物に親しむ
「塩化アジポイルは塩素と酸素に電子を引っ張られて、両末端のカルボニル炭素が求電子的になっています。一方、ヘキサメチレンジアミンの両末端のアミン基は窒素が孤立電子対を持っていることもあって求核的ですから、アミンがカルボニル炭素を攻撃してアミド結合を作るはずです。これが分子の両末端で次々と起こるため、超巨大な分子『高分子』に成長する、というのが私の"仮説"です」
東北大学真島研究室。ここで耀子は、66ナイロンの反応過程と分子構造について、真島利行教授と現在3年生の黒田チカに説明をしていた。
「うーむ、たしかに、特別破綻をきたしている場所はないな。ないが……」
「原子が電子によって結合されているという"仮定"のもとでの話ですよね……」
耀子にとっては下手すると高校化学レベルの理論でしかないのであるが、実は「共有結合」という概念が定式化されるのがちょうど1916年ぐらいの事であり、この当時としては先端研究レベルの議論をしたことになる。
「私も原子論には疎いので、本当に原子が電子で結合されているかということではなく、PA66の構造が本当に私の仮説通りになっているかに興味があります」
「それを、私達に解明してほしいと」
「はい。私もできる限り協力しますので、お願いできませんか」
有機電子論は今後の有機・高分子化学を発展させるうえで不可欠な考え方であるが、今までの経験から耀子はどうもこれがまだ確立されていないらしいことに気づいていた。ここの研究で日本を先進国にすることができれば、現在化学界で幅を利かせているドイツや、現在石油化学分野で急速に伸びてきているアメリカに対抗できるはずである。
「そうだね……黒田君、せっかくの"後輩"の頼みだ。彼女の指導も兼ねつつ、君の学士論文のテーマをこれにしたらどうかね」
「……わかりました。植物の色素より、こちらの構造決定のほうが世間のウケは良さそうですね」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらもなかなか面白そうですし、大丈夫ですよ」
こうして、この世界の黒田チカの学士論文は「ポリアミドの構造について」になった。この論文の画期的なところは以下の2つである。
・66ナイロンの繰り返し単位の構造を確定し、その形成過程を説明するために世界で初めて「共有結合」「有機電子論」について言及した(共有結合についてはアメリカのギルバート・ルイスとほぼ同時)
・世界で初めて正式な論文で高分子という存在を提唱した
日本国内では賛否両論であったが、以前から66ナイロンに興味を持ち、日本の有機化学界を注視していたヘルマン・シュタウディンガーは黒田の論文を絶賛する。これに自信を持った黒田は高分子説の補強に着手した。
この話を書くために色々調べていたら、共有結合の概念すらまだ未発表だったと知ってびっくりしました。そりゃ今話冒頭のようなことを幼女が言っても、誰も信じてくれないですよね……
黒田先生の学士論文には、耀子もセカンドオーサーで名を連ねているでしょう。これも広義の「ざまぁ」なんですかね。