雛はかわいいだけじゃない
耀子が高峰譲吉、高橋是清らの支援を受けて世界各国に特許出願をしている間、東京帝国大学では合成された新物質ポリアミド(66ナイロン)の物性試験が行われていた。この結果、ポリアミドが「人絹の約2倍の剛性と強度」を持っていることが確認されたため、様々な方面が大騒ぎになった。
「なんということだ……繊維の常識が根本的に変わるぞ!」
「産業構造もだ!養蚕業は滅びる!」
「列強の綿花産業も大打撃を受けるだろうな」
実際に布にしてみると安っぽい光沢があり、手触りもよくないため、肌着には基本向いていないようである。しかし、水を通しにくく虫害を受けないという特徴があるため、使い方次第では従来の繊維より優れていることは明白だった。
「これほどの性能があれば、軍装の耐久性も向上するかもしれない」
かくして、政府はPA66を社会構造を根本から覆す重要物質と認定し、早期にその製造と実用化に取り組むため、PA66を製造・販売する半官半民の企業を設立することとなった。
「どうしてわたしはここにいるんですか」
「何をおっしゃいますやら。一番の功労者は発明者であり、特許権者である耀子さんですよ」
心ここにあらずといった様子で会議に出席している面々を眺めている耀子に、となりに座っている高峰譲吉が愉快そうに告げる。彼は化学に詳しい実業家として耀子の発明に興味を示し、彼女を積極的に指導してくれる頼もしい人物だ。
「いやだって私もうすぐ5歳の幼女なんで……」
「耀子さんなら大丈夫です。それにお父様が顧問就任を固辞された以上、あなた以外に適任がいないのですよ」
耀子は今、新会社設立のための会議に参加している。彼女はこの会社で特別顧問の地位につき、"さまざまなところ"に助言を与える役割を担うことになる。耀子の言う通り、本来は幼女に任せるような立場ではなく、最初は煕通に打診がされていたが
「軍務が忙しい」
「発明者である娘のほうが適任である」
と拒絶。耀子にお鉢が回ってきたというわけである。耀子自身はこんな幼少期から日本への影響力を拡大できるとは思っておらず、これを天祐と喜んでいたが、同時に分不相応に祭り上げられている気もして、なんだか気味が悪かった。
「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。議長を務めさせていただきます日銀副総裁の高橋です。どうぞよろしくお願いします」
高橋是清の一言を合図に、新会社設立に向けての会議が始まった。
「それではまず初めに新会社設立の目的について鷹司さんよろしくお願いします」
「はい」
耀子のことをよく知らない出席者は、四歳の幼い少女に説明させて大丈夫なのかと心配したり驚いたりしている。高橋の狙いは、そういう出資者たちにも耀子の能力をアピールし、彼女がお飾りではなく、会社の技術開発を担うエンジニアの一員であることを認識してもらうことにあった。
「今回設立する新会社は、人造繊維をはじめとする合成樹脂、およびそれを主材料とする製品を製造し、社会の発展に資することを目的としております。会社である以上利益を追求する必要もありますが、第一の目的はあくまで合成樹脂製品の分野で欧米列強を超越し、我が国の国力を引き上げ、豊かにすることです。これから共にこの会社を経営していく皆様には、ぜひこのことを心にとめておいていただけると幸いでございます。それでは、これからよろしくお願いいたします」
耀子はまだ小学校に上がっていない少女とは思えないほどはっきりと演説し、着席する。一瞬間が空いた後、拍手が沸き起こった。とはいえ、これだけだと大人たちと対等な能力を持っていると認められるにはまだ不十分である。今回の会議で、どれだけ存在感を示せるかが、そのまま彼女の評価につながってくるだろう。
「ありがとうございます。それではこれからどのような会社にしていくかを議論していくわけなのですが、そのまえに、合成樹脂とは、人造繊維とはどのようなものなのか、鷹司さん、よろしくお願いします」
高橋から再度バトンを渡されて、耀子は以前高橋にしたようにプラスチックやその用途の説明を始める。質疑応答に移ると、いくつか手が上がった。
「原料は大本をたどると石炭と水と空気であると言っていたが、我が国で自給できるものと考えていいのか?」
「現時点では無理です。ポリアミドの直接的な原料は二つありまして、片方はアジピン酸というものです。こちらは石炭より得られる石炭酸から合成することができます。もう片方の原料であるヘキサメチレンジアミンは、アジピン酸からさらにひと手間加えてアンモニアなどと合成しないといけないのですが、我が国にアンモニアを製造できる施設がなく、ドイツからの輸入に頼らざるを得ないと考えています」
会場の空気が少しずつ変わってくる。今まで耀子と接点がなかった出資者たちも、とても子供とは思えない質疑応答に、彼女がただのお飾りではないと認識し始めたのだ。
「原材料が輸入になってしまうということは、それだけ原材料費が高くなるということだが、採算は取れるのか?」
「あるにはありますが、合成樹脂という分野そのものが、まだ欧米列強もほとんど手を付けていない未知の物です。しかし、未知であると言っても、有用な材料であることはわかり切っておりますので、この分野の先駆者として世界を相手に優位に立ち回ることそのものが現在の第一目標だと考えております」
この時代のプラスチック材料というとセルロイドぐらいしかなく、フェノール樹脂とポリ塩化ビニルは発見こそされているものの実用化されていない。ついでに言うなら、プラスチックという用語もまだ発明されていない状態である。
「有用な物質だと言い切ったが、根拠は?」
「既存の材料とは明らかに異なった性質を持ち、それらが有益であることです。まず第一に……」
技術論に持ち込めてしまえば、そこは耀子の独壇場である。高橋にしたのと同じようなナイロンの利用可能性を列挙し、ついでに生地としてのナイロンの特徴も付け加えて、使い方さえ誤らなければ既存の製品に対して明確な優位を持てると主張した。
「うーむ……」
事ここに至って出資者たちは完全に耀子に対する認識を改める。彼女はまさに神童であり、自分たちと同等の知力を持った一人前の人間であると。
その後もぽつぽつと質問はあったが、耀子はそのすべてを捌ききることに成功した。
「本社はどこに置くのか……」
「鷹司邸の近くでいい物件はないか……」
「工場の立地は……」
「ちょうど米沢につぶれそうな製糸場が……」
さて、冒頭の質疑応答で大暴れした耀子であったが、会社経営についてはずぶの素人である。彼女なりに考えることは皆無ではないのだが、何せまだほとんど外の世界を知らないため、判断材料に乏しく、他人の意見に時折賛意を示すくらいのことしかできなかった。そうこうしているうちに会議の終了時間が近づく。
「では最後に、この新会社の名称を決めたいと思いますが……鷹司さん、何か腹案はありますか?」
「え……?じゃあ、帝国人造繊維、なんてどうですかね、あはは……」
まさか振られると思っていなかった耀子は、その場の思い付きで適当な名前を答える。勿論、今はまだ設立されていない帝国人造"絹糸"のもじりである。
「いいですな。異議のある方は」
「「「異議なし」」」
「では満場一致で新会社は帝国人造繊維株式会社ということで……」
「え、待って、みんなそれで本当にいいの!?」
まさか採用されるとは思わず、急いで止めようとする耀子。将来帝人を設立する人たちに申し訳ないと思ったからだ。
「別にいいさ。帝国人造繊維。これほどこの会社を良く表してる社名はないだろう」
「そうですね、少々長いですが響きもよろしく、さらに略称まで考えていただけてますから、反対する理由はないですな」
鈴木商店の金子直吉と高峰が答える。
「しかし、名は体を表すと言います。そんな大事なものを、私のような子供がつけていいとは……」
「あのな嬢ちゃん」
なおも反論する耀子に金子が言う。
「今この場にいるのは、全員、だれが何と言おうと『良いものは良い』って認められる奴らばかりだ。そいつらが『良い』って言うんだから、それでいいんだよ。だから、もう少し自信を持ってくれ。な?特別顧問殿」
「……わかりました。皆様の賛意に感謝いたします」
金子に説得され、耀子は心の中で見知らぬ帝人設立者に申し訳なく思いながら折れることを決めた。
実際のところ、史実の帝人は金子が出資して設立され、その時の本拠はまさに今回帝国人造繊維の工場として生まれ変わることが決まった米沢製糸場の跡地であった。さらにこの後の1908年、史実の帝人創業者である秦逸三と久村清太のコンビが東京大学を卒業し入社したため、帝国人造"繊維"は名実ともに「帝国人造"絹糸"」となれていたのである。しかしながら、耀子は帝人の沿革を知らなかったため、このことに気づくことは終生なかった。
というわけで、帝人を10年前倒しで設立してしまいました。
最初は何とか66ナイロンの権利を買ってくれる会社を探したのですが、この時の日本国内にはどこにも見当たらず、このような形にしました。