それは石炭と水と空気から作られ、 鋼鉄よりも強く、クモの糸より細い
66ナイロンのサンプルを東京大学に提出してしばらくたったころ、耀子は煕通と一緒にだるまのような愛嬌のある男性と会合していた。
「このたびは娘の発明のために御足労いただき、誠にありがとうございます」
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ、我が国で生糸以外に有望な産業が成立するとなれば、それは保護して発展させなければいけません。ぜひ、そのお手伝いをさせていただきたく」
しかしこの男性、煕通はもちろん、耀子にも見覚えのある人物だったのである。
(ひえっ、いきなり対経済最終決戦兵器KO☆RE☆KI☆YOが来ちゃった……)
その名も高橋是清。彼は数年後の日露戦争で日本の戦費調達に多大な貢献をし、昭和恐慌でも経済の立て直しに奔走するなど、息の長い活躍をした日本屈指の経済通であった。元特許局長の経歴を生かして耀子がナイロンの特許を申請しようとしていることを聞きつけた彼は、彼女の発明品に興味を持ったのである。
「日本銀行副総裁殿にそこまで言っていただけるとは、大変名誉なことですね」
「特許局員に話を聞きましたが、木や鉄に並び立つ第三の材料にできるとかなんとか。そこまで素晴らしい物であるというのなら、ぜひこの目で確かめてみたくてですね」
「おや、それでしたら、高橋殿のためにポリアミド糸を少し残しておけばよかったですね。東大に全部渡してしまったので」
高橋の言葉に対して、煕通は残念そうに答える。
「四歳のお子さんが作れるくらいなのですから、簡単に作れるものだと思っていたのですが、そうでもないと?」
「高橋様が仰る通り、私でも作れるくらい、作業は簡単です。ただ、原料にドイツでしか作れないものがあるので、気軽に作れないのです」
今度は耀子が申し訳なさそうに回答した。
「……思ったよりもずっとしっかり喋る娘さんですね。ということは、特許出願を急いでいるのも、お父様ではなく、お嬢さんの意志なのかな?」
「そうです。特許をとらなければ、原料を国内で生産できるドイツに、ポリアミドという材料を大々的に使われてしまいます」
「それを防ぐために、特許権者に付与される独占権が必要だ、そういうことだったね、耀子」
まさか耀子自身が特許をとりたがっていると思っていなかった高橋は、一瞬目を見開いたあと愉快そうに笑った。
「ほほう……たいした娘さんですね、鷹司さん」
「この子はよく私の書斎に潜り込んで、いろんな本を読み漁っているのです。特許制度についても、どこかで読んでいたのでしょう」
「それならお嬢さん、発明が特許を受けるために必要なものも知っているのかな?」
いわゆる特許要件を知っているか、という質問である。これに答えるのも耀子にとっては造作もないことだ。
「一般的に気にしなければいけないのは、利用可能性、新規性、進歩性の三つです。えーっと……」
まだ舌がうまく回らないところがあり、話し切るのに時間がかかりそうだと判断した煕通が割って入る。
「すなわち、産業として興せること、今までに同様の発明が公に知られていないこと、簡単には思いつけないことでないと、特許にはできないということだね」
「うん。付け加えて言うなら、同様の発明が誰かに先になされていないこと、公序良俗を乱さないこと、というのも必要だ」
この高橋の言葉を聞いたとき、耀子は違和感を覚えた。
「あれ、出願されてない発明であれば、誰かが先に発明したものでも特許は得られるんじゃないですか?」
「それはドイツの特許法の話だね。我が国では先発明主義を採用しているから、発明で先を越されていると特許が認められないんだ」
現代では大多数の国が先願主義を採用しており、日本でも同様である。しかし、このときの日本は先発明主義を採用しており、出願した時期に関係なく、発明した時期で先を越されている場合、特許化できなかった。複数の発明者間で誰が最初に発明したのか揉め事になることが多く、理想的に見えて問題の多い制度である。
「そうなんですね。おっしゃるとおり、よその特許法と混同したのでしょう」
「その歳でそこまで理解していることはすごいことだよ。これからもその調子で頑張ってほしいな」
「ありがとうございます」
この問題について耀子は首を突っ込まないことにした。どう考えても現時点でポリアミドを自分より先に発明している人間はいないからである。
「さて、特許要件のうち、新規性と進歩性については帝国大学の先生方からお墨付きをもらっている。特許庁時代の知り合いに調べてもらっているけど、お嬢さんと同様の発明は確認されていないし、公序良俗を乱すような発明でもない。よって産業上の利用可能性さえあれば特許として認められると思うんだけど……お嬢さんはどういう利用方法を考えているのかな?」
現役の特許局の役人ではなく、日銀副総裁をしている高橋が出てきたのは、これを確かめるためであった。産業は多ければ多いほど富国強兵の理念にかなうのである。
「まずは人造繊維としての使い道があります」
「絹とか、木綿とかよりも明らかに強いから、生糸より細くしても十分な強度を持たせられるんだよね」
「ですが、これ以外にも使う方法があります」
「……ほうほう、続けて」
プラスチックを糸状に細く伸ばした人造繊維、つまり化学繊維としての用途は関係者たちが真っ先に考えたことである。しかし、このときの日本は生糸の生産が外貨を稼ぐうえで重要な産業になっており、これと競合するようでは将来国内に軋轢を生む可能性があった。
「例えば、いったん融かした後に金型を使って押しつぶし、任意の形状に成形することができます」
「弁当箱や水筒、食器と言った日用品を作ったり……何かを組み立てるための円筒や角棒を押し出すこともできそうなんだってね?」
「はい。金属に比べると硬さと耐熱性が劣りますが、それ以上に軽いので、色々な構造物を軽く、安く、容易に作成できる材料になるでしょう。燃えやすいのは弱点のように見えますが、不要になったら燃やして捨てられるということでもあるので、本当に使い方次第でどうにでもなると思います」
「なるほど、そういった性質は、生糸はもちろん、人絹などと比べても明確な違いになるだろうね」
現代社会では様々な道具がプラスチックで作られている。金属よりも容易に加工でき、そのくせ軽量であるということが、プラスチックの用途を大きく広げているのだ。
「それから、これはこれから検証することなのですが、混ぜ物を入れることで、より頑丈な材料に変化させることができるかもしれません。そうなれば、木材や、下手すると金属すら置き換えることが可能なのではないかとみています」
フィラーと呼ばれる混ぜ物を添加することで、性能を大きく向上させることができるのがプラスチックのもう一つの特徴である。代表的なフィラーとしては、安価な製品ならばタルク、性能を重視するのならば短く切ったガラス繊維や炭素繊維を挙げることができるだろう。逆に樹脂の方を繊維に浸みこませて固めることで、より頑丈な繊維強化プラスチックを作ることもできる。現代の航空業界では、機体の構造材料として炭素繊維強化プラスチックを使用することが当たり前になっており、自動車や船舶といった他の乗り物においても採用が広がっている。
「うん……まだ実現可能性が不透明なところもあるけど、産業上の利用可能性は十分。特許としては間違いなく認められるだろう。後はどれだけ広範囲の特許にできるか、だね」
特許の請求項は、発明が特許によって守られる範囲を決める重要な要素である。他の発明を侵害せず、いかに広い範囲をカバーできる請求項とするかが、発明者や弁理士の腕の見せ所だ。
「ジアミンとジカルボン酸からなる合成樹脂組成物、とかですかね。この辺は帝国大学の先生方とも相談しなければいけないことだと思います」
この書き方の場合、ナイロン系のプラスチックはすべて特許で保護されることになる。現代でやったら暴挙もいいところであるが、この時代なら通用してしまうだろう。
「私もさすがに化学はよく知らないのでね……そうだ、今度そのあたりに詳しい人を紹介しよう」
「それはとてもありがたいことです。助かります」
その後、耀子はこの時代の特許文書の書き方について高橋からも指導を受けたり、会社を立ち上げての事業化について相談させてもらったりした。今回の会談によって、耀子は本格的に歴史に介入する道筋をつけることができたと言えるだろう。
生糸:この当時、生糸の輸出は日本の貴重な外貨獲得手段だった。
タルク:滑石。粒子の細かい粉末がベビーパウダーに用いられることもある。
FRP:Fiber Reinforced Plastic。何らかの繊維によってプラスチックを補強した複合材料。
ジアミンとジカルボン酸:それぞれ、アミノ基(-NH2)とカルボキシル基(-COOH)が一つの分子の中に二つついている物質のこと
久しぶりに序盤を読み返してみたところ、登場が唐突な人がいたり、そもそも樹脂材料の有用性について作中で解説していなかったりしたため、展開が不親切な個所が見受けられました。そのため、今更なんですが、書籍版で追加されたシーンをこちらにも掲載させていただきます。
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