二重らせん
2週間ぶりの更新です。アイデアをもらえたので、ようやくこのネタについて書くことができました。
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「論文発表お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
ある日の夜、耀子は芳麿が論文の発表を無事に終えたことを手料理で祝っていた。普段はとにかく「手間」をかけたがらない耀子であったが、この日は有給休暇を切って朝からせっせと準備した豪勢な料理を一人で作り上げている。
「これでノーベル賞も夢じゃないですね。なんせ、DNAが二重らせん構造をとっていることを証明したんですもの」
芳麿はもともと鳥類の雑種が生殖能力を持っていたり持っていなかったりすることに興味を持ち、そこから鳥類の染色体の研究を進めていた。これを聞いた耀子は染色体を構成しているDNAの構造決定をしてみてはどうかとそそのかし、ノーベル賞の横取りを狙ったのである。
「まー、そうなの、かな……? なんにせよ、無事に論文にまでもっていけてよかったよ。生体組織からDNAを抽出して、抽出したDNAを結晶化させて、それを帝国人繊からの寄付金で導入したX線回折装置に通して、測定結果を矛盾なく解釈して……化学と物理と数学の勉強をしなければいけなかったから、本当に大変だったんだ」
論文発表に至るまでの工程をダイジェストで説明した芳麿は、これまでの苦労を思い出して深い深いため息をついた。
「そんな大変な研究をされてたんですね……ですが、そのDNAという物質が二重らせん構造であることがわかると、何が嬉しいのでしょうか」
話を聞いていた耀之が芳麿に質問する。響子と馨子は同じ食卓にいるものの、「お父様すごいなあ」以外の感想がないようだ。
「それを説明するにはだいぶ遡らなければいけないな……まず、生き物の形質は、細胞内のどこに記録されているか、知っているかな?」
「核……の中に入っている染色体だったと思います」
「そうだね。まず、この染色体がさらにヒストンというタンパク質と、DNAという高分子──でいいんだよね? 耀子さん──からなる構造物であることがわかった。そうなると、生き物の形質が記録されているのは、ヒストンかDNAのどちらかになる。ここまでは良いね?」
染色体はヒストンに巻き付いたDNAをさらに折りたたんだ構造をしている。どちらもこの年代までに発見はされていたが、どのような働きをしているのか、どんな構造をしているのかがわかっていなかった。
「はい。それで、お父様はDNAの方に生き物の形質が記録されていると睨んで、研究を進めてきたんですね」
「まあ、ヒストンはタンパク質の塊だけど、DNAは長い紐状の分子だから、何かを記録するなら、こっちだろうなと思ったんだよ……で、これが二重らせん構造をしている事が分かると何がいいのかというと……まだわからないんだなこれが」
「わからないのにすごい発見なんですか……」
てっきりわかっているものだと思っていた耀之は呆気にとられてしまう。
「DNAが二重らせん構造をしていることが、細胞にとってどのようにうれしいのかがよくわかってないんだよね。例えば、DNAから形質の記録……遺伝情報を細胞がどのように読みだしているのかも明らかになっていないから、今後の研究で二重らせん構造だと都合がいい理由がわかるようになると思うよ」
「それに、現時点でもある程度二重らせん構造だと嬉しいところがわかっているんだよね。DNAは長いひも状の物質ってお父様が言ってたと思うけど、その紐……ポリヌクレオチドに側鎖として4種類の塩基──アデニン、チミン、グアニン、シトシン──がぶら下がっているのがわかっているの。こういった塩基が外側に露出していると、勝手に反応したり、変な物質と水素結合したりする可能性があるよね。そこで、もう1本のDNAと側鎖の塩基同士で水素結合することで、先述したリスクを低減できそうじゃない?」
「えーと、あとで紙に書いて教えてほしいです。アデニンもチミンもグアニンもシトシンもポリヌクレオチドも、知らない物質なので……」
オタク特有の早口で説明する母親に対し、耀之は至極まっとうな抗議の声を上げた。水素結合が絡むことを聞いて、瞬時に「構造式を教えてもらわないと理解できない」と悟るあたり、耀之も只者ではないのだが。
「あーたしかに……」
「ところでお父様、もしノーベル賞をとれたとして、お母様も一緒にスウェーデンに行くんですか?」
言外に「飛行機に乗るんですよね?」と響子が質問する。彼女の頭の中は常に飛行機でいっぱいなのだ。
「そうねえ。行った方がいい気がするけど、陸軍情報部と調整が必要かな……」
「スウェーデンなら大丈夫かな……? でも、世界情勢は結構まずい状態だしなあ……」
娘の質問に対して両親は渋い顔をする。
「あれ、清と中国の内戦やイタリアとエチオピアの戦争はもう解決しましたよね?」
「あれでイタリアが我が国へのヘイトをためてるのは問題なんだけど、それよりまずいのはロシアが赤化して、フランスも来年の総選挙で共産党が勝ちそうなことなのよ……」
「赤化?」
「共産党?」
史実と違い、最近まで共産主義というものが広く知られていなかったため、子供たちは首を傾げた。
「簡単に言うと、財産を個人でもつことを禁じて、それらをすべて共同体、例えば国とか、道府県とか、市町村とかによる共同所有にしようとする思想のこと」
「大抵の場合、ここに特権階級の否定も入ってきて、単なる金持ちだけじゃなく、僕らのような華族、武彦伯父さんや天皇陛下のような皇族を、良くて追放、悪いと処刑しようとしてくるんだ。何も悪いことなんかしてないのにね」
「えー……」
「それはまずいよ……」
「怖い……」
理不尽に自分たちを殺そうとしてくる人々と聞いて、耀之は呆れ、響子と馨子は怯える。
「あくまでロシアとフランスの話だからね。日本ではそういう人が悪さをしないように、陸軍情報部の人たちがいつも頑張ってくれてるから、そこまで怯えなくていいよ」
「死んじゃった鷹司煕通がその辺頑張ってくれてね……お母さんも何度か知らぬ間に助けてもらってたことがあったみたい」
「そうなんだ……」
「でも、なんでそんな危ない考えの人たちが、ロシアとフランスでは増えたんですか?」
両親が子供たちを落ち着かせると、耀之がどうして共産主義思想が広まったのかを質問した。
「どれも国民が貧乏になったからねえ。貧すれば鈍すってことわざの通り、暮らしに困ってる国民は現状を打破しようと過激な思想に染まりやすいのよ」
「フランスは世界恐慌で景気が悪いのに財政を緊縮させて状況を悪化させたし、ロシアは恐慌以前にロシア戦争で世界を敵に回して国内が荒廃していたから、余計状況は悪いよね」
ちなみに、だいぶ昔から没落していたスペインも政情は不安定で、国王が史実通り追放された上にファシストとコミュニストが骨肉の争いを繰り広げている。今はファシストが政権を握っているが、隣国のフランスが赤化しそうな関係で、次の総選挙では再び共産主義者が政権を奪取する可能性もあった。
「それにしても、帝国時代に共産主義者はみんな土の下に埋められたと思ってたけど、トロツキーが普通に生き延びてたのは予想外だったわ。あいつなら政権取れるのも納得」
レーニンやスターリンといったボリシェビキの面々がこの世から退場する中、運よくフランスに亡命していたトロツキーは生き残ることに成功している。彼が史実でスターリン批判に向けていたエネルギーをヨーロッパ各国の共産主義者育成に費やしたことで、フランスは世界恐慌の発生後急速に赤化してしまった。
「国民が貧乏と言えば、アメリカももしかしてその、赤化? しそうなんですか?」
「そういえばアメリカはそういう話聞かないね……多分政府中枢には浸透してると思うんだけどなんでだろ。いつも自由を連呼してる国民性と合わないのかしら」
アメリカもいまだに長引く不況から抜け出せないでいたが、共産主義勢力はなかなか浸透できていない。これは当時禁酒法によって隆盛を極めていたマフィアが、共産主義者と思想的に相性が悪いうえに、酒や薬物の密輸ルートと工作員の密航ルートがかぶっているため縄張り争いをしていることが原因であった。
「まあそんなわけで、戦争をしてなくても世界が平和じゃないってことが普通にあるの。それが今だから、私たちみたいな要人が外国に行くときは、陸軍情報部と調整して向こうでも警護してもらわないといけないの。窮屈な世の中よね」
「まあ、本当にどうしようもなくなったら、僕が耀子さんを守るからさ」
耀子がそう言ってため息をつくと、芳麿が微笑みながら甘い言葉を吐く。
「要人が要人を警護してちゃおしまいだよ。もっと用心して頂戴な」
「たまには格好だけでもつけさせてくれないかな」
「もう……」
口では呆れつつも、妻は夫に熱っぽい目線を向ける。いたたまれなくなった子供たちは、小さく「ごちそうさまでした」を唱えた後、静かに食卓の皿を片付け始めた。
結局ロシアが赤化し、フランスもその後を追いそうです。スペインは政情不安定で、イタリアはファシ化。アメリカも反社が蔓延り、なかなか暗い世界情勢になっていそうです。話に出てきませんでしたが、たぶん中国も共産党が勢力を伸ばしているんじゃないかと思います。
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