進路
※千坂文子はほぼ架空の人物と言って差し支えない存在です。千坂高節に娘はいたかもしれませんが、こんなハイスペックじゃないでしょうし、名前も違うものと思われます。
「耀子は強いな」
仙台へ向かう東北本線の列車の中で、不意に信煕がそういった。
「いやいや、私はひ弱な女学生ですよ」
「そう言うと思ったけどうそういう意味じゃない。耀子には有機化学という明確な強みがある。それだけじゃない。その強みを極めたいという好奇心がある」
「まあ、他にすることと言ったらピアノを弾くことと、信輔お兄様の部屋で鳥を眺めることと、お父様の馬を見に行くことぐらいしかないですから、自然と実験三昧の生活になりましたね」
この時代には前世で熱中したオンラインゲームはない。幸い金はいくらでも動かせたから、思いついたことは何でもすぐ試して楽しむことができた。濃硫酸と発煙硝酸で脱脂綿をニトロセルロースにしても、嫌そうな顔をする人はここにはいないのである。
「それなんだ。俺にはそれがない。信輔兄ちゃんが鳥に夢中だから、俺が代わりに陸軍に行くんだって頑張った。お父様も、砲工学校の教官たちも、俺のことを認めてくれている。だけどそれだけだ。俺の努力は空虚な砂上の楼閣で、お前のように何かを成し遂げたいと思う中身も、礎となる夢もない」
信煕はあまりにも器用だった。鷹司家の人物にはだいたい言えることだったが、基本的にこの一家は他人の期待に応えることが得意で頼み込まれるとだいたい何でもできてしまう。だがそれゆえに、信輔や耀子のように夢中になれるものがないと、今の信煕のように進むべき道がわからなくなってしまう危うさがあった。
「……それでしたら、私の夢を聞いてくれますか?」
「そのセリフはお前以外の女から聞きたかったな」
信煕は残念そうにため息をつき、耀子もそりゃそうだよなあと思った。
「陸軍は日露戦争で気づいたようですが、これからの戦いを左右するのは兵器と技術です。精神力と指導力に頼った戦をすれば、いつか必ず崩れます。であれば、大軍を指揮する将軍ではなく、技官こそが、真の花形ではないでしょうか」
「その心は?」
「私の手足として、陸軍の兵器開発を主導する立場になってください」
奇怪な妹は、妖しく目を光らせながらそう言い放つ。
「そして自分の会社に仕事をよこせと。いい度胸しているじゃないか」
「良いものを作れるのなら弊社である必要はありません。むしろ、テイジンが他社より劣った兵器を提示してきたのなら、容赦なく蹴ってください。これからの時代、残念ながら軍の重要性はますます増していきます。そのとき、戦場に必要とされるものを作り出し、選び抜いてほしいのです」
耀子の願いは日本の破滅の回避である。帝国人造繊維一社だけで、日本のすべての兵器に革新を起こすのは無理であるし、煕通にも、二次大戦がはじまるころには静かな老後を過ごしてほしい。であれば、自分の、帝国人造繊維の代わりに、陸軍兵器を正しい方向へ進化させていく者が必要だ。
「ということは……俺は2年後、東京帝国大学に行くわけだな」
「まずはそうです。そして、これから始まる欧州大戦から、これからの戦争の形にあった兵器を開発してください」
「……わかった。その役割、引き受けよう」
信煕は「おまえがやれよ」と言いそうになったが、思い直してそう答えた。航空産業に進出しているせいで誤解しがちだが、帝国人造繊維の本業は人造繊維工業である。例えば今年配備され始めたばかりの三年式突撃車や三八式曲射歩兵砲(日露戦争時の試製曲射歩兵砲が小改良の後に正式化された物)のような兵器は、完全に専門外だ。
「ふう、助かります……断られてしまったらどうしようかと……」
「俺にだって兄としての矜持はあるということさ」
このことがきっかけとなって、信煕は陸軍砲工学校高等科を卒業後、史実とは異なり陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部機械工学科に進むことになる。
「はぁ~やっとついたぁ~」
「さすがに何時間も座りっぱなしだと、尻が痛くなるな……」
「私は肩と首……」
それだけ重いものをぶら下げていればな、と信煕は思ったが、それを口に出すのは無粋だと思ってやめた。
「して、迎えに来るという帝国人造繊維の工場長さんはどこに……?」
「えーっと、居た!」
耀子は駅の構内で帝国人造繊維米沢工場長千坂高節を見つけると、信煕を引っ張って高節の元へ駆け寄る。
「お久しぶりです、千坂さん」
「お久しぶりでございます。先日は弟が世話になったようで……」
「いえいえ、コーネックスのお得意様が見つかって横原も喜んでいましたから。そちらは……娘さんですか?」
耀子は高節の隣で身の丈ほどの大きな洋傘を持った少女について尋ねる。
「初めまして鷹司耀子様。私は千坂高節の娘、千坂文子と申します。この度、東北帝国大学に進学される鷹司様のため、在学中のありとあらゆるお世話を引き受けることになりました。以後よろしくお願いいたします」
少女はそう名乗ると、耀子に向かって深々とお辞儀をした。
「え、ちょ、ちょっと、文子さん、学校は!?」
「今年の3月に高等小学校を卒業しました!24時間365日、鷹司様にお仕えできます!」
「えぇ……」
高等小学校卒ということは14歳である。
「ふむ、千坂家は代々米沢藩主の上杉家に仕えた武士の家柄。『ありとあらゆるお世話』と豪語するからには、武家の娘として武術の心得もあるのだろう?」
「鹿島流棒術免許皆伝です!この日のために精いっぱい稽古してきました!……ところで失礼ですが、あなたは鷹司耀子様のお兄様ですか?」
「おっと、申し遅れてすまなかった。耀子の兄の鷹司信煕という。妹は少々風変わりな女だが、根は心優しくていいやつだ。そんな気を使わなくていいから、どうか仲良くしてやってほしい」
「ふーんだ、どうせ私は風変りですよー……それにしても護衛って大げさな……そこまでしてもらう必要は」
「あるぞ」「あります!」「ありますね」
耀子の言葉に、その場にいた3人が一斉に反論する。
「良いですか鷹司さん、あなたは今や日本を代表する大企業、帝国人造繊維の実質的なオーナーなんですよ?そんな金持ってそうな華族の令嬢が、一人で歩いていたら、食い詰め者が邪な考えを持ってもおかしくありません」
「そうです!男女の筋力差は、鷹司様が思っている以上に深刻なんですよ!私が男の師範代に勝つためにどれだけ苦労したか……!」
「それだけじゃない。耀子の持っている有機化学や兵器の知識は、欧米列強の垂涎の的だ。先ほど高節氏が言っていた食い詰め者を使ったり、あるいは直接おまえに襲い掛かったりして、その才能を闇に葬ろうとしたり、奪い取ったりしようとするやつが出ないとも限らん」
実際、原料は作れるのに特許に縛られてポリアミド系繊維が作れないドイツ、ガラス繊維の利用法でまんまと出し抜かれたアメリカ、日露戦争の恨みを晴らしたいロシアの3国は、帝国人造繊維や耀子に対して何度か謀略を仕掛けようとしているし、信煕自身、列車の中でこちらをちらちらと監視する者がいることに気づいていた。前者は日本とイギリス──彼らは日本と良好な関係を築き、同盟も結んでいるため、いざとなれば相応の対価を用意して堂々と技術を要求すればいいのだ──の諜報機関の活躍によって今のところ未然に防がれており、後者も乗客(に扮した日本陸軍の情報将校)に途中の駅で列車内からつまみ出されていた。
「私、いつの間にそんなすごい人になってたの?」
「「自覚なかったんですか……」」
脱力する千坂親子。史実の帝国人造絹糸と違い、この世界の帝国人造繊維は米沢から撤退せずに規模を拡大し続けているため、今や米沢は仙台に並ぶ一大都市になりつつある。奥羽本線は福島-米沢駅間がすでに複線化されており米坂線の米沢-今泉間も今年開業する予定だ。これにより米坂線の西米沢駅が帝国人造繊維米沢工場から徒歩1分の距離に出現することになり、従業員からは通勤が楽になると喜ばれている。裏を返せば、今の帝国人造繊維は鉄道路線に影響を与えられるほどの大企業なのであるが、耀子の交流関係が狭く、あまり外部の人に「大企業のオーナー」としての扱いを受けたことがないため、自身の立場を確認する機会がなかったのであった。
「そういうわけだから耀子、文子さんが居るとはいえ、身の回りには十分注意してくれよ」
「はぁい……」
どうやら、今度の大学生活は少々窮屈なものになりそうである。
文中の表現ではテイジン米沢工場の存在によって西米沢駅の位置がずれたように見えますが、西米沢駅の位置は史実通りで、テイジン米沢工場の敷地が駅の近くまで拡大していたということです。
なお、奥羽本線の米沢-福島間のうち、米沢-関根間は現在も単線のようです。