百聞は一見に如かず
なろう近代史テンプレの一角、脚気対策ネタです。
「そういえば信輔お兄様、鶏には餌として何を上げればいいのですか?」
ある日、一家で夕食を囲んでいるとき、耀子は唐突に信輔に聞いた。
「まあ、粟とか黍とか稗とか米とかの穀類かな。後最近はトウモロコシを食わせているところもあるらしい」
「ふーん。まるで江戸時代の平民みたいですね」
信輔の返答に耀子は少し考えこんだ後
「じゃあ、餌として米だけを与えたら、鶏も脚気になるのでしょうか」
と言った。
「うーん、そんな事もったいなくてやったことないからなあ……」
「10年くらい前、オランダのエイクマンという衛生学者が、まさにそんな実験をやったらしいぞ」
信輔が箸を止めて悩んでいると、煕通が横から口をはさむ。耀子は彼に脚気対策の重要性を説き、そのための手がかりとして動物に脚気を発症させるような実験が実施されたことがなかったか、煕通に頼んで彼の知り合いの軍医に調べてもらっていた。
「おっ!それで、結果はどうだったのですか?」
「エイクマンとしては『ヒト同様に脚気を発症した。また、餌を玄米に切り替えると回復することから、米糠が脚気に有効である』と結論付けたらしい」
「やった!じゃあ後は兵隊さんに毎日糠漬けを食べさせてあげれば……」
「ところがそう単純な話ではなくてな」
それを聞いた耀子は目を輝かせ、思わず手を叩くが、煕通はそれに冷や水を浴びせる。
「東京帝国大学医学部の青山胤通教授が同じ内容の実験をしたんだが『白米だけで育てた鶏に現れる異常は脚気ではない』と報告しているんだ」
「は?それ実験失敗してるんじゃないの?」
史実を知っており、どう考えても脚気……というかビタミンB1欠乏症以外ありえないだろうと思い込んでいる耀子は、その場にいない青山教授に殺意を抱きながら煕通に確認した。
「どうもそういうわけではなくて……私もよく理解はしてないんだが『症状はよく似ているものの、細かいところが違うので脚気ではない』と主張しているらしい」
「何それ詭弁?体の構造が違うんだから、細かい症状が違って当然じゃない」
「まあまあ耀子。耀子だって、風邪と結核と気管支炎の違いは分からないだろう?症状が似ていても、別の病気ということは実際にある。そういうことだろうさ」
みるみる不機嫌になっていく耀子を信輔がなだめる。妹が脚気に対して何故そんなに必死なのか信輔にはわからなかったが、僅か4歳にして新種の繊維を発明する聡明な彼女のことだから、何か考えがあるのだろうと思った。
実際のところ、この時すでに白米よりビタミンB1を含む麦飯で脚気が治せることはすでに知られていた。しかし、それはあくまで経験則であり、根拠らしい根拠はなかった。これは信頼できる治療法がないことを意味し、人々に恐れられていたのである。
「……私達も追試をしましょう」
不機嫌そうに耀子が言う。彼女にとっては医学も栄養学も専門外であり、餅は餅屋に任せたかったのであるが、こうもその"餅屋"が信用ならないとなると話は別である。
「いい考えだね。信輔、申し訳ないが、実験に使う鶏の世話をお願いできるか?」
「私としてはまた鳥の世話ができるのはうれしいのですが、本当にやるんですか?」
煕通は比較的子煩悩な人物である。信輔自身も、幼少期にジフテリアにかかって入院した時、入院見舞いとして鳥の剥製をいくつも贈ってもらった。とはいえ、この結構な数の鶏と餌が必要そうな実験を、鷹司家の金を使ってやっていいものかと信輔は思った。
しかし、煕通が耀子に協力しているのは、ただ彼女に将来起こる日露戦争での脚気惨害について説かれたからだけではない。
「日清戦争、そして台湾征討の時も、陸軍で脚気が蔓延していた。その時の悲惨な状況は私も耳にしている。もしより強い国と戦争になったとき、また同じことが起きれば、戦っている場合ではなくなってしまうかもしれない」
「なるほど、それなら安心して取り組むことができます」
「頼んだぞ。大げさかもしれないが、我が国の未来はこの実験にかかっているかもしれないんだ」
「「はい!」」
父親の期待を背負って、兄妹の挑戦が始まった。