ある熱狂の終わり-3
長くなっちゃいました。
シュナイダートロフィーレースの出走時刻が近づくにつれ、整備を終えた各国の機体が続々と芝浦沖に設定されたスタートラインまで移動してくる。その中に、佐藤章の駆る日本チームの一番機の姿もあった。
「いよいよか……」
帝国人繊に拾われてから20年。レースとは定期的に縁のある人生だった。のちの妻である千坂文子とラリー・モンテカルロに出走し、その後はシュナイダートロフィーを完走した。さらに2年後のシュナイダートロフィーにも出てこちらは優勝し、その次の回でも楽勝して、今回は3連覇がかかっている。
「前回とは明らかに他国の機体の出来が違う。うちの機体も確実に強くなっているが、前回みたいに熟成不足による故障で相手が勝手に自滅してくれることは期待できないだろうなあ」
整備員の数が少ないし、機体も突貫工事でエンジンを換装した雰囲気が隠し切れていなかった前回のイギリスチームを思い返す。出場した3機すべてがレース中に故障でリタイアするという悲惨な状況で、普通に飛んでいるだけで佐藤は優勝できてしまったのだった。
「大恐慌で予算がない中、熟成不十分な新型エンジンに載せ替えていたんだから、自業自得なところもあったとはいえ……さすがにいつまでも『ライオン』を使うわけにはいかなかっただろうからな」
この場合の「ライオン」とは、ネイピア社製の航空エンジン「ライオン」のことである。この世界線では2ストロークW型エンジンとして設計され、長いことイギリスチームの強さを支えていた。ただ、ネイピアには品質管理に気を配れるほどの企業体力がなかったこと、主力技術者のアーサー・ロウレッジをロールスロイスに引き抜かれてしまったことから、まともな後継エンジンを開発できず、現在のネイピアはすっかり落ちぶれてしまっている。
その代わりに白羽の矢が立ったのが、次期主力戦闘機用エンジンとしてロールスロイスが開発していた「クレシー」であった。このエンジンを開発したのもまたアーサー・ロウレッジだったのである。
「イタリアもマイバッハと開発していた4ストロークエンジンを捨てて、うちのB型エンジンをもとにしたらしい2ストエンジンに載せ替えてきてるし、オーストリアくらいしか楽に勝てそうな相手はいないかな……」
異様に機首の長いイタリア機を横目に見ながら、章は独り言ちた。
「まあ、なんにせよ、ここまで来たら後はやれるだけのことをするだけだ」
シュナイダートロフィーのレギュレーションでは、パイロットが介入できるところなんて仕掛けのタイミングぐらいしかない。前々回はそこが勝敗を分けたとはいえ、何度も通用する手ではないだろう。結局、佐藤にできることは、己を信じ、機体を信じ、運命を信じ、極限まで集中することだけであった。
そして、出走時刻を迎え、スターターが台に上がり、旗を構える。パイロットはもちろん、レースの実況を配信するラジオ局のアナウンサーまでもが、その感性を研ぎ澄ませる。
『この東京湾で、三連覇の壁は破られることになるのかシュナイダートロフィー!』
湾岸を埋め尽くす大勢の観光客と、パドックのスタッフたちがかたずをのんで見守る中、旗が振られ、スターターピストルが鳴らされた。
『スタートぉ!』
佐藤は一気にスロットルを全開にし、緊急出力で機体を加速させる。他国の半分程度しかない小型軽量な機体は瞬く間に離水速度まで加速され、佐藤はポーポイズを警戒しながら慎重に引き起こしていく。
『日本勢がいーいスタートを切りました! 外国勢はまだ滑走中ですが、日本勢は早く離水して高度を上げていきます!』
川鴉の翼面積は確かに参加機の中で最小である。しかし、重量がそれ以上に軽いため、翼面荷重もまた参加機の中で最少だった。ファウラーフラップを装備していることも相まって素早く離水することができ、上昇率も高いことから高度をとってただでさえ低い空気抵抗をますます下げることができる。
「……来たか」
佐藤が後ろを振り返ると、他チームの機体も離水して上昇を始めているのが見えた。これ以上上昇していると抜かれてしまうため、日本の各機は水平飛行に移行する。
『外国勢も遅れて離水! 全機が無事に離水しました! 離水の早かった日本勢が、現時点では上位を独占しています!』
そして後続の他国機を引き連れて、日本勢はスロットルを緊急出力に入れたまま羽田沖に設定された1コーナーを旋回していく。スタートからここまでにかかった時間は3分少々。旋回直前の速度計は700km/hを超える値を差していた。
「……時間だな。最初から無理をする必要はない」
旋回を終えたあたりでブーストを公称出力まで絞り、エンジンをいたわる。C222Aが緊急出力を発揮できる時間は、カタログ上で5分。芝浦沖-羽田沖-浦安沖にコーナーが設定された1周35kmのコースを10周しないといけないのだから、ずっと全力で飛び続けることはできない。どこかで息を入れる必要がある。
「よその機体はどうだ? ……少なくとも、明らかに巡航速度で負けている機体はいなさそうだ」
最悪の想定はとりあえず外れていることを確認し、佐藤はほっと胸をなでおろした。もしここで明らかに自分達よりハイペースで飛んでいる機体がいる場合、離され過ぎないように多少無理をしてついていかなければいけなかったかもしれない。その場合、エンジンに問題が起きないとも限らなかった。
「気筒温度も潤滑油温度も正常。発動機からの異音や潤滑油漏れもない。もう少し気合を入れて逃げてもいいが……」
軍用エンジンとして開発されたC系エンジンは、戦場で酷使されても耐えられるように頑丈な設計になっている。しかし、設計当時のエンジン出力は1000hpにも届いていないが、今は2000hpを超えているから、その頑強さは昔に比べれば間違いなくスポイルされていると考えていいだろう。
「耐久試験の結果を見る限り、最後の1周は全開でギリギリ飛びきれそうだが……あんまり発動機に負荷をかけたくはないな……」
他国の機体がペースを上げても、長続きはしないはずである。そのような目論見で、佐藤はレースを進めることにした。
状況が動いたのは7周目を過ぎたところである。
『イタリア動いた! ジョバンニ・モンティ、ここで動いた! 3コーナーのカーブ!』
中段で息をひそめていたイタリア機が、ペースを上げて順位を上げだしたのだ。
「奴さん、勝負に出たな? こいつにのるか、それとも……」
佐藤は計器を確認する。シリンダー温度は正常。油温も問題ない。
「行くか……」
ブーストを少し上げると、エンジンが回転を上げようとし、それを検知したプロペラガバナーがプロペラピッチを調整する。後ろを見ると、2番機の精はついてこないらしい。3番機の小福田租中尉は6周目にエンジントラブルでリタイアしていたから、バックアップで安全策をとるつもりなのだろう。イギリスチームも1機はついていくみたいだが、もう1機は精と同じように前崩れを期待する方針のようだ。
『8周目で先頭変わってイタリアのジョバンニ・モンティ! 2番手日本の佐藤章がぴったりとマーク! 3番手にイギリスのジョン・ブースマンがつけています!』
佐藤は高度を下げて増速し、自分の前に出たイタリア機の後ろに付けて様子をうかがう。次の9周目でじりじりと差を詰め、10周目で抜き去る構えだ。
「あいつ、まだペースを上げているのか?」
ところが、9周目にブーストを引き上げても差が詰まらない。イタリア側もペースを上げているようだ。
「イギリスの動きも気になるし、もう仕掛けた方がいいか……?」
自分の後ろを飛んでいるイギリス機も、そろそろブーストをいっぱいまで引き上げて前に出たいはず。今すぐそうしないのはエンジンの耐久力に不安があり、仕掛けどころを待っているからだろう。
「……次のコーナーで、仕掛ける。発動機が持ってくれることを信じよう」
小型軽量で旋回では有利な川鴉の特性を生かし、9周目の2コーナーからロングスパートをかけることを佐藤は決心した。
「ここだ……!」
旋回ポイントを通過した佐藤は、スピードを殺さないようにイタリア機のイン側に潜り込み、ブーストを最大までかけて抜き去りにかかる。
『日本の佐藤、ここでもう一度先頭に立ちました!』
このまま突き放しにかかる佐藤だったが、イタリア機も食い下がってくる。それどころか、直線区間に入ると、じりじりと差が縮まっているようだった。
「くそっ! 最高速度はあっちの方が上だったか……!」
コーナーでは自機の方が小回りが利く分早いようだが、ストレートでは追い付かれる。感覚的に、このままだと10周目で差し切られるように佐藤は感じた。
『さあ3コーナーを回って最後の1周! 先頭は日本の佐藤! 日本の佐藤が先頭だが、イタリアのジョバンニ・モンティが迫ってきているぞ!』
すでにブーストはカタログ以上に上げている。プロペラピッチは限界まで立ち、C222A3は2300HP以上の出力でプロペラをぶん回していた。そこまでやってもなお、右斜め前に見えるイタリア機との差が縮まらない。
「くそっ!」
やれるだけのことは全てやっている。機体は己に定められた限界すら超えている。無力感と戦いながら佐藤が2コーナーを回っているときだった。
「あっ……!」
前方のイタリア機の機首が突然爆発し、火を噴きながら墜落していく。やはり、相手も相当無理をしてあの優位を保っていたのだ。
『ああ! ジョバンニ・モンティが爆発! ジョバンニが墜落していく! この間に日本の佐藤が再び先頭! 三連覇の達成なるのか!? 2番手イギリスのジョン・ブースマン! 日本の精も3番手に上がってきている!』
後続のブースマン機が猛然と追いかけてくるが、佐藤機とモンティ機のデッドヒートに乗らなかったため、差が開きすぎている。
『佐藤だ! 佐藤だ! ブースマンはもう間に合わない! 日本の佐藤! 今ゴールイン!』
そのまま佐藤の機体はゴールラインを通過し、シュナイダートロフィーの勝者となった。
『日本三連覇! 日本が、シュナイダートロフィーの三連覇を達成しました!』
佐藤はブーストを最低まで落とし、スロットルを絞ってフラップを展開。それでもかなりの速度で海面に接近し、そのまま着水する。
「……っはあ、はあ、勝った、のか……?」
エンジンをアイドルのまま回して、パドックに向けて海面上を徐行する。周りを見ると、完走した他所の機体もすでに着水し、各々のパドックに戻っているところのようだ。
佐藤はキャノピーを開けて、座席の上で立ち上がる。すると、観客たちがわっと騒いでいるのが、遠目でもわかった。
「……そうか。勝てたんだな、俺は」
そう思った佐藤が観客に向けて手を振ると、少し遅れて観客たちの動きがさらに大きくなる。あまりの騒ぎに海に落ちた人間が何人かいたように見えたので、佐藤は慌てて手を振るのをやめ、座席の上に座った。
「……ま、誰かが助けるだろ」
極限まで集中し、神経をすり減らした佐藤は、目の前で事故が起きてももう何もする気が起きないほど疲れている。それでも、今日のレースを見に来てくれた妻にはいい報告ができそうなので、佐藤はコクピットで満足げな笑みを浮かべるのだった。
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