函谷関も物ならず
いつもお待たせしてすみません。
タイトルは歌の「箱根八里」の一節からとりました。
「それでは、俺たちの帰任を祝して……乾杯」
「乾杯」
夜。とある仕事のために別会社に出向していた秦逸三と久村清太は、今週ようやく任務を終え、テイジンに戻ってくることができたことを記念して居酒屋でささやかなお疲れ様会をしていた。
「……にぎやかだね。これなら宴会自粛なんてやらなくてもよかったんじゃないか?」
「まあまあ。二人だけで静かに飲むのも乙なもんだよ。俺は少なくともそんな気分だ」
本来であれば開発本部材料開発課全体での宴会を開きたいところであったが、残念ながらアメリカ発の流行性感冒(つまり史実のスペイン風邪)の影響で宴会禁止の通達が出されている。史実と違って流行が始まったころには欧州の戦争が終結していたこと、日英を中心に各国が迅速に渡航・入国禁止などの対応を取ったこと、テイジンが医療用に使い捨てマスクを実用化していたことなどが原因で、被害は史実よりはるかに少ない。とはいえ、インフルエンザには対症療法しかできないこの時代、発症したら酷い目に遭うのは確実なため、用心するに越したことはなかった。
「あら、そうなると私はお邪魔でしたか」
「耀子さん」
「私もいますよ」
「文子さんまで」
秦と久村に声をかけたのは、彼らの上司にあたる鷹司耀子、その秘書兼ラリードライバーの千坂文子である。
「秦さんと久村さんには苦労を掛けたから、もう少しちゃんとねぎらってあげたいと思ったんですが」
「いえいえどうぞお座りください」
「積もる話は山ほどありますから」
「それでは遠慮なく……」
耀子がそういうと、彼女たちは久村たちの隣に座った。仕事に疲れた男たちがまばらにちびちびやっている中に若い女性が2人である。割と浮いていたが、わざわざ注目するのも野暮ということを、客たちは理解していた。
耀子は店主に焼き鳥10本と二人分の水を注文すると、おもむろに秦と久村に対して謝り始める。
「いやぁ~もうほんっとうにごめんねぇ~!ゴムなんて初めて触ったでしょうにタイヤ開発なんてさぁ~二人がすっごく優秀だから私無茶ばっか言っちゃってほんっとうにごめんなさい~」
「まあいいですよ、何かもう慣れちゃいましたので」
「新しい経験を次々とさせてもらえてむしろ感謝しているくらいですし」
客観的に見れば、新興財閥の実質的なオーナーが、自社の管理職へ必死に頭を下げているという不思議な光景である。しかしながら、彼らの関係は実質的に「同じ研究室の先輩後輩」程度の強くて緩いつながりでしかなく、ゆえに他の企業では非常識な関係がまかり通るのである。
「では私からもお礼を。秦さんと久村さん、そしてニチリンの皆様に耀子さんのわがままに付き合っていただいたおかげで、悪路でもしっかりと地面をとらえる素晴らしいタイヤができました。おかげでモンテカルロでも勝てそうです。ありがとうございます」
「それは文子さんが毎日走りこんで感触を伝えてくれたというのも大きいですよ」
「そうそう。これじゃあお互いに謝り続けてキリがなくなると思うんで、いったんやめましょうや」
彼らが出向していた企業というのは、鈴木商店系のゴム製品を扱う会社「日本輪業」であり、彼らはここでタイヤ開発をしていたのである。というのも開発したオフロードバイアスタイヤ「箱根八里」は、カーカスコードに彼らが1916年ごろ開発したパラ系アラミド繊維「テクノーラ」(ただし化学構造は史実のケブラー)が使われているからであった。
「そうですね、やめましょうか」
「機密に抵触しない範囲で、色々振りかえろう」
久村の提案に娘二人も乗り、話題を変える。
「というわけで気になってたんですけどね耀子さん」
「ん?」
「なんであのタイヤ箱根八里って名前なんですかね」
「それを聞いちゃうか……」
秦の質問を受けて耀子は顔をしかめた。
「なんか、耀子さんらしくない名づけだなって思ってたんですよね」
「その表情をするということは、事情があるんですか?」
耀子以外は知らない。彼女が自分のかかわった製品に付ける名前には、史実に借用元があることを。
「……商品名って、大事でしょ?それでお客様に名前を憶えてもらうんだから」
「そうですね」
耀子は知らない。史実における日本輪業のタイヤのブランド名を。
「いつもだったら、開発中にこれだって名前が思い浮かぶんだけどね……完成しても全く閃かなくて……」
出された焼き鳥を食べながら耀子が答える。実のところこの箱根八里、トレッドパターンのベースはトーヨータイヤのトランパスM/Tであった。「トレッドに溝を刻むと雨の日に滑りにくくなる」ということすら発見されたばかりのこの時代で、方向性ブロックパターンを持つ箱根八里のウェットグリップ性能はもはや暴力的と言っても過言ではなく、ジムニーの速さを支える大事な一要素になっている。
「それで無理やりひねり出した、という感じですか」
「そんな感じ……」
素直にトランパスにすればいいのではという疑問も出るが、箱根八里の開発にトーヨータイヤに連なる企業は何も関係していない。さすがの耀子も、少々気が引けていた。
「そうなると、今後開発されるタイヤには、何かいい名前を考えてあげないといけないってことですよね」
「そうだな文子さん。なんかいい案はあるかい?」
「うーん……」
口元に手を当てて考え込む文子。
「……鷹司なんで、ファルケン、とか?」
衝撃的な答えを聞いて、耀子は盛大にむせる。
「ゲホッ!ゲホッ!」
「大丈夫ですか!?」
「はー、はー……いや、水飲んでたら、むせちゃって……」
それはオーツタイヤの商標だろ!と耀子は心の中で叫んだ。
「ファルケン……」
「なんか速そうでいいですね」
秦と久村の感触も悪くなさそうである。
「いやそれはなんか恥ずかしいというか……」
「耀子さんだって鷹司杯とかやってるじゃないですか」
「あれは私じゃなくてお父様の事だからいいの!」
耀子は思わぬところでしっぺ返しを食らい、結局将来的に「ファルケン」を使うことを約束させられてしまった。
しかし縁とはわからないもので、数年後、箱根八里の好調な売れ行きを受けてさらなる業績拡大を狙う日本輪業は、自身と同じ神戸に拠点を構える内外ゴムと資本提携を結ぶ。
オーツタイヤは内外ゴムと大日本紡績(現ユニチカ)が出資して設立した会社であるため、はからずも日本輪業が史実オーツタイヤのポジションに収まることで、「ファルケン」ブランドとも縁ができてしまったのであった。
内外ゴムと日本輪業が奇跡的に神戸に拠点を置いてくれていて本当に助かりました……これでネーミングに困らずに済みます()




