多摩川2R「タトラカップ」
というわけでようやく自動車レース回です。耀子さんより先に、あの人たちが走ります。
1936年6月。ついに全日本自動車競走選手権大会の当日がやってきた。2月末には帝都を騒がせた二・二六事件があり、陰鬱な雰囲気が日本に漂っていた中での開催である。
「すごい量の観客ですね、耀子さん。なんか開会式の時よりさらに増えていませんか?」
「新聞社が大々的に宣伝したし、あんな事件があった後だから、みんな娯楽に飢えてるんだと思うよ」
観客席に所狭しと並ぶ人々に、文子は圧倒された。
「本田宗一郎さん、でしたっけ? 耀子さん注目の」
「うん。アート商会さんで働いてた人でね。あそこのピストンリングとアルミピストンの製法は、本田さんが開発したんだよ」
だいぶ昔、耀子は陸軍に製造してもらっていたピストンとピストンリングを民需に転換するため、当時本田が修行していたアート商会にピストンとピストンリングの製造を依頼している。耀子の青田買いと、東京高等工業学校の聴講生になるなどの本田の努力が実り、今のくろがね重工業B系エンジンのピストンとピストンリングは、すべてアート商会が製造しているのだ。
「でも、なんでそんな人が今浜松で自動車修理工なんかを?」
「一サプライヤーじゃなくて自分で自動車を作りたいのかな……あと、修理工なら、いろんな会社のノウハウを合法的に見て盗めるからとか?」
前述のとおり、アート商会(本家)はサプライヤー業が多忙になり、自動車修理業はほとんどできなくなってしまっている。このため、他社のノウハウを吸収できなくなったのを嫌ったのだろうと、耀子は予想した。
「あー……そういえば、くろがねの技術者の中にも、最初は修理工になることを考えていた人たちがいましたね……」
「あ、お母様こんなところに」
そんな話をしていると、耀子の娘の響子と、文子の夫の佐藤章がやってきた。
「あら響子。今日はよろしくね」
「飛行機じゃないのは残念ですけど、タイヤとエンジンがついてますからよしとしますよ」
響子は耀子車の、章は文子車のコ・ドライバーを務める。単純なオーバルコースなのでナビゲーションなどするまでもなく、他の車両と違って補器類の手動調整も不要なのだが、レースの規定で乗車していないスタッフはレース中車両に手出しできないため、例えばタイヤ交換や燃料補給のための助手としてコ・ドライバーが必要なのだ。
「私も耀子さんも、あれだけしっかり車を仕上げてもらいましたから、大丈夫だと思いますけど……万が一のことがあると、私はともかく、耀子さんは本当にまずいですので……」
実のところ、夫の芳麿や息子の耀之も、耀子のコ・ドライバーになることを希望していたのである。しかし、「万が一事故を起こしたとき、侯爵家の当主か嫡男と、半官半民財閥の社長が同時に亡くなったら本当にまずいことになる」として各方面から反対され、代わりに響子が名乗りを上げたというわけだ。
「妻の言う通り、二人には申し訳ないけど、今回は観客席で見てもらいましょう」
「そうですね。……さて、そろそろ第2レースが始まるようですよ。間違いなく決勝杯でぶつかる相手を、みんなで観察しましょうか」
先ほど文子が本田の話題を振っていたのは、これから始まる「タトラカップ」に本田宗一郎・弁二郎兄弟が出走するからである。彼らは史実と違う設計のハママツ号を作り上げ、その戦闘力から決勝杯への出走は確実と思われていた。
アート商会浜松支店 ハママツ号
乗車定員:2名
車体構造:鋼製ラダーフレーム
ボディタイプ:トーピード
エンジン:タトラ "47B改" 機械式過給4ストローク空冷水平対向4気筒OHV2バルブ
最高出力:154ps/4000rpm
最大トルク:35.7kgm/2000rpm
駆動方式:FR
サスペンション
前:トレーリングアーム縦置きリーフスプリング車軸懸架
後:ド・ディオン式縦置きリーフスプリング車軸懸架
全長:3700mm
全幅:1690mm
全高:1160mm
ホイールベース:3000mm
車両重量:700kg
ブレーキ 前:ベンチレーテッド・ディスク 後:リーディング・トレーリング
大きく人目を引くのが、BMWのバイクのようにシリンダーをむき出しにして搭載されている、もとはタトラ T47──無事に工業デザイナーの道を歩んでいる、この世界のヒトラーが内外装をデザインしたオーストリア製大衆車──のエンジンである。
史実のフォード製四気筒エンジンではなく、タトラの水平対向エンジンを採用したことで全長が短縮され、重心も下がったことで、史実よりさらに運動性が高められていた。
「一応外車のレースですけど、何の車をもとにしたのかわからないですね」
「しかも、今の日本の法律だと、あれでも公道走れるからなあ……本田さんの車だから信頼できるけど、その辺の良くわからん職人が作った似たような車とは一緒に走りたくないね……」
現代日本なら間違いなく車検を通せなさそうな──とはいえ、ラダーフレーム車なので、本田ほどの腕があれば車検対応にできるかもしれない──見た目のレーシングカーに、耀子は道路運送車両法の制定を信輔に提案しなければいけないかもしれないと感じる。
「まあ、ここは公道じゃないですから、今日はおいておきましょう」
章がそんなことを言っていると、マーシャルがマーシャルポストに立ち、緑旗を構えた。各車が一斉にエンジン回転数を上げ、サーキット中に爆音が響き渡る。
「……はじまった!」
そして旗が振られて、各車が一斉にスタートを切った。本田のハママツ号は暴力的な加速を見せ、1コーナーで先頭に躍り出る。
「やば! すごい速い!」
耀子がそう叫ぶくらい、ハママツ号の戦闘力は圧倒的だった。史実の様に周回遅れに接触して吹っ飛ぶような波乱もなく、本田たちはあっという間に15周を走り切って、圧倒的な着差でチェッカーを受ける。見た目も含めてまさに走る弾丸といった雰囲気であり、あれに勝つのは容易ではなさそうだった。
「うわー、圧倒的だったなあ……」
「ほかの人たちがみててかわいそうなくらいでしたね……」
まだ周回遅れたちが走っている中、耀子たちはハママツ号の走りを脳内で反芻する。
「でもお母さまの車は、あれよりもっと速いんですよね?」
響子がそんな風に耀子の聞くと、
「まあ……コーナーと立ち上がりならうちのほうが速いと思うよ」
と、暗に「ストレートスピードでは負けているかもしれない」という見解を示すのだった。
参加レースもマシンも史実通りではないので、レース展開も史実通りではありませんでした。なお、描写しませんでしたが、アート商会本家のカーチス号は第1レースのほうに出ていて、問題なく優勝しています。
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