空飛ぶクロフネ
武部鷹雄は史実だと1915年に殉職していますが、この世界では欧州で全く別の機体である三年式飛行艇を駆って作戦行動中だったため、生き残っています。
「シュナイダートロフィーレースに海軍のパイロットを参加させてほしい?」
唐突な要請に、震災当時から少しお腹が大きくなった山階耀子は素っ頓狂な声を上げた。
「もちろんただとは言いません。本番用機体3機の製作費とチームの遠征費を全額負担します」
海軍航空本部総務部長が少々筋違いな要請の対価を提示する。
「滋野さん、大丈夫?」
「パイロット2名までを入れ替えるぐらいでしたら、反発はあるでしょうが難しくはないですね」
耀子が現場責任者に当たる滋野清武に問うと、可能であるという返事が返ってきた。
「しかし、なんでまたそんなことに?」
「まず、我々のメンツの問題です。前回の大会で、ライト社がアメリカ海軍を巻き込んで参加していたのはご存じですよね?」
彼の言う通り、この世界の1922年シュナイダートロフィーレースにおけるアメリカチームには米海軍の資金と人員が投入されていた。機体は史実のライト NW"ミステリーレーサー"に過給機とフラップを装備して水上機化したような物であり、史実前倒しの影響か決勝レース中にエンジン故障でリタイアしている。
「仮想敵の片方である米海軍が参戦するなら、そちらもレースに参加したいということですか」
「それがまず1つ。ですがこれは我々以外にはどうでもいい話でしょう……本当に大事なもう1つの方は、塚本内務次官からお話していただくべきですね」
総務部長が塚本清治内務次官に話を振った。
「そうですね。端的に言えば、震災で傷ついた日本国民の希望の光になってほしい、と言ったところです」
「国民を慰撫し、治安が良くなるならば、競技用飛行機3機ぐらい安い買い物だと、そういうことですね」
「その通りです。1920年のラリー・モンテカルロに御社が勝利したときも日本中が大いに盛り上がりました。東京・横浜が灰燼に帰し、国民が先行きに不安を感じている今こそ、あの興奮が必要なのです」
成程、これではまるで2011年の東北大学鳥人間チームではないかと耀子は思った。1924年に参戦を延期したのは、色々と時間的に都合がよかっただけで、こうなることは予想していなかったのである。
「もう勝った気でいるみたいですけど、これだけやっても勝率は五分五分ですよ」
「でも無様な負け方はしないでしょう?勝つのが最善ですが、負けてもそれなりに追いすがっていただければ『今度こそ』と生きる希望を持ってくれます」
「重いな……」
「重いですね……」
滋野と耀子は思わず顔を見合わせた。
1923年の暮れ、3機の白地に赤文字が描かれた飛行艇が着水し、横須賀海軍工廠内に入っていく。飛行艇たちは手近な桟橋に停泊すると、中から操縦手がおりてきた。
「和田さん、武部さん、もう"川鴉"には慣れましたか?」
「慣れていないと言えばうそになる。だがなあ、武部、これはその……」
「ああ、なんかこう、慣れちゃいけない危うさがあるというか……」
テイジンのパイロットである佐藤章からの問いかけに、海軍の和田秀穂大尉と武部鷹雄大尉は、微妙な顔をして顔を見合わせる。
三人がさきほどまで乗っていた機体"川鴉"は、シュナイダートロフィーレースのためにテイジンが用意した競技専用機で、これまで耀子がコストの問題から意図的に封印していた新材料を使用しているという特徴があった。
帝国人造繊維 ST11R 川鴉
機体構造:高翼単葉、飛行艇
艇体:ガラス繊維強化フェノール樹脂セミモノコック
主翼、エンジンナセル:炭素繊維強化エポキシ樹脂セミモノコック
乗員:1
全長:7.1 m
翼幅:7.6 m
乾燥重量:800 kg
全備重量:1050 kg
動力:帝国人造繊維 "C222A" ターンフロー式強制掃気2ストローク空冷星型複列18気筒
離昇出力:968hp/3400rpm
公称出力:884hp/3000rpm
最大速度:540 km/h
この世界ではすでにニッチツがアクリロニトリルを供給できるようになったことでポリアクリロニトリルが合成可能になっていた。名前から想像がつくように、この樹脂は他のモノマーと共重合させてアクリル繊維とし、防寒具などに用いるのが一般的である。しかし、ポリアクリロニトリル単体の繊維を特殊な方法で蒸し焼きにすることでPAN系炭素繊維を得ることができ、耀子は久しぶりに陣頭指揮を執ってこれと、エポキシ樹脂を使った炭素繊維強化樹脂をとりあえず使える状態まで開発したのである。
「……すごい、私はしばらくの間、乗るたびにこの機体に魅入られてしまったものですが、実際に欧州の戦場を飛び回った方は感性が違いますね」
「たしかに川鴉はすげー機体だ。それは間違いねえ。だが……とてもじゃないが、命を預けられる機体でもねえ」
「いろいろなものがぎりぎりのところで何とか調和しているような……そんな感じがするんです。自分たちがこれから挑む"戦場"は、まさにその領域での勝負になるんでしょうが……」
「高性能に惑わされて、こんな感じの機体で命のやり取りをしろなんて言うようになっちまったら、日本軍は終わりだろうな」
別に、川鴉がレーサーとして特別ピーキーな機体というわけではない。むしろ、フラップが発明されているおかげで、レーサー全体が史実よりはマイルドになっているくらいである。それでも彼らは敏感に、目の前の相手からではなく背後から忍び寄る死の気配を察知していた。
「章さんも本来はテストパイロットなんだろ?軍用機と競技用機ってぇのは根本的に違うものみてーだから、そこんところ気をつけたほうがよさそうだぜ……ま、今はどうでもいい話だがな」
「はい、自分たちは本番までにあの危なっかしい機体を何とか乗りこなさないといけません。明日以降もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
彼らの本番に向けた努力は、まだまだ続くのであった。