ダケジャナイテイジン
更新遅れてすみません
せっかくなので、ここで帝国人造"繊維"、通称テイジンについて、主な業績と評価について振り返ってみようと思う。
まず最初の業績は、66ナイロン(PA66)と界面重合法の発明である。66ナイロンはいわゆる一般的なナイロンの片割れであり、界面重合法は現代中学校の理科室程度の設備で高分子を重合できる簡便なプラスチック合成方法である。
この2つは特許でがちがちに固められていたが、特許は学術研究に使用することを妨げるものではないため、ナイロンストッキングの世界的な流行を背景に欧米列強でポリアミドの研究が進んだ。その結果、この世界における66ナイロンと界面重合法の発明者であり、テイジンの実質的なオーナーである鷹司耀子(創業当時7歳の少女である)が主張した通り、「ジアミンとジカルボン酸を適切に反応させれば、ポリアミド系材料を合成できる」ことが確かめられた。
ただし、ポリアミドの構造は耀子が主張した高分子説ではなく、ジアミンとジカルボン酸が静電気的に引き合って塊になっているとする会合体説が主流であり、耀子の高分子説に同調した科学者は、ドイツストラスブール大学助手(当時。のちにチューリッヒ工科大学教授)のヘルマン・シュタウディンガーなど少数であった。結局この論争はシュタウディンガーと、彼に招かれて東北大学から国費で留学し、日本人初の女性化学博士となった黒田チカによって高分子説が正しいことが実証され、終結することになる。
次の業績は、旭硝子と共同開発した硝子繊維強化樹脂(商品名テナックス)である。硝子繊維自体はすでに米国で発明されていたものであるが、石英ガラスの繊維を樹脂で固めると、鉄鋼とも張り合うことができる構造材料になることを発見したのはテイジンであった。
さらにテイジンはこのGFRPを足掛かりにして航空業界にも進出する。陸軍に納入された三年式襲撃機"金鵄"は欧州大戦西部戦線において中央同盟軍偵察機の排除や陸軍部隊への爆撃で猛威を振るい、ドイツ軍からは「ヤーボ」の名前でおそれられた。戦後、その性能に驚いた各国からライセンス生産を打診されたものの、その高性能を支えているGFRPの大規模製造で技術的に躓く国が続出し、結局量産できたのはイギリス、ドイツ、オーストリアの3ヵ国だけであった。このうちドイツとオーストリアは、GFRPのマトリックス(繊維を固めている樹脂の事)に66ナイロンではなく、BASF社が苦心の末完成させたポリブチレンテレフタレートを使用することでテイジンの特許を回避しており、これを聞いた鷹司耀子は
「BASFの化学力は世界一ィ!出来んことはないィ!」
と絶叫したという記録が残っている。
なお、テイジン製航空機の特徴として、構造材料の樹脂化による軽量化のほか、2ストローク機関を好んで使用するというものがある。2ストローク機関は燃費が悪く高高度性能もよくないが、排気量あたりの出力が4ストローク機関の1.5倍前後あり、部品点数が少なく軽量で、要求される工作精度も低いという強みがあり、「小少軽短美(本来は史実のスズキにおける製品設計方針)」を旨とするテイジン製機体と合わせて、カタログスペックの優秀さに拍車をかけていた。
テイジンという企業自体の評価は、概して「日本の富国強兵政策の寵児」「技術のBASF、発想のテイジン」と言ったもので、極東の島国に突然現れた新興財閥といった見方をされるのが一般的である。
また、実質的なオーナーであり、主力研究者の一人でもある鷹司耀子が女性であることから、フェミニストからは「女性解放の象徴」とされることもあるが、テイジン自身はあくまで「優秀なものはなんでも使う」というスタンスでしかなかった。ただし、製造現場に大量の女工を抱えており、転生者である耀子が21世紀の企業倫理を経営に持ち込んでいることから、比較的男女平等的でコンプライアンスを重視する社風であったことは確かであり、創業当時から賃金や待遇、福利厚生といった面の男女差はなかった。
海外ではおおむね脅威と尊敬をもって評価されているテイジンであるが、国内では必ずしも好意的な評価がされるとは限らない。経営に女性が深くかかわっているというだけで、保守的な人間は嫌な顔をするし、いわゆる「成金」の一種であり、旧来の天然繊維産業と競合することから、妬みや恨みを買うことも多いからである。耀子の実家が五摂家であるため、平塚らいてうの実家のように投石する者こそいないが、朝日新聞や都新聞(東京新聞の前身)などには時々批判的な記事を書かれている。
耀子自身にも、学習院女学部時代は進歩的な教師にこそ大変かわいがられたが、保守的な教師には腫れ物に触るように扱われており、その年の担当教員によって成績が乱高下するといったことが起きている(耀子自身も気分屋の気があり、自身の興味・関心のあることしか熱心に勉強しない癖があったため、これが余計に教師の神経を逆撫でした)。これと言った友達もできなかったため、東北大学に入学してからしばらくした後に「学習院と比べれば、東北帝国大学には実家のような安心感がある」という旨の手紙を家族に送っている。
ただし、一大製造拠点を築き上げている山形県、特に米沢市では住民からの崇敬を集めており、「米沢市立工業学校、もしくはそこからさらに東北帝国大学に進学してテイジンで働く」ことは山形児童のあこがれの進路になっていた。