ある熱狂の終わり-2
シュナイダートロフィー当日、本番で万が一のことが起こらないように、日本チームのマシン「川鴉」には、スタッフたちによる念入りな最終チェックが行われている。
帝国人造繊維 ST43R 川鴉 1935年仕様
機体構造:高翼単葉、飛行艇
艇体:炭素繊維強化フェノール樹脂セミモノコック
主翼、エンジンナセル:炭素繊維強化エポキシ樹脂セミモノコック
乗員:1
全長:7.1 m
翼幅:6.8 m
乾燥重量:750 kg
全備重量:1260 kg
動力:くろがね重工業 ”C222A3” ×1
構造:ターンフロー式強制掃気2ストローク空冷
形態:星型複列18気筒
ボア×ストローク:110mm×130mm
排気量:22.2L
過給機:機械式1段1速+排気タービン式1段
離昇出力:2280hp/3600rpm
公称出力:2080hp/3200rpm
「前回大会の様子から、このくらいの性能があれば勝てるとは思ってるよ」
「でもまあ、やるだけやっても不安に思うのが、こういった催し物ですから……」
今のくろがね重工業が持つすべての技術を投入し、限界までエンジン出力を上げたC222A3は、今の日本が持てる最強の航空エンジンであることは疑いようがない。だが、世界最強であるかと言えば否である。
「前面投影面積ではうちが最小。でも、エンジンパワーはイギリスの方が上。うちのB系エンジンを拡大して作ったらしいイタリアの新型エンジンも気になるし、まったく安心はできないね」
イギリスチームのスーパーマリン S.6Cは、機体こそ前回大会から小規模な変更しかないものの、前回大会ではトラブルが多発していた新型エンジン「クレシー」の熟成が進み、セッティングもより攻めたものにできるようになっていた。
このクレシーは構造こそ違うものの、史実でも存在していた航空用2ストロークエンジンである。耀子の歴史介入によって開発が早まるばかりか、史実で「R」「マーリン」が収まっていたポジションに居座り、イギリスを代表する航空用レシプロエンジンへと成長しつつあった。
スーパーマリン S.6C
機体構造:低翼単葉、双フロート水上機
胴体:ガラス繊維強化エポキシ樹脂セミモノコック
主翼:ガラス繊維強化エポキシ樹脂セミモノコック
乗員:1
全長:8.5 m
翼幅:8.6 m
乾燥重量:1980 kg
全備重量:2460 kg
動力:ロールスロイス "クレシー" ×1
構造:ユニフロー式強制掃気2ストロークSOHC2バルブ水冷
形態:V型12気筒
ボア×ストローク:130mm×165mm
排気量:26.1L
過給機:機械式1段1速+排気タービン式1段
離昇出力:2730hp/3200rpm
公称出力:2500hp/2900rpm
「そうそう、さっきイタリアの機体を見に行ったんですけど、あれたぶんV型12気筒発動機を2基直列に繋いでますよ。そこまでするかって思いましたね」
マッキ自身はもはやシュナイダートロフィーにさほど乗り気ではなくなっているのだが、ムッソリーニは別である。先の第二次エチオピア戦争で日英に煮え湯を飲まされた彼は、両国を見返すべくシュナイダートロフィーでの勝利を求めた。その結果、潤沢な予算を付けられ、ライバルである日本企業から取得した技術まで駆使してこの世界での「M.C.72」を作り上げたのである。
マッキ M.C.72
機体構造:低翼単葉、双フロート水上機
胴体:ジュラルミンセミモノコック
主翼:ジュラルミンセミモノコック
乗員:1
全長:8.3 m
翼幅:9.0 m
乾燥重量:2200 kg
全備重量:2760 kg
動力:FIAT "AS.6" ×1
構造:ユニフロー式強制掃気2ストローク直打OHC1バルブ水冷
形態:V型24気筒
ボア×ストローク:100mm×150mm
排気量:28.3L
過給機:機械式1段1速
離昇出力:2850hp/3300rpm
公称出力:2600hp/3000rpm
「まあでも、オーストリアも大排気量V型12気筒エンジンが開発できなくて、イタリアみたいにV型12気筒エンジンを2基がけしてるし、技術力がいまいちなところはどこもこうなっちゃうのが、シュナイダートロフィーの世界なんじゃないかな」
影が薄いが、一次大戦で解体されなかったオーストリアも、今日までシュナイダートロフィーへの参戦を続けていた。一度も優勝した経験がなく、機体性能も日英伊と比べて見劣りがするものであったが、だからこそいつか前記の三国に追い付くことを目標に参加を続けている。とはいえ、さすがに大恐慌の影響もあり、そろそろ足抜けしたい気持ちがあるのも事実だった。
ローナー R.VII
機体構造:高翼単葉、飛行艇
艇体:ジュラルミンセミモノコック
主翼:ガラス繊維強化エポキシ樹脂セミモノコック
乗員:1
全長:8.6 m
翼幅:10.0 m
乾燥重量:2610 kg
全備重量:3070 kg
動力:アウストロ=ダイムラー "AD600A" 過給4ストローク水冷V型12気筒SOHC4バルブ×2
構造:4ストロークSOHC4バルブ水冷
形態:V型12気筒
ボア×ストローク:150mm×160mm
排気量:33.9L
過給機:機械式1段1速
離昇出力:1450hp/2700rpm
公称出力:1270hp/2500rpm
「そうなんですか。ちなみに、技術力が低いと大排気量発動機が作れない理由はなんですか?」
「正確には、ボア、つまりシリンダーの内径が大きいガソリンエンジンが作れないってことね。ボアが大きいと燃焼室も大きくなる。燃焼室が大きくなると、点火プラグからピストンまで火炎が伝搬する距離が長くなるよね」
「そうですね」
ピンときてなさそうな表情で文子が相槌を打つ。
「火炎が伝搬する距離が長くなると、それだけ燃焼室でガソリンが燃えている時間が長くなる。ガソリンが燃えている時間が長くなると、ノッキングをはじめとする異常燃焼を起こしやすくなるのよ」
「ガソリンが燃えている時間が長くなると、なぜ異常燃焼が起きやすくなるんですか?」
やっぱりピンときてなさそうな表情で文子が質問した。日常的に耀子と会話しているとはいえ、あくまで文子は耀子の護衛兼秘書である。最終学歴は高等小学校卒であり、学術的なことは専門外であった。
「水冷エンジンの燃焼室壁面って、大体200℃くらいになるの。そんな環境に長時間ガソリンの霧を閉じ込めておいたら、火花で点火しなくても勝手に発火しそうじゃない?」
「あー、つまり、ガソリンエンジンでは引き入れた吸気を素早く燃やしきりたいんですね。でも、ボアが大きいと点火してもすぐには燃え切らないから、その間に異常燃焼してしまうんですか」
「概ねそういうこと。だから、レシプロエンジンのストロークは簡単に変えられるけど、ボアを変えると燃焼状態ががらりと変わるから、航空用の大きなエンジンだとかなり苦労するみたい」
このため、帝国人繊系列の航空用2ストロークエンジンは、今のところ全てボア110mmに統一されている。また、空技廠系の4ストロークエンジンも、英国ブリストル社製のエンジン「ジュピター」に由来するボア146mmに統一されており、これらを変更する開発リソースもない。
「へー、発動機って難しいんですね……」
「まあでも、やっぱり奥深いものは面白いからさ。やめられないんだわ」
ご機嫌な耀子に対して、文子はテキトーに相槌を打った。
「……さて、話をしていたらそろそろ出走時刻になりそうだ。精さんの雄姿を見に行こう」
兵頭精は帝国人繊のテストパイロットであり、今回がシュナイダートロフィー初参戦となる。本当は1924年でも川鴉に乗る予定だったのだが、海軍の横やりでシートがなくなってしまったため、今回ようやく出走がかなったのであった。
「うちの旦那のことも忘れないでくださいよ。三連覇がかかってるんですからね」
文子の夫である佐藤章も、同じく帝国人繊のテストパイロットである。1924年の初参戦から、今回までの4戦とも出場しており、1926年と1933年の優勝は彼の手によるものであった。
「いや、そこは自明の理だと思ってさあ」
苦しい言い訳をしつつ、二人は来賓席に向かっていく。ジャック・シュナイダーの夢と、飛行機野郎達の熱狂に引導を渡すときが、刻一刻と迫っていた。