きっと何者かになれる子供たち
いつの間にか長男が小学校を卒業していたので、進学先を設定しました。
書籍版発売中です。詳しくは活動報告をご覧ください。よろしくお願いします。
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「……あれ、間違いない?」
少し前、(旧制)東京高等学校尋常科の合格発表日、耀子は合格者が張り出されている掲示板の一点を指さした。
「……うん、母様。僕の名前があるのが見えるよ……」
「やったー!」
耀之が感動に打ち震えながら答えると、耀子は叫びながら息子を思いっきり抱きしめた。この時代の日本は高校を卒業すると、原則無試験で大学に進学できるため、とりあえずは受験のことを考えず、好きな学問に集中することができる見込みを得られたのである。
「ちょ、ちょっと母様……」
「おぉ~よしよしよしいぃ~子だねぇ~!」
まるで自分のことのように大喜びする耀子は、大型犬を愛でるように息子を思いっきりなで回した。学者の父と技術者の母から英才教育を受け、尋常小学校ではたびたび首席の座を獲得していた耀之をもってしても、倍率十数倍を誇る名門校の入試を突破することは簡単ではない。
「まあ周りの合格者も大喜びしてるし、いいんじゃないかな。よくやったね、耀之」
一緒に見に来ていた芳麿も、なで回される耀之の肩に手を置いてねぎらった。
「父様もありがとう。僕もうれしいんだけど、なんというか、まだ実感がなくて……」
「こういうのは入学式の前後くらいからにやにやしてくるもんだよ! 今日お祝いしてもよくわかんないだろうから、またあとで合格祝いに何かしようね!」
「うん……僕もそれがいい気がする……」
母親が自分よりはしゃぎまわっているため、その日の耀之は妙に冷静になってしまっていた。
そして時は1934年の年の瀬。冬休みに入った耀之は、高校の寮から実家に帰省している。
「あ、兄ちゃんじゃん。おかえり」
とても軽いノリで長女の響子(11)が耀之にあいさつした。
「ただいま響子。馨子は?」
「上で母さんとピアノの練習。なんだっけ、フィンランドの民謡を弾いてるみたい」
「あーなるほど。馨子も頑張ってるなあ。響子も御国飛行学校が目標なのかな」
「うん。ついさっきちょうど今日の勉強が終わったところ」
教材らしき資料をしまいながら響子が答える。
「よしよし、頑張って武彦おじさんの学校に行くんだぞ」
「そういう兄ちゃんは学校どうなのさ。東京高校はハイカラって聞くけど、本当?」
「そうだね。生徒も先生も自由にのびのびやってるし、尋常小学校と比べてハイカラな人は多いかな」
旧制東京高等学校はイギリスのパブリックスクールに範をとった官立高校だ。比較的自由な校風を持ち、良家の男子が通うことが多かったため、「ジェントルマン高校」と呼ばれたこともあったという。ナンバースクールをはじめとする他の高校が厳格な規律を持ち、バンカラな生徒が多く在籍していたのとは対照的であった。
「なにより、みんな熱心に学問の話をしてるんだよね。小学校の時は有機化学の話をしても、みんな興味なさそうだったんだけどさ。世の中には父さんと母さん以外に、こんなにも頭のいい人がいっぱいいるんだって思ったよ」
「あら、それはちょっとうらやましいかも。私も、学校で飛行機の話はできないからなあ……」
「響子も御国飛行学校に行けばたくさん友達と飛行機の話ができるさ。がんばろう」
試験を経て入学する教育機関には、おのずと似たような性質の生徒が集まる。当たり前の話だが、生徒同士の話が合いやすく、友達もできやすくなるのだ。
「そういえば、東京高校の次はどこ行くの? 大学行ったら、そのあとはやっぱりお母さんの会社?」
「そうだね。やっぱり帝国人繊かな。やっぱり僕は有機化学の道を進むのが性に合ってる感じがするよ」
「ふーん。まあ確かに、兄ちゃんは昔から頭よかったもんなあ」
響子はうらやましそうに耀之に目を向ける。響子も決して勉強ができないわけではないのだが、どうしても第二子であることから耀之ほどみっちり勉強を見てもらえなかったし、この時代の女子であるから、親戚からの期待も耀之ほどではなかった。
「それほどでもないよ」
「謙虚すぎるのもよくないと思う……妬ましい……」
「まあまあ」
わざとらしく妬む響子を耀之がなだめる。
「兄ちゃんは、やっぱりお母さんを意識して、今の進路にしたの?」
「んー、意識してないといえば嘘になるけど……あんまり関係ないかな……」
少し考えこんだ後、耀之はそのような結論を出した。
「あれ、そう?」
「そりゃあ、母さんは本当にすごい人だと思うし、母さんと比較されて褒められるのはうれしいよ。だから、意識してないといえば嘘になるって言った。それが理科を勉強する動機になったのも否定はしないけど……」
「それは決定的ではない……ってコト?」
響子が聞き返すと、耀之がうなづく。
「やっぱり、僕は化学が好きなんだよ。特に炭素と10種類ぐらいの元素をパズルみたいに組み合わせて、いろんな性質を持つ物質が作れる有機化学にとても惹かれるんだ」
「それは、血は争えない……ってコト?」
「たぶん、きっと、maybe……」
少々恥ずかしそうに耀之が言った。
「まあ、私も空にあこがれてパイロットを目指してるんだし、親の影響なんて排除しようとしても無理だよねぇ」
「憧れは容易に本心になるし、本心は自分すらも欺くことがある。僕だって帝国人繊に入ってみたら『面白くない』ってなるかもしれないし、響子もパイロットになってみたらつらい毎日を過ごすことになるかもしれない。正直、それを今から考えても無駄だと思うんだ」
年齢に対して明らかに成熟した精神を持つ耀之が、悟ったかのような、投げやりな意見を言う。
「そーだよねぇ……今から考えても仕方ないか。ありがと」
「響子こそ、僕のことを心配してくれてありがとう。別に華族家の長男としての責務みたいなことはそんなに気負ってないつもりだから大丈夫だよ」
「ばれてたか。ま、お互い親に心配かけないように頑張りましょ」
そういって響子はいたずらっぽく笑った。
「……というわけで、お兄様は別に山階侯爵家の長男だから、みたいな理由で勉強を頑張ってるわけじゃないみたい」
響子がヒアリングの結果を耀子に報告する。実は、耀之が過剰な期待を背負っていないか不安に思ったため、耀子が響子に対して、耀之が変に気負っていないか探るよう頼んだのだ。
「そうなの。それならまあ安心かな。正直、今の帝国人繊は、誰かへの憧れだけで務まる会社じゃないから」
「お父様より遅く帰ってくるお母様をみると、やっぱりどうしても何かやりたいことがある人じゃない限り、嫌になって辞めちゃうだろうなって思ってるよ」
子供たちが成長し、女中も居ることから、耀子は深夜まで遠慮なく残業することが増えてきている。響子はひそかにそれを心配しているのだ。
「まあねー。でもそういう夢を抱いている人を優先して取ってるし、福利厚生も充実してるから、離職率は低いの」
世間では帝国人繊の社員は高給取りだと思われているが、実はそんなに基本給は高くない。それでも人気の就職先である理由は福利厚生にあり、ちょっとしたことでも補助や手当がつくほか、残業代もきっちり支給され、有給休暇も文句ひとつ言われず取得できるなど、令和基準にできる限り近づけた労働環境が提供されるからだ。
「そりゃそうだろうけど……あんま無理しないでね、お母様……うわっ」
「あぁ~かわいい~……最高~……」
自身を心配する娘の様子が琴線に触れたのか、耀子は情緒が限界に達して響子を抱きしめ、頬ずりを始める。
「はあ……」
世間の人たちがこの母の姿を見たらどう思うだろうかと、響子は抱きしめられながら死んだ魚のような目でため息をついた。
子煩悩なのも血筋なんでしょうね
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