびでやってきた大正上皇までもが式場に押しかけ、結局は大規模な葬式になってしまった。
「……」
「耀子さん……」
いまだ立ち直っていない耀子を芳麿が心配そうに見つめる。まさに心ここにあらずと言った感じで、今日の火葬祭でも玉串の奉納手順を間違えていた。
今は直会──葬式が終わった後、関係者や神職を招いてお互いを労う宴の最中である。故人への悲しみを断ち切り、日常生活に戻るための儀式であるから、幾分か雰囲気は明るく、それなりに賑やかではある。つまり、この段階になってもなお耀子が鬱々としているのは良くないのだ。
「耀子さん、そんな風にいつまでも悲しんでいては、お義父様も心配で浮かばれませんよ」
「……ねえ芳麿さん……」
耀子はぽつりと、芳麿に向かってつぶやく。
「なんだい?」
「お父様は……幸せな人生を送れたと思いますか?」
「あれで幸せでない方がおかしいような……2代の天皇から重用され、国民からの人気も高く、子も大成し、孫の顔も見ることができました。少々短かったかもしれませんが、最後は好きだった馬をかわいがりながら穏やかな余生を送れたのですから、文句のつけようがないほど幸せな人生だったと思いますよ」
悲しんでいるというよりは、何か思い詰めているような妻に向かって、夫は優しく答えた。
「……お父様は、穏やかで優しい方でした。昨日も今日も、どこからかお父様の訃報を聞きつけて、たくさん人が駆けつけてくれるくらい、人望のある人でした」
ぽつり、ぽつりと、耀子は何かを懺悔するように、すこしずつ言葉をこぼしていく。
「本当は……人より少し幸せに生き、人並みに働いて、人並みに死ねたはずの方だったはずです。それなのに私は、自分の願望のためにお父様を表舞台に引きずり出し、散々こき使って……その結果がこれです」
「耀子、それは違うんじゃないか」
「ああそうとも。その台詞はどちらかと言うと僕の方がふさわしい」
思いつめる耀子を芳麿が否定した時、不意に耀子には聞きなれない、優しくて、威厳のある声が聞こえた。二人が顔を上げると、そこに立っていたのは
「上皇、陛下……」
「そんなかしこまらないでよ。僕そういうの嫌いだからさ」
無理を言って直会に参加していた大正上皇その人であった。
「はじめまして。君が煕通自慢の娘である耀子さんだね?僕はしがない上皇さ。よろしく」
「よ、よろしくお願いします……」
皇族、それも上皇に突然登場されたため、耀子はうじうじすることも忘れて呆然としている。おまけにひどく気さくな接し方をされているから、もはや何が何だかわからなかった。
「煕通にはまだ明治天皇が生きていたころから世話になっていてね、一緒に馬に乗ったり、市井の話を聞かせてもらったり、政治的な話の助言をもらったり……ほんと、煕通が居なかったら天皇なんてできなかったよ」
「は、はあ」
「だからね、一歩間違ったら、僕が煕通を殺していたかもしれないんだ」
「……へ?」
「煕通は、君の言う通りすごく良い人だった。良い人で、有能だった。だから僕は、そのいいひとに依存しそうになってしまったんだ。芳麿ならピンとくると思うけど、天皇ってね、背負うべきものがすごくいっぱいあるんだよ。雑に言ってしまえば、この国のすべてがのしかかってくることもある。父上みたいな超人だったら、それでもつぶれないんだけど……情けないことに、僕は一般人よりも貧弱だった」
おそらく何度も同じことを思ったのだろう、自分自身への呆れを隠そうともせずに、上皇は言った。
「身の丈に合わないものを背負ってはつぶれるということが何度もあったよ。そのたびに周りの人、とくに侍従長の実輝には迷惑をかけてしまったね。煕通は侍従武官長だから僕の身の回りの世話まで焼く必要はなかったんだけど、何度も相談に乗ってもらってしまったよ。だから……」
ここまで語られると、さすがの耀子も何となく上皇が何を言いたいのか見えてくる。
「もし父が、侍従武官長ではなくて陛下の希望通り侍従長になっていたら、今の私みたいに悩んでいたのは、陛下だったのではないかと、そういうことですね?」
「そのとおり。下手すると君以上に酷いことになっていたかもしれない。いや、確実にそうなっていたと思う。だからさ、結果的にそれを回避させた耀子さんが、そんなに気に病む必要はないと思うんだよね」
「そう、ですか……」
納得したような、してないような、微妙な返事を耀子は返した。この場に居る人物達は知る由もないが、史実の煕通は大正天皇の侍従長を務め、1918年にやはり脳溢血で亡くなっている。上皇の語った"もし"は、別の世界線では現実のものとなっていた。
「ごめんね芳麿、本当は夫として君が慰めてあげた方が格好がついたろうに」
「いえ、実際に義父と深くかかわっていた陛下の言葉こそが、妻の心に最もよく効く薬であることでしょう。とても助かりました」
「そういってもらえると助かる。それじゃ、これからも日本をよろしく頼むよ、芳麿、耀子さん」
「……はい」
「陛下こそ、お体に気をつけて」
二人に別れを告げると、上皇は杖を突いてよろよろと立ち上がる。その様子に気づいた付き人が慌てて飛んできて体を支えた時、何か言い忘れたことに気づいて上皇が振り返った。
「あ、そうだ、耀子さん。経験者として忠告しておくけど、背負うものは少ないに越したことはないよ。特にね、一般的な男という奴は、近くに居る女が何やら苦労していると、少しでも肩代わりさせてもらえないかとやきもきするものらしいからね。折角結婚したんだから、もう少し夫を頼ってみてもいいんじゃないかと思うよ」
そういうと、今度こそ上皇は、付き人に支えられながら、宴会場から立ち去って行った。
「……そうだな。この際だ。耀子さん、ちょっと別の部屋に行こう。二人きりで話したいことがある」
去っていく上皇の背中を見つめながら、芳麿は耀子に告げた。