雛鳥の夢
こぢんまりとした小さな部屋の中に、1人の幼女が入ってくる。ひどく疲れた様子の彼女、鷹司耀子は、そのまま敷きっぱなしの寝床までたどり着くと、倒れこむように寝転がった。
「うぁ~もうつかれたぁ~おうちかえりたい~」
ここはその「おうち」なのだが、疲れのあまり妄言を垂れ流す耀子。彼女は自身が発見した(ことになっている)66ナイロンと界面重縮合法について世界各国で特許を取るため、父と一緒に様々な"えらいひと"と打ち合わせをしており、精神的に参っていた。
(今の時代はまだ特許協力条約がないから世界各国に個別出願するしかないんだよね……ああもうめんどくさいったらありゃあしない……)
耀子は前世でも何度か特許を出願した経験があり、何とかなるだろうと高をくくっていた。しかし、今回は物がものなだけに欧米列強すべてで特許を取る必要があったため、必要な労力がけた違いに高くなっていたのだ。
(とはいえ、今ここで私が『一人前の人間』だってお父様に思ってもらえないと、日露戦争への介入が間に合わなくなっちゃう……そうしたら、何千何万という兵士たちが、脚気と機関銃の前に斃れることになる。それを座して見ているのは、私には耐えられない)
すでにこの先の史実を父に伝え、二次大戦における我が国の惨敗をどうにかしたいという意志を示している。その意志を実現するためには、現時点から数々の技術・戦術を先取りし、日本の国力を底上げして、本来は辛勝であった日露戦争を圧勝に導かなければならなかった。
(……へこたれてる場合じゃない。お父様は私の信頼に応えてくれた。今度は私がお父様の期待に応えなくちゃ)
もちろん、勝算なく実行したわけではない。4年間、煕通の娘として、親子として生きてきて、この父親なら、自分が突拍子もないことを言い出しても受け入れてくれると信頼していたからこそ、今回の行動に出たのだ。
「よっこいしょ」
気合を入れて耀子が寝床から跳ね起きたとき、部屋のドアをノックする者がいる。
「耀子、入るぞ」
「信輔お兄様」
8歳年上の鷹司信輔であった。
「今日も特許出願のための話し合いがあったんだって?疲れたろう、お母様から饅頭をもらってきたぞ。一緒に食べよう」
「うわぁ……!ありがとう、お兄様!」
ぱぁっと顔を輝かせて耀子がお礼を言う。疲れた時の糖分ほど、脳に染みわたるものはないのだ。
「しかし、人絹とは全く違う人造繊維か……まだ4歳だっていうのによく見つけたな」
「まあ……好きこそものの上手なれっていう言葉があるじゃないですか」
しれっとごまかす耀子。あの66ナイロンが"カンニング"の産物であることは、父と二人だけの秘密だ。
「好きといえば、お兄様ほどの鳥好きは世界広しと言えどそういないと思います。きっと将来は世界的な鳥類学者として名を馳せるんじゃないかと、今から楽しみなんです」
「そんな大げさな……」
「でも、目指しているんでしょう?」
「そりゃあそうさ。でも、俺は長男だから、将来この家を継ぐ必要がある。そんな奴が、鳥を探してそこらじゅうをほっつき歩いていいものかと……」
「良いと思いますよ」
耀子はじっと信輔の目を見つめてそう言った。
「逆に聞きますけど、鳥を探してそこら中を旅するだけの余裕がある人って、この日本では華族の長男ぐらいしかいないんじゃないですか?」
「うーん……」
「例えば、お兄様は七面鳥のような家禽はもちろん、オシドリのような野鳥も飼えるじゃありませんか。平民の家では、なかなか難しいと思いますよ……その、七面鳥は、残念でしたけど」
「ああ、うん、まあ、あれは房子お姉様をよく困らせていたし、欧米では七面鳥はごちそうとされているからね……」
耀子が言っているのは、信輔が学校に行っている間に飼っていた七面鳥を肉屋に出荷されてしまった事件の事である。
「それに、鳥を見つめているときのお兄様の目。あれはいわゆる本物だと妹は信じています」
「……はあ」
「ですので」
耀子は信輔のほうに向きなおり、じっと目を見つめる。
「私は日本を、いや、世界を代表する化学者になりますから、お兄様は世界を代表する鳥類学者になってください」
信輔はじっとこちらを見つめてくる妹をしばらく見た後、ふぅっとため息をついて
「そうだな。耀子の言うとおりだ。これからはあれこれ迷わず、"鳥学者"を目指すことにするよ。お父様も許してくれるだろう」
「そう、お兄様、その意気です」
鷹司信輔。彼がのちに「鳥の公爵」と言われ、日本の鳥類学の第一人者となることは、今はまだ、耀子も含めて誰も知らない。
この時期、実際に信輔は七面鳥やオシドリのつがいを飼っていたようです。ただ、七面鳥は本文の通り「(´・ω・`)出荷よー」「(´・ω・`)そんなー」され、オシドリもオスがメスを殺してしまうなど、あまり長続きしなかったとのことでした。
参考文献
「鳥と暮らして」鷹司信輔 千歳書房 1943年
大部分は日本各地の鳥についてページが割かれていますが、最後のほうに少しだけ、信輔自身のことが描かれています。
それにしても煕通お父さん、ジフテリアで入院した子供へのお見舞いの品に鳥の剝製を贈るってどうなのよ……(本人はうれしかったようですが)