背に腹は代えられるか
「だから!突撃銃を全歩兵に行き渡らせることが帝国陸軍を最強たらしめる方策なのだといっているだろう!」
「そんなろくに補給も追いつかない張子の虎に何の価値がある!突撃銃の弾薬消費量はわが国には許容できない!」
二人の陸軍士官が、突撃銃の採用の是非をめぐって言い争っている。突撃銃を採用すべしと叫ぶのは近衛歩兵第一連隊長 高島友武大佐、突撃銃は採用できないと叫ぶのは近衛歩兵第二連隊長 河村正彦大佐であった。事のきっかけは1908年中ごろにさかのぼる。南部麒次郎砲兵中佐は、2年以上の歳月をかけて苦心の末に突撃銃の設計を完了した。
試製突撃銃
口径:6.5 mm
銃身長:520 mm
使用弾薬:三八式実包
装弾数:25発
作動方式:ガス圧利用
全長:1045 mm
重量:4.5kg
発射速度:450発/分
とくに耀子が何か口出ししたわけではないが、基本スペックは史実のフェドロフM1916に類似している。しかし、ホットプレス成形したGFRP板材を多用するため、その見た目はむしろAK-47のように武骨であったし、機関部も三八式機関銃をベースにしたためショートリコイルではなくガス圧利用式になっているなど、それなりに相違点があった。
「この銃は……戦争を変えるぞ」
後世では南部のこの銃に対する自信の深さを表す言葉としてよく引用されているが、当時を知る者は
「弾薬消費量が激しく従来の歩兵銃よりはるかに高価なことに対する皮肉だろう」
「GFRPがあったとはいえ、銃の軽量化と構造の簡略化に相当苦労したことから、そう思わないとやってられなかったんじゃないか」
といった身もふたもないコメントが寄せられている。
何はともあれ完成した試製突撃銃は、大迫の古巣である近衛歩兵第一連隊でテストされることとなった。最初は故障も多く、南部たちは対応に追われたが、やがて不具合の洗い出しも済み、熟成が進んでくると、試製突撃銃の絶大な火力は兵士たちを魅了していき、よその部隊との演習などにも、本来の三八式歩兵銃ではなく、試製突撃銃を持っていく兵士が増えていった。
「貴様らの持っている銃、三八式じゃないな。新装備か?」
「突撃銃って言うんだ」
「三八式よりチョイと重いぐらいだが、機関銃と同じように連射できるんだぜ」
「まじかよすげえな」
突撃銃のテストを任された近衛歩兵第一連隊の兵士たちには、同じ陸軍兵士に突撃銃について聞かれたとき、概要なら話してもよいとされていた。今までの小銃とは根本的に異なるため、今のうちから少しずつ触れさせておき、いざ正式配備されたときの拒絶反応をできる限り少なくしようとしたのである。
そう、例えば、今怒鳴りあいをしている河村のようなことがないように。
「そのために四四式輸送車があるんじゃないのか!」
「今の日本にあれの数をそろえる力がどこにあるというのだ!」
河村は日露戦争時第二軍兵站部高級副官を務めていた。その時に前線からくる大量の物資要求と、とうの昔にパンクした補給線に悩まされており、それが半ばトラウマになっているのである。
高島も高島で話をややこしくしていた。彼は試製突撃銃の性能に惚れこみ、「突撃歩兵だけでなく、全将兵に突撃銃を装備させるべきだ」と主張し始めたのである。
一度は議論がエスカレートするあまり「突撃銃を装備する近衛歩兵第一連隊と、三八式歩兵銃を装備する近衛歩兵第二連隊で演習を行う」事態まで発展し、その結果、どちらの主張も正しいことが証明されてしまった。
確かに近衛歩兵第一連隊は、近衛歩兵第二連隊に圧勝した。浸透戦術による攻勢中という想定状況では、突撃銃の圧倒的火力の前に、三八式歩兵銃を装備する近衛歩兵第二連隊はなすすべがなかった。だが同時に、近衛歩兵第一連隊の演習終了時の弾薬消費量は、近衛歩兵第二連隊の数倍に上ったのである。
試製突撃銃はその後も改良を続け、1913年に「二年式突撃銃」として正式採用されることになるが、結局装備するのは突撃歩兵のみとし、部隊配備も輜重部隊の自動車化が済んだ師団から、ということになったのである。
というわけでフェドロフM1916のようなものを作ると思った方、正解でございます。