素敵なパーティ
ジョセフ・グルーは犠牲になったのじゃ……史実でも前日に鈴木侍従長や斎藤内大臣と夕食会なんてしてるから……
1936年2月25日。東京駅舎内、東京ステーションホテル宴会場。この日、首相の横田千之助、今度こそ隠居した高橋是清、内大臣の斎藤実、侍従長の鈴木貫太郎、そしてなぜか横から入ってきた帝国人繊社長山階耀子は、駐日米国大使のジョセフ・グルーとの夕食会に参加していた。
「現在の日米関係は不幸な行き違いが複数あり、緊張感が高まっております。しかしながら、本来米国と我が国は日露戦争のころから協調してともに歩んできた仲間だったはずです。今一度、両国の友好を取り戻し、共存共栄の道を歩んでいけるように頑張りましょう。乾杯!」
耀子はそのように挨拶し、参加者とジンジャーエールの入ったグラスで乾杯する。来賓と同じように酒を飲んでは、明日の早朝に影響する可能性があるからだった。
夕食会を終えて耀子たちが宴会場から3階の客室に引き上げた後、3階の別室では帝国人造繊維総務部秘書課の面々が顔を突き合わせていた。
「みんな、遺書は書いたね?」
課員達は、課長の佐藤文子の質問に無言でうなずく。彼女たちは明日の早朝、中隊規模の陸軍兵士がここを襲撃しに来ることを知らされていた。
すなわち、彼女たちの役割は、今この場所にいる5名の要人を警護し、反乱部隊が鎮圧されるまで命がけで守り切ることである。もちろん、総務部警備課も一緒に戦ってくれるが、より要人に近い位置にいる彼女たちの方が責任は重大であった。
「まさか、これを本当に人に向けて使うことになるなんて……」
課員の一人が、手元のコンパニオンカービンを見つめる。この銃は御料車を開発するときに購入・改造したマーリン M1894であり、本来は生産した防弾仕様車を.357マグナムで試し撃ちするために工場で使用されていた「備品」だった。
「対テロ訓練の一環として、私たちがこの銃で射撃訓練をしていたのは、人に向けて撃つためだよ。その機会が巡ってきたのが、たまたま明日だった、ということだけ」
文子は冷静に課員を諭す。国防を担う軍需企業である以上、他国の陰謀によるテロ行為はこれまでも十分に考えられた。実際、これまでも不審人物が社内に侵入したり、機密資料の窃取を試みたりする事例があったため、「護身傘」による白兵戦訓練や、マーリンM1894による射撃訓練を警備課と秘書課に課してきたのである。
「でも、なんで社長は襲撃されることがわかっているのに逃げないんですか?」
課員の一人が聞く。普通に考えれば、軍人相手に抵抗するより、さっさと逃げた方が安全なはずだ。
「それはね、今回の反乱が大規模で、普通に逃げても追手がやってくるからよ。それならいっそ、このホテルという防衛に向いた場所で、迎え撃った方がまだ助かるって判断でしょうね」
文子は知る由もないが、史実の二・二六事件では、東京のほかに、湯河原にいた牧野侍従長も襲撃されている。例えば視察と称してくろがね重工業の拠点がある静岡市長沼に避難することもできただろうが、それでも近場にいる青年将校によって襲撃される可能性は排除できなかった。
「……」
「耀子さんもそうだけど、弊社にずっとよくしてくれた是清さんなんかの生死も、私たちの働きにかかってる。みんな、絶対に反乱部隊を阻止して、生きて帰るよ!」
「はい!」
そして、1936年2月26日午前5時過ぎ。20分くらい前に起きた耀子は、自社製品である試製九六式防弾衣と試製九六式安全帽を身に着けて、「警護指令室」となった帝国人繊総務部警備課長阪田誠盛元陸軍情報部員の居室を訪れる。首相官邸襲撃時に発報されるだろう非常通報を傍受するため、阪田と文子が無線機の前にかじりついていた。
「阪田さん、状況に動きはありませんか?」
「ああ耀子さん……今ちょうど動いたところです」
そういって阪田が無線機の音量を上げると、首相官邸が襲撃されている旨を知らせる非常通報の音声が聞こえてくる。青年将校たちが横田に「天誅」を下すつもりで、圧倒的な戦力でもって首相官邸に押し入っているのだろう。残念ながら空振ることが確定しているのだが。
「これは、始まったとみてよろしいですね?」
「ええ。直ちに総員起こしをしましょう」
「お願いします」
当直の警備課員が休憩中の警備課員や秘書課員を起こして回る中、耀子も来賓たちを集めて事態を伝達する。
「耀子さん。悪いことは言わない。横田首相とグルー大使を連れてすぐに逃げなさい」
事情を聴いた斎藤は、耀子、横田、グルーの三人を直ちに逃がすように忠告する。
「できることならそうしたかったんですが、もう今の東京は大隊規模の反乱軍に占拠されております。逃げるよりは、まだうちの社員を信じて立てこもる方が安全ですよ」
危機が迫っているとは思えないほど、耀子はにこやかに提案を拒絶した。
「しかし……」
「斎藤さん、こうなった耀子さんは言っても聞かないよ。好きにやらせてやりなさい」
「是清さん」
斎藤が尚を食い下がろうとするが、耀子とは幼女時代からの付き合いになる是清がそれを制する。
「斎藤さんも、数日前に警察から『陸軍の一部に不穏な動きがある』って警告されただろう? こんなおいぼれのところにもそんな話が来たぐらいだ。耀子さんが知らないはずがない。おそらく、今日のためにいろいろ準備してきたんだろう。であれば、最期くらい好きにやらせてやるのが武士の情けというものじゃないかね。それで助かったらもうけもんってことさ」
是清が言った通り、史実同様、政府要人には皇道派青年将校が反乱の準備をしていることがすでに伝わっていた。耀子と一緒に日本を盛り立ててきた是清は、今回の国難に対しても彼女が手を打っており、うまく切り抜けられると信じているのである。
「……ひどい言われようですが、おっしゃる通りこうなることは予期してやれるだけの準備をしてきました。本職の軍人相手と言えど、一日二日は暴れて御覧に入れます。その間に、絶対に外からの救助が来ますので、どうか、私と一緒に立てこもってください」
そういって耀子は頭を下げた。
「『維新以来の才女』が頭まで下げているんだ。ここは彼女にかけてみようじゃないか。横田君も、それでいいだろう?」
「……首相官邸が襲われたということは、あそこに詰めている人々にも犠牲者が出ているはずです。彼らの無念を晴らすためにも、徹底的に戦いましょう。グルー大使、巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんが、必ず生きて脱出させますので、しばらくご辛抱願います」
是清に促されて横田も覚悟を決める。これにより、正式に「叛乱軍に徹底抗戦する」ことが決まった。
いくつかの要人襲撃が空振りに終わった叛乱軍は、尋問によって横田首相らが現在東京ステーションホテルに宿泊していることを突き止める。そして、皇居を占拠するために近くにいた中橋基明中尉率いる歩兵第三連隊第7中隊を差し向け、東京駅丸の内駅舎を占拠した。中橋がホテルの受付を脅迫し、是清達の居室を吐かせると、中島莞爾少尉以下数名を3階に向かわせる。
「な、なんだこれは……」
そこで彼らは、本来客室内にあるはずのベッドが廊下に引っ張り出され、簡易的なバリケードが組み上げられているのを目の当たりにした。
「あー、あー、叛乱軍に告ぐ」
中島少尉が唖然としていると、あまり緊迫感を感じさせない、どこか馬鹿にしているような女性の声が廊下の奥から響いてくる。拡声器で音量を増幅させた耀子の声だ。
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」
「なんだと」
耀子は史実で叛乱軍にまかれたビラの語句を暗唱する。彼女は自社の警備課と秘書課を督戦し、余裕を見せつけて鼓舞するため、安全のために最後方で物陰に隠れながらも反乱部隊を挑発することにしたのだ。
「抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する」
「何を言うか!」
「国民を搾取し、富を独占する貴様ら財閥の方が逆賊ではないか!」
激高する士官たちの声を聴いて、耀子は気持ち悪い笑みを浮かべながら最後の一言を述べる。
「お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」
「貴様ぁぁああああ!」
中島莞爾達が小銃や拳銃を構えると、バリケードの陰に隠れていた警備課員と、その後方の秘書課員も各々の獲物を兵士たちに向けた。
「撃てぇぇええええ!」
両者の指揮官が叫び、銃弾が飛び交う。反乱軍側の弾丸は全てがバリケードで受け止められ、一切の損害を生じなかった。一方、帝国人繊側の銃弾はいくらかが反乱軍兵士に命中し、彼らを打ち倒す。
「何事だ!」
明らかに多すぎる銃声を聞いて中橋が駆け付けると、階段の出口で中島たちが血を流して倒れていた。
「中橋殿、反撃です……奸臣どもは、こちらの襲撃を予期して……多数の火器で武装し、立てこもっております……」
「なんだと!? くっ、情報部め、いつもいつも邪魔ばかりしやがって……!」
陸軍情報部はこれまでもクーデター計画を事前につぶしたり、永田鉄山少将の暗殺を直前で阻止したりして、皇道派の恨みを買っている。そのため、今回の立てこもりも中橋は陸軍情報部の手引きだと考えたのだった。
文字数かさんじゃったので、また来週に続きます。
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