開かれた学び舎
「みんなのんきなもんだね……」
「まあ、戦場は遠く離れた欧州ですから……」
1914年の冬、鷹司耀子と千坂文子は、東北大学の構内で雪と戯れる地元の子供たちや静岡などの雪が降らない地方からやってきた大学生をのんびりと眺めていた。
「仮にも日本の化学技術の粋が集まっている研究所の集合体なんだよ?なんで一般市民が平気で入り込んでるのよ」
「それを私に言われても……この様子では、地元の方々はここを公園か何かとしか思ってなさそうですね」
「きっと春になったらそこらじゅうでみんなが花見を始めるわ……門戸開放ってそういうことじゃないと思うのだけど」
もっとも、耀子が前世で通っていた大学も似たようなものであったため、内心では懐かしく感じていた。
「まあ、おかげさまでただの女中である私が耀子さ……んと一緒に大学構内に居られるわけですから、悪いものではないですね」
文子はすんでのところで耀子を様付けで呼ぶのをこらえた。「口頭で様呼ばわりされると、あまりにもくすぐったすぎる」という耀子からのお願いで、文子は基本的に耀子のことを「耀子さん」と呼ぶように頑張っている。
「お、今回は様付け我慢できたじゃん。えらいえらい」
「……!子ども扱いしないでください!」
耀子が頭をなでたため、文子はふくれっ面をした。
「いやまだ子供じゃん……」
「それを言うなら耀子様もでしょう!」
「あ、今度は失敗した」
「んもー!」
完全に文子で遊んでいる耀子。東北生活における貴重な娯楽の1つである。
「まあいいです。この半年間は嵐のように激しいものでしたから、多少のお戯れは許容します」
入学してから今日までの間、耀子は様々なところで騒ぎを起こしたり起こされたりしていた。
ある時は本多光太郎教授の講義する製鉄の授業で「転炉時に純酸素を吹き込んだら、もっと効率がいいんじゃないですか」と言ったところ、転炉実験に何度も立ち会う羽目になったし、またある時は「高分子」の存在に疑問を持つ生徒と激論を交わしたこともあった(耀子は66ナイロンやポリカーボネートといった自身の発明品について『一定の繰り返し単位が数千数万連なった構造をしている』と常々主張していたが、その明確な根拠を示したことはなかった。それを証明している暇があったら、他のエンジニアリングプラスチックを開発したかったからである)。
「本気で他人をからかって遊ぶほど、私は悪趣味な人間じゃないよ。そういうのは何かの片手間にやる程度が一番だよ」
何の気もなしに耀子はそういうが、彼女は学校内で面白そうな研究をしていると聞きつけるととりあえず首を突っ込みたがるし、下手に知名度があるものだから騒ぎが無意味に大きくなったりして、文子がよくとばっちりを喰らっていた。
「まあ、私も耀子さんに悪気があることはほとんどないというのは知ってますので……だからこそタチが悪いんですけど……」
耀子も完璧ではない。むしろいろいろとがりすぎていて、本来周囲との摩擦はかなり大きなタイプの人間である。"いいとこのお嬢様"に生まれたおかげで、前世よりは相当矯正されたが、「言葉の端々が偉そうに聞こえる」「言い回しがくどい」といった欠点は依然として残っていた。
「面目次第もございません」
「まあいいです。ここにきてわかりましたけど、学者という生き物は大なり小なり強烈な人が多いみたいですからね。それに比べたら、耀子さんは相当御しやすい方ですので」
その時の文子の表情は、14歳の少女とは思えないほど達観したものだったという。




