ウィリアム・タフトの不思議な死んだライオン
支那大陸の支配者からは脱落しましたが、満州は保持できたので問題ありません(例のBGM)
1912年1月。史実より少し早めに辛亥革命が終了、中華民国が建国された。しかし、清も満州一帯を堅持しており、宣統帝(溥儀)も退位していない。満州に権益を持っていたアメリカが、辛亥革命に介入したからである。
1905年のポーツマス条約以来、アメリカは新たな未開の地である満州へ積極的に投資を行い、中国進出に出遅れた分を取り戻そうと躍起になっていた。直接的に権益を得た鉄道はもちろん、その周辺地域の清国領内の開発にも積極的に手を伸ばし、清が自分たちの出身母体である満州を優遇していたこともあって急速に発展していった。
「お前さん、最近儲かってるんだって?」
「ああ。アメリカさんが満州に来てから、機械部品の発注が増えてな」
日本もこの恩恵にあずかっている。特に九州北部や山陰地方は、アメリカから満州向けの注文が殺到し、好景気に沸いていた。
「輸送費を考えると、日本で作った方が安上がりだってことか」
「それで、うちで作った物資は日本が持ってる旅順港に荷揚げされるんだぜ?政府も港湾使用料で笑いが止まらないって話だ」
「ロシアとの講和内容を聞いたときはなんで関係のないアメリカに満州を渡すんだってびっくりしたけどよ、ここまで読んでたんだな。すげえわ」
このころ、史実のアメリカでは安い賃金でよく働く日系移民が不当に仕事を奪っているとして排日運動が盛り上がりを見せていたが、日本国内や、そこから近い満州、遼東半島の景気がよく、わざわざアメリカに行かなくてもよくなったことで、アメリカに移民する日本人は激減した。日本がロシアに大勝し、テイジンがナイロンを開発したことで黄禍論は史実より盛り上がっており、日本人に対する差別は激しかったが、旅順港を押さえている日本の機嫌を損ねたくないアメリカ政府は、排日運動に非協力的な態度をとった。
「とはいえ、現状のまま日本と対立したら満州はすぐに干上がってしまうだろう」
「日本だけではない。ロシアが国内を立て直したら、再度満州になだれ込んでくる可能性もある」
「今のうちから防衛戦略を考えておかねばなるまい」
こうして、対日戦争計画「オレンジ計画」は史実通り作成されることとなった。もっとも、その内容については「いかにして満州を守り切るか」ということに重点を置かれており、史実の第一案とは大幅に異なっている。
こうした状況もあり、満州には満州鉄道とその付属地の警備のためとして実に2個師団が駐留していた。欧州列強はこぞって懸念を表明していたが、アメリカは満州鉄道の長大さと付属地の縦深の無さを理由に退けていた。
そんな中で辛亥革命が勃発したのである。アメリカの対応は迅速であり、速やかに駐留兵力を満州に展開、革命の火が満州まで及ぶのを阻止し、清と中華民国との間の講和を仲介した。
「革命の完遂は目前だというのに……!」
孫文は歯噛みしたがどうしようもない。義和団の二の舞は何としても避ける必要があった。こうして、冒頭のように清は支那の1地方政権として生き残り、事実上アメリカの傀儡国家としての道を歩むことになった。この影響で中国での勢力を急速に拡大したアメリカは欧州列強と対立するようになり、日本はイギリスとアメリカの間で難しいかじ取りを要求されることになる。
なお、このときイギリスはアメリカに対抗するため、インドに亡命していたダライラマ13世を支援してチベット一帯を独立させ、勢力下においている。日本もこれに便乗し、大量の三十年式小銃と三十年式山砲、およびそれらの弾薬を供与し、軍事顧問まで派遣したため、チベット軍は史実の中央チベットだけでなく、青海省のツァイダム盆地まで領土を広げることに成功した。この時の縁で日英はチベットとの間に友好関係を結ぶことができ、チベット軍士官の留学を受け入れたり、山岳戦のノウハウを学ぶため定期的にチベットへ師団を派遣したりするなど、史実以上に深い関係を築くようになる。
しれっとチベット独立に介入し、ツァイダム盆地を獲得させました。明石先生マジパネェっす。
今はまだ「ふーん」で終わる出来事ですが……




