【閑話】前世のよすが
次のネタはSprocketで事前検討が必要なので、今回は閑話で勘弁させてください。
幼少期、華族令嬢のたしなみとして楽器を習う必要に迫られた耀子は、とりあえず音を出すだけなら簡単で、最大10音を同時に発音でき、ソロでもある程度聞きごたえのある演奏ができるピアノを選択した。会社立ち上げの時こそ忙しかったものの、社員が集まってきてからはある程度余裕もでき、親族からの圧力もあってこの手の「手習い」にもリソースを振り向けるようになる。
「~♪ ~♪」
自分の中で「手習い」に意味を持たせるため、耀子が取った行動は「前世で聞いた曲の再現」であった。有名落ち物パズルゲームのテーマ曲にもなったロシア民謡から、物語音楽の各地平線まで、さまざまな曲をピアノソロにアレンジし、練習したのである。前世の「知識」ではなく「思い出」に向き合い、それを外部に表現する時間にすることにしたのだ。
「お~すごい! 今回はちゃんと間違えずに最後まで弾けたね!」
そして今、ひそかに練習した数々の曲と技術を、8歳の次女が吸収してくれている。歴史がねじ曲がり、もはや自分の前世には絶対に行きつかない今となっては、耀子の思い出の中にある曲たちだけが、彼女が以前生きていた世界を伝えるものとなっていた。それだけに、うまくできたときには馨子を大型犬のように撫でまわしてしまうのも、仕方がないことなのだろう。
「がんばった」
耀子にわしわしと撫でられながら、馨子もうれしそうにしている。
「途中、左手が突っかかりそうなところのテンポが露骨に落ちていたから、今後はもっと一定の調子で弾けるようになりたいね」
「うん」
「じゃあ、もう一回通して弾けたら、今日は終わろうか」
ニコニコと微笑みながら、耀子はノーミスで弾ききった感覚を定着させるためにもう1回通して演奏することを要求した。
「……疲れた」
「うまくいった感覚を体に覚えさせないと、また明日練習しなおすことになっちゃうよ」
「……お母さんが1曲、弾いてくれるなら」
疲れて不機嫌な馨子は、口をとがらせつつも両手を鍵盤の上に乗せた。
「~♪ ~♪」
ここ最近練習しているフィンランド民謡の旋律が、防音室の中に響き渡る。右手の譜面はほとんど変化がないが、聴衆が飽きないように左手の伴奏がいろいろ変化するため、これの順番を間違ったり、苦手な譜面でつっかえたりするのがよくあるミスだ。
(~♪ ~♪)
しかし、一度コツをつかんだからか、娘は問題なく演奏を進めていく。母も発音だけ暗記した歌を脳内再生しながら、上機嫌で「存在しない長ネギ」を振り回した。
「~♪ ……どう?」
「よかったよ~! じゃ、今日はこれでおしまいにしようか」
「うん!」
椅子の上の馨子を抱きしめ、わしわしと撫でた後、椅子から降ろして代わりに自分が座る。
「といっても、何を弾こうかしらね……」
娘の好きな曲の傾向はわかっている。勇ましく、感情をたたきつけるような、ドラマチックな曲、すなわち、ゲーム音楽の類だ。あの系統の曲はこの時代では影も形もないから、この時代の人間である馨子にとっては新鮮に聞こえるに違いない。
血は争えないのか、耀子のレパートリーの中で馨子が一番お気に入っているのは「竹林に隠居する藤原不比等の娘をイメージした曲」だが、いつもそれでは芸がないため、別の曲を弾いてやりたい。
「……あれにしようかな」
そういって弾き始めたのは、荘厳な和音からはじまる、悪霊のテーマ曲。PC-98時代に作曲され、Windowsに移行した後も根強い人気を誇る名曲の、音楽CD再録版であった。
(実際に転生した人間がこの曲を弾いてるの、なんとも言えない気分になるわね)
イントロの後のアタックの強く短いAメロ、そしてBメロを弾きながら、耀子は曲のタイトルを思い浮かべて複雑な感情を抱く。
(そういえば、あのキャラは悪霊だから転「生」はしていないんだけど、なんでテーマ曲のタイトルがこれだったんだろう……私がその理由を知る機会は、もう一生来ないんだろうなあ)
曲の背景にばかり気が行ってしまって、演奏に集中できない。とはいえ、そもそも込めるべき感情がわからないまま弾いているのだから、考え事をしていなくても心を込めて演奏できたのかは怪しいところだった。
「……」
「……」
演奏後、案の定というべきか、馨子は不満そうな顔で耀子の方を見ている。母の気持ちの入っていない演奏が気に入らなかったのは明らかだが、それをはっきり言わずにじっと見つめるだけにとどめるあたり、耀子が手を抜いたわけではないのはわかったのだろう。
「ごめんね、この曲は、あんまり曲に込めた意味とかをよく整理できてなくて……」
「……ふーん。旋律自体はすごくよかったから、また今度弾いて」
すぐにリテイクを要求してもよい演奏は聞けないと思った馨子は、そう言って自室へと戻っていった。後には、耀子1人が残される。
「また今度弾いて、か……」
Windowsのキャラクターと違い、PC-98時代のあの作品のキャラクターは謎やパロディが多い。耀子でも把握してなかったり、そもそも公表されていなかったりする設定があるため、この曲についても「正しい感情」は耀子にはわからないのだ。
「しばらくは別の曲を弾くとして……どうしようかなあ……」
彼女が「答え」を知る機会は永遠に失われてしまっている。その事実に、今までずっと蓋をしていた郷愁の念を、耀子は嫌でも感じることになってしまうのだった。