照りつける太陽
どうしても書いておく必要がある話なのですが、地の文が多くて完成度が低いので、本日2度目の更新です。
日本が着々と「次の戦争」の準備を進めていく一方で、欧米列強もただ手をこまねいてみていたわけではなかった。
まず日露戦争で終始いいように翻弄されたロシアでは、日本軍の新戦術「浸透強襲」を解明すべく、陸軍上層部は日夜議論を重ねた。場合によっては、当時の状況を再現する演習すらも実施した。
「まさか日本人がここまで巧妙な戦術を考案し、実施できるとは……」
ロシア陸軍上層部が浸透戦術の概要を理解した時、史実で最初に浸透戦術を実施したアレクセイ・ブルシーロフ将軍はこう呻いたという。
しかし理解することと実施することは別問題であった。江戸時代から国民に最低限の教育が施され、識字率の高かった日本とは異なり、国民の権利が制限され、大部分はロクな教育も受けられないロシアでは「高度な判断のできる分隊長」の養成が遅々として進まなかったのである。陸軍自体の規模が日本と比べて非常に大きいのも、今回に限ってはデメリットでしかなかった。日本海海戦が生起せず、バルチック艦隊が戦わずに帰ってきたことで、海軍の勢力が史実より減退せず、陸軍と予算を取り合っていたのも痛い。
国内の状況も史実より悪く、フィンランドやポーランドは独立寸前の状況まで治安が悪化している。もはや後がないロシアであったが「アジアの二流国に大敗した」という経験は保守的で腐敗した勢力が幅を利かせやすいロシアといえど有効に作用し、兵士から下士官までの教育制度に大規模な改革が行われることとなった。
自身が浸透戦術を行えるようにする研究の傍ら、浸透戦術に対する対策も考えられていた。まず最初に考えられたのは、奉天包囲戦でグリッペンベルクの取った「戦闘正面をできる限り小さくして火力密度を上げ、浸透突破する余地をなくす」というものである。しかし、ロシアの国土を考えると、どうしても戦線が長大にならざるを得ないことから、いかに巨大な陸軍組織を持つロシアと言えど厳しいものがあった。
「これでは第2第3の沙河会戦が行われるぞ!」
有効な対策を考えることができない自分たちに苛立ったリネウィッチ大将が怒鳴る。彼もまた、日露戦争でクロパトキンの下で軍を率いて戦い、日本軍に散々な目にあわされた一人である。もっとも、彼自身は敢闘精神に欠け、消極的な指揮を行ったクロパトキンが悪いと考えており、自分は最善を尽くしたと思い込んでいた。
そのとき、ブルシーロフの頭に名案が思い浮かぶ。
「逆に考えるんだ……突破されちゃってもいいさって考えるんだ」
「何を言っているんだブルシーロフ君」
クロパトキンが訊ねる。彼もまた、日本軍の攻勢を体験した一人として、この戦術研究会に呼ばれていたが、戦場での作戦指揮よりも書類仕事のほうが得意ということもあり、議論に加わるというよりも組織運営の面で役に立っていた。研究会が「日本軍は画期的な戦術を使ってきており、当時のロシア軍ではなすすべがなかった」という結論を出してくれれば、自身の汚名も少しは雪がれるだろうという思惑もある。
「敵の攻撃を素直に受けようとするから、浸透突破されて前線が孤立し、降伏するんだ。だったら、もう初撃を受けきることはあきらめて、後ろへ後ろへと逃げてしまえばいい」
「それでは敗走しているのと同じではないか!」
馬鹿にしているのかとリネウィッチがキレた。それにブルシーロフは冷静に反論する。
「いえ、歩兵は所詮歩兵。戦場全体で見れば、その移動速度は亀の歩みにも等しいだろう。であれば、突破を歩兵に頼る以上、そんなに長い距離を前進することはできん。そうしてより奥の防衛線を目指して前進し、息切れしたタイミングを狙って反撃を行えばいいのだ。攻勢が発起された当初に第一線を後退させるのは、この反撃のタイミングまでに戦力を温存しておきたいからにほかならない」
「なるほど。結局はロシア軍の伝統に回帰することが一番の対策というわけだな」
「クロパトキン君の当時の指揮では撤退のタイミングが遅すぎるし、防御陣地の奥行──縦深が無さすぎてただの敗走になっているが、考え方としては正しい。今までは戦略レベルで行ってきたことを、戦術レベルで行うということだ」
余計なことを言ったせいで出し抜けにクロパトキンが批判されたが、こうしてロシアは浸透戦術の弱点の1つを見抜くことに成功した。この「弾性防御」戦術の発見が、後の戦争で大きな影響をもたらすことになる。
一方、日露に観戦武官を送ったアメリカ、イギリス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ドイツ、フランスといった国々でも、戦訓の分析が行われた。中でも多くの国で熱心に研究されたのが旅順攻囲戦である。西洋人によって建設された近代要塞が、東洋人に独力で攻略されたというのは、あまりにも衝撃的であった。
しかし、その研究結果に各国陸軍上層部は落胆した。旅順要塞が陥落したのは、ほぼすべてロシア軍の自滅であるという結論であったからだ。
旅順要塞は次の3つが原因で陥落している
1.包囲され、制海権を奪われ、陸上からも海上からも完全に孤立していた
2.日本軍のほうが多くの火砲を集結させており、火力で優っていた
3.二〇三高地の奪還に固執し、兵力を枯渇させた
1番は陸軍国であり、首都から遠く離れた満州に軍を送る羽目になったロシアにはある意味仕方がない問題であった。肝心なのは2番と3番で、これはどちらもロシア軍に原因があったのである。
ここまでこの物語を読んでいる読者なら見当はついているだろうが、2番はロシア軍が敗走時に多くの重装備を遺棄し、日本軍に鹵獲されたことが原因である。勿論、児玉源太郎らが開戦前に日本軍が多くの火砲を戦場へ持ち込めるように尽力していたというのもあるが、それ以上にロシア軍が日本軍相手に盛大に負け続け、秩序だった撤退ができなかったことが大きい……と、観戦武官たちは考えていた。一観戦武官からの視点では、ロシア軍がどうして秩序だった撤退ができなかったのか、よくわからなかったのである。
3番も同様である。各国観戦武官は伊地知と同じように「二〇三高地はもはや無価値であったが、ロシア側はこれの奪還に固執し、いたずらに戦力を消耗した」と結論付けた。それ自体は正解であったが、大多数の国ではそこからさらに発展させて「日本軍がいかに苦労して近代陣地の火力を克服したか」をよく理解しようとせず、第一次世界大戦を迎えることとなった。
しかし、日本軍の快進撃には何か裏があると考え、熱心に研究した国がある。同盟国であるイギリスと、黎明期の日本軍に多大な影響を与えたドイツである。
まずイギリスであるが、かの国は日本に対して史実通り33人の観戦武官を送りこんでおり、日本軍の戦闘を様々な角度から分析することができた。そのため、彼らは「機銃陣地は強力であるが、日本軍は新種の衝撃戦術を用いてこれを無効化しているらしい」という発想に至った。その後「瞬間的で苛烈な火力投射」が肝要であるということにはたどり着き、史実より8年早い1907年にストークス迫撃砲を開発している。そして、後に日本軍自身から、ある技術と引き換えに浸透戦術のノウハウを伝授され、真相を理解することができた。
一方ドイツは、日本軍の戦術機動を可能な限り詳細に分析し、再現実験じみた演習も繰り返すことで、ついに1909年ごろ、戦争当事者でないのにもかかわらず、"浸透戦術の4本柱"のうち「突撃歩兵」「瞬間的で苛烈な火力投射」「迂回突破」の3つを見抜くことに成功したのである。正確には「広正面攻勢」も実施していることはわかっていたが、彼らは「広正面攻勢は敵陣地の弱点を詳細に見抜けないことによる苦肉の策であり、事前に弱点を把握して戦力を集中できるのであればその方がよい」と考え、独自のアレンジを加えることにした。同時期のフランスが「機関銃恐れるに足らず」と間違った結論を導き出し、浸透戦術への対処も「火力密度を高めて突破できなくしてしまえばよい」と軽い(そして矛盾した)考えでいたのとは対照的である。
とはいえ、全体的に、日本軍の浸透戦術に対する各国の反応は、そこまで激烈なものではなかった。欧州各国には多数の同盟関係が結ばれ、どこかに手を出せば相互に防衛しあう関係が築かれており、「そんなところで戦争を起こす馬鹿はいない」と思っていたからである。もっとも、それは一歩間違えば瞬く間に戦火が広がるという意味でもあるのだが……




