永久の眠り
一つの時代が終わり、新しい時代がやってきます。
1912年7月30日、明治天皇の崩御が発表された。一代にして日本という国を列強に押し上げ、幾度もの国難を乗り越えてきた偉大な君主の死に、多くの人々──日本国民だけでなく、日本を慕う外国人まで──が涙した。
前世で天皇の崩御というイベントに接したことがなかった耀子は、あまりにも周りが動揺しているのをみて呆然としていたが、翌日7月31日の朝、自室から出てくる泣きはらした目をした、一睡もしていない様子の煕通をみて、ようやく事の重大さを実感したのである。
夜、耀子は緑茶を淹れて煕通の部屋の前に来ていた。
「お父様。お茶を淹れてきました」
「……耀子か……」
「入りますよ」
扉越しに聞こえる煕通の声には、全く覇気が感じられなかった。煕通は趣味であり特技である乗馬を通じて、明治天皇には単なる侍従武官という立場以上に気に入られており、例えば日露戦争の講和条件も、煕通の進言を天皇が受け入れたことで史実と異なったものに変わっている。こういったことの積み重ねで煕通は明治天皇に多大な恩を感じており、その心痛は察するに余りあるものであった。
「どうぞ」
「ありがとう……情けないことにな、鼻が詰まって折角の茶の香りがわからんのだ」
申し訳なさそうにする煕通。
「あまり香りの強い茶葉ではありませんから大丈夫ですよ」
「ふむ……?まあ、いただくとしよう……」
「……どうでしょうか」
心配そうに聞く耀子。緑茶自体は前世でも今生でも日常的に淹れていたが、眠気を覚ますことを重視して熱湯で淹れることが多かったため、うまく淹れられているか不安であった。
「……結構なお手前で。甘みと渋みのバランスが絶妙だな。それに鮮やかな緑色をしていて見た目もよい」
「ありがとうございます。最近静岡で発見された、『やぶきた』という新種の葉を使いました」
やぶきたは1908年に発見されているが、この時期にはまだ広く普及していない。この茶葉も、鈴木商店の伝手を使ってようやっと探し当てたものであった。
「成程な……そのやぶきたという品種が優良であるというのも、前世の知識なのかね」
「まあ……そうですね。前世では『緑茶と言ったらこれ』ってぐらい一般的な品種でした。もっとも、先ほど申し上げた通り香りは弱いので、そこを他の品種で補うのが定石ではありましたが」
「ふむ……耀子、私はな、とても申し訳なく思っているんだ」
「ふえ?なにをです……?」
何の話をされているかわからず耀子は煕通に聞き返す。
「天皇陛下は……一介の侍従武官でしかない私に、とてもよくしてくださった。陸軍からも、まだしばらくは現役のつもりでいてくれと言われている……浸透戦術の一件が評価されているのだろう……だがな耀子、あれは元はと言えばお前が言い出したことで、私のしたことと言ったら、ただそれを大谷君に伝えただけ……いわば私は、自分の手柄ではないもののおかげで今の名声を得ているに過ぎないのだ……それが無性に、陛下にも、耀子にも、陸軍の皆にも、本当に申し訳なくてな……」
ぽつりぽつりと、煕通は自分の心情を吐露していった。自分の娘が本当に未来から転生してきたのかどうかは今でも割とどうでもいい。ただ、本当に聡明なのは自身ではなくその娘だというのに、必要だったとはいえその考えを自分のものと偽って紹介し、それによって有能な人物であるかのように装っていることが、後ろめたいのだという。
「そんなことは、ないですよ」
そんな煕通の考えを、耀子は否定した。
「私の知識は本当に表面的で、そのままではとても実用にならないものばかりです。よしんば実用に耐えうるものであったとしても、まだ幼いこの身では必要なものをそろえられませんでした。そんな私に足りないものを補ってくれたのは、私の敬愛する今生のお父様、鷹司煕通公爵陸軍少将に他なりません」
「耀子……」
「一般的な大人なら一笑に付すであろう私の妄言じみた言動を、お父様は真剣に受け止め、その実現に向けて誠心誠意努力してくださいました。生産本部長の菊池さんは、耀子がいなければこの会社はなかったと言ってくれましたが、私からすれば、お父様がいなくても帝国人造繊維は創業できなかったと思いますし、浸透戦術も、誰にも鑑みられずに日露戦争を迎えたことでしょう」
一通り意見を述べた耀子は、もってきた急須から煕通の湯呑に二杯目を注いだ。
「ですから、お父様に対する世間の評価は、不足こそあれど過剰な面は一切ないと、末娘は思うわけです。お父様は、私の誇りです」
耀子はまっすぐに煕通の目を見る。その瞳には一点の曇りもなく、彼女の言葉に嘘偽りがないことを物語っていた。
「そうか……お前は、そこまで言ってくれるんだな……」
「良いものは良いと素直に認めるのが、我がテイジンのモットーですので」
「ありがとう……少し、楽になったよ」
煕通はそういうと注がれた二杯目の緑茶を飲み干す。まだ急須の中身が残っていたので、耀子はさらに3杯目を注いだ。
「最近、お父様は働きづめでかなり疲れていらっしゃるようです。緑茶のうまみ成分の1つ、テアニンには、ストレス……えっと、精神的な疲労なんかを回復する作用があったと思います。これからしばらくはあまり大きな仕事は受けず、できる限り低温で煎れた緑茶を毎日飲んでいただくことをお勧めします」
何なら私が淹れますよ、と耀子は付け加える。
「ありがとう……それじゃあ、これから毎朝、ぬるま湯で煎れた緑茶を持ってきてくれるかね」
「了解です。腕によりをかけて淹れさせていただきますね」
煕通の返事に、耀子はうれしそうに答えた。
その後、皇太子嘉仁が天皇に即位し、元号は史実通り大正に変わった。大正天皇は東宮武官時代からの付き合いで、やはり趣味の乗馬を通じて仲が良かった煕通を侍従長にしようとしたが、彼をまだ現役に留めたかった陸軍がこれに反対。協議の末、侍従長には東宮侍従長であった一条実輝をスライドさせ、煕通は中将に昇進の上侍従武官長を拝命することが決まった。史実とは異なり、天皇の身の回りの世話まで面倒を見なくてもよくなったこと、耀子の嘆願や、緑茶のリラックス作用もあり、煕通の受けるストレスは史実より緩和されることとなった。
耀子さんは史実の煕通お父様の死因を全く知らないのですが、色々な事情が絡まって偶然史実の死亡フラグを折ることができました。彼にはもうちょっと頑張ってもらえそうです……




