アリとキリギリス
皆さんお待たせいたしました。フラグ消化のお時間でございます。
欧州で上がった火の手に対する日本の対応はオーストリア=ハンガリーに慎重に配慮したものであったが、それは同盟国に味方することを意味してはいなかった。
まずサラエボ事件発生直後には大正天皇の名で「事件の被害にあわれた方々へのお見舞いの言葉」を発し、暴力的な手段に訴える過激な民族主義者を擁護しない姿勢を示した。一説によると、このときのオーストリアに寄った日本の態度が、ドイツ・オーストリアに「もしかしたらロシアを背後から刺してくれるかもしれない」という期待を抱かせ、セルビアに過激すぎる要求を突きつける動機の1つになったともいわれている。
「ありがとう鷹司。遅くまで文章作りにつきあわせてしまって悪かったね」
「お安い御用です陛下」
「……して、オーストリアはこれで止まると思うか?」
心配そうな顔をして大正天皇は煕通に問う。欧州に強いあこがれを抱いていた彼は、その地で戦乱が巻き起こることを望んでいなかった。
「正直に申し上げれば、難しいかと。今回墺皇太子夫妻を襲撃した者たちは、ロシアの唱えるパンスラブ主義に共感して事件を起こしています。ドイツとオーストリアは、ロシアを叩かない限り真の平和は訪れないと考えるでしょうね」
「そうか……ロシアめ、我が国に散々叩きのめされたことをもう忘れたというのか。学習しないやつらだ」
大正天皇は憤る。本当はオーストリア=ハンガリーを後援するドイツもパンゲルマン主義という似たようなものを掲げていたのでどっちもどっちであったが、煕通も感情的にはドイツ寄りであったため、それをわざわざ話題に出すことはなかった。
その後日本はバルト海方面へ回航されるロシア新生太平洋艦隊と一緒に金剛、比叡、利根、筑摩、矢矧、平戸の装甲巡洋艦2、防護巡洋艦4隻からなる小艦隊をイギリスに向けて出航させたものの、オーストリアが宣戦するまでは沈黙を貫いていた。しかし、総動員を解除しないロシアに対してドイツが宣戦を布告した時、政府がドイツ、ロシア両国に対して非難声明を出し「二国間の問題に自己中心的な欲望から介入し、いたずらに戦火を広げている」として現代日本の伝統芸を披露した。ロシアを糾弾してオーストリア=ハンガリーに配慮する一方、ドイツも非難し、フランスについては「ロシアに付き合わされた被害者」として同情することで暗に協商側の立場に立つことを示したのである。
さて、ドイツと対峙するフランスであるが、開戦当初は楽観的な見方が広がっていた。ドイツとの国境には要塞地帯が点在しており、ドイツが史実と違ってイギリスからの「ベルギーの中立を遵守するか」という問いにも「遵守する」と答えていることから、ベルギー経由で北東側から要塞群を迂回される可能性もなかったからである。
「ついに普仏戦争の恨みを果たす時が来たな!」
「この手でキャベツ野郎どもを撃ち殺してやれると思うとわくわくするぜ!」
前線のフランス兵たちはそう言って笑いあっていたが、その自信はたちどころに崩されてしまった。
「要塞なんぞ包囲だけして放っておけ!敵の脆弱点を突き、ひたすらにパリを目指して前進せよ!」
先述の通り、ドイツ軍は日露戦争での日本軍の動きを研究し、浸透戦術によってフランス軍を翻弄していた。しかし、日本軍のように「広い正面で攻勢を発起して、より多くの脆弱点を攻撃する」のではなく、「あらかじめ航空偵察で攻撃すべき脆弱点を特定しておき、そこに戦力を集中して突破を図る」という"ドイツ流浸透戦術"あるいは"徒歩電撃戦"とでも言うべき戦術にアレンジしていた。どちらの方が優れているかは状況によるが、縦深の浅い陣地を築き、旧態依然とした戦術しか切れる札がない対フランス相手ではもはやどうでもいいことであった。
イギリスが国内をまとめて参戦に踏み切るまでの間に、ドイツ軍はエピナル、ショーモンを奪取。ようやく日本とともにドイツに宣戦布告できたイギリスは、フランス軍と一緒にトロアにてドイツ軍を迎撃する。イギリス海外派遣軍はドイツの戦術が浸透強襲の一種であると見破り、縦深防御陣地を敷いて頑強に抵抗したが、準備時間が不足していたためフランス軍はイギリスが伝えようとしたノウハウを吸収できず敗走。イギリス軍も包囲されることを避けるため、トロアをあきらめざるを得なかった。フランス軍のあんまりな戦いぶりに、イギリス海外派遣軍司令官ジョン・フレンチ元帥は
「どうやらフランス陸軍の人々はナポレオン時代の栄光が忘れられないらしい」
と皮肉ったという。
トロアが陥落し、英仏がパリでの市街戦も覚悟したころ、ドイツもまた窮地に陥っていた。ロシアの動員完了がドイツ側の想定よりも早く、東部戦線で大攻勢を受けていたのである。
「戦友が使わせた弾を無駄にするな!損害を恐れず突き進むのだ!」
第1軍司令官アレクセイ・ブルシーロフ大将と第2軍司令官アレクサンドル・サムソノフ大将の指揮のもと、ドイツ軍もまた、浸透戦術による攻撃にさらされた。
「畜生!あいつら、撃っても撃ってもどんどん出て……ぎゃっ!」
「間抜けなドイツ人だ。後ろにロシア兵がいても気づかないなんてな」
浸透戦術にさらなる改良を加えるなど、攻撃面では当時世界の最先端を行っていたドイツ軍であったが、防御戦術については「縦深を深くとると浸透戦術に対抗しやすい」というところまでしか研究が進んでいなかった。なにより、この時期の東部戦線の戦力比はドイツ:ロシア=1:2~3というレベルであり、ロシア軍の攻勢が多少雑で、ドイツ軍の防御が巧妙だったとしても、大勢には何の影響もなかったのである。ドイツ軍はタンネンベルクで反撃を試みるも、サムソノフの巧みな弾性防御と、ブルシーロフによる迅速な救援によって撃退されて失敗。その後もドイツ軍はずるずると敗走し続け、1914年の秋には東西プロイセンを失陥するに至った。この影響によってドイツは西部戦線から兵力を抽出せざるを得ず、フランスへの初期攻勢はとん挫。ドイツ側の勝利による早期決着の可能性は潰えたのである。
ところでオーストリア=ハンガリー軍はどうだったのかというと、こちらは良く持ちこたえていた。彼らは日本軍との演習の結果、自分たちでは平野部の戦闘でロシア軍には勝てないと判断。交通網を破壊しながら後方のカルパティア山脈まで後退し、ロシア軍に山岳戦を強要した。いくら相手が弱兵で有名なオーストリア=ハンガリー軍と言っても、高地に陣取って撃ちまくられてはさすがにロシア軍と言えど攻めるのは苦しく、ロシア南西戦線(ロシア軍編成の"戦線"は他国陸軍の方面軍に相当)は無謀な攻撃の結果多くの屍を積み重ねることとなった。これにより第8軍司令官パーヴェル・レンネンカンプ大将などは"オーストリア=ハンガリー軍如きに"多大な損害を負った責任を取らされて更迭されている。
そもそも、しばらくは山岳地帯が続き、攻めにくいばかりか占領してもうまみが少ない土地ばかりのオーストリアより、平坦な土地が広がっていて攻めやすく、占領した時の利益も大きいドイツのほうが、侵攻目標として魅力的であった。このため、ロシアはあまり本腰を入れてオーストリア=ハンガリーに攻撃を仕掛けることはなく、オーストリア=ハンガリーも自分から打って出れば大敗北を喫するのはわかっていたため、早くも1914年中には戦線が膠着することになる。
なお、バルカン戦線についてはドイツ側に援軍を送る余裕がなく、オーストリアとブルガリアだけで対処することになったものの、中央同盟側が優勢に戦いを進めている。