加藤セチの帰還
今回、今まで全く登場していないのに、主人公と気楽に話す人が大量に出てきます。
全員「本来ならだいぶ前に帝国人繊に入社し得る人なのに、調査不足で名前が出せなかった人」です。
つまり作者の構成ミスです。
もし続刊したら、その時に高確率でエピソードが追加されるでしょう。
今話はそういう前提であることをお含みおきください。
書籍版発売中です。詳しくは活動報告をご覧ください。よろしくお願いします。
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今朝は材料開発部で仕事をしている耀子。何か楽しみなものがあるのか落ち着かない様子である。
「セチさんの復帰、楽しみですね」
そわそわしている耀子に鈴木岩蔵が声をかけた。
「そりゃあもう、彼女の大学卒業は、私以外にも少しずつ女性が活躍し始めてる証拠ですからね」
耀子は嬉しそうに答える。そんなことを話していると、話題の人が4年ぶりに出社してきた。
「おはようございます」
「おはようございます。おかえりなさいセチさん」
耀子は席を立って加藤セチを出迎える。周りの従業員たちも、手を止めてセチの周りに集まってきた。
「お出迎えありがとうございます。4年も持ち場を空けてしまってすみませんでした」
「いやいや、むしろ学士になって戻ってきたことを誇ってよ。なんせ私も10年以上前に同じことしたんだからさ」
そう言って耀子が周囲を笑わせる。そのころにこの会社にいたのは岩蔵と、この場に居ない秦と久村くらいなのだが、とても有名な話なのでだれもが知っていることだった。
「……ありがとうございます。積もる話もございますが、ここで話してたら仕事が終わらなさそうですので、また昼休みにでも」
「そうですね。はい、みんな解散! 続きは食堂でご飯でも食べながら!」
たしかにセチの言うとおりであるため、その場はお開きにして、またあとで話を聞くことになった。
昼休み、セチの周りには、耀子と材料開発部の女性たちが集まって昼食をとっている。みな、セチの大学での思い出話に興味津々だ。
「帝国人繊では皆さん研究一筋で、男性従業員と話してても何の噂にもならなかったんですが、東北大では男子学生と話してると、あいつと不倫してるって、陰で言われてしまって……」
「あらまあ。私の時はそんなことなかったけどねえ……」
「失礼かもしれませんが、鷹司公爵家の御令嬢相手に、俗な噂を流す度胸がある人、誰もいないと思うんですよね」
よからぬ噂を流されたというセチの話に耀子が違和感を覚えていると、最近育休から復帰したばかりの和田水が、セチと耀子の身分の差を指摘した。
「まあそれもそうか……なんかごめんね、セチさん」
「いえいえ、耀子さんには何の関係もない話ですし、これからも気軽に大学進学を進めてください。あの程度のことで研究の道をあきらめる人は、所詮その程度の人でしょうから」
「まあそうなんだけど、それはそれ、これはこれなのよね……」
ただでさえ、曲芸じみたことをしないと女性が研究の道に入れない時代である。そのような時代の中で帝国人繊を志望する女学生はセチのように覚悟をキメていたり、耀子の熱烈なファンだったりするのだが、そうでなくても気楽に大学に行けるようになってほしいというのが耀子の願いなのだ。
前世のように、大学工学部の女性比率が1%程度しかない悲惨な状況を、自分が死ぬまでには何とかしたいのである。
「ところでセチさん、差し支えなければ、セチさんの経歴について教えていただいてもよろしいですか? 今後の参考にしたいので……」
セチが大学で学んでいるときに入社した岡嶋正枝は、これまでのキャリアを話してほしいとセチにお願いする。
「確かにそうですね」
「部分部分は聞かせていただいたことがありますけど、最初から体系だって話していただいたことはなかったような……」
染野藤子と外村シヅが同調した。史実のこの二人はセチとともに理化学研究所の研究員をしていたが、この世界線では女子高等師範学校卒業後に耀子のカリスマや従業員の待遇に惹かれて帝国人繊に入社している。
「そうですねえ……とりあえず、ここのみんなは耀子さん以外『高等師範学校学費立替入社』で入って来てますよね? 私も同じ口です。自分が教えるより何かを学ぶ方が好きでしたし、福利厚生がすごくよかったので」
「性別を問わず優秀な人に来てほしいから、大学に行けるエリートだけじゃなくて、学費が払えなくても通える師範学校からも社員を募集したかったの。ただ、師範学校を卒業してすぐ教職以外の仕事に就くと、国が負担した学費を請求されちゃう。だから、弊社でその学費を肩代わりしてさっさと入社してもらえるようにしたのよね」
この「高等師範学校学費立替入社」は、学力以外の理由で大学に行くことが困難な国民が大勢いるこの時代だからこそ必要になった採用ルートである。高等教育用の人材を育成する高等師範学校では、それ相応の高度な教育が施されるため、十分優秀な新入社員を獲得できるのだ。
「入社当時も思ったんですけど、そんなことして文部省から憾まれませんか?」
「憾まれてるとは思うけど、うちだってバックには日本銀行がついてるからね。私自身も公爵令嬢で侯爵夫人だし、表立って抗議されたことはないよ」
もちろん、本来は教員になるべき人材を引き抜くので、一般企業では官公庁からの憾みを買いかねない。国の資本が入っている帝国人繊だからこそできる採用活動である。
「先生方も、私が教員の道ではなく研究者の道を進むことを応援してくれましたし、少なくとも東京女高師はそんなに問題視してなかった感じがします」
「そうなんだ。私の時は嫌味言われたりしたけど、そこが東京女高師と奈良女高師の違いなのかなあ」
東京女子高等師範学校出身の水が自分の体験を語ると、奈良女子高等師範学校出身のシヅが興味深そうに感想を述べた。
「それでまあ、話を戻すと……そのまま3年くらい働いて、個人的に『もういいかな』って思ったから、同郷の『おとうちゃま』と結婚することにしたのね」
「得三郎さんですよね。関東大震災後に活躍した建築屋さんだとか」
「たしか東京工業大学を出られたんですよね? すごいなあ」
「よく知ってますねえ皆さん」
夫の得三郎についてやけに部下たちが知っているので、セチは疑問符を浮かべる。
「そりゃあセチさん、いつもおとうちゃまの話ばかりしてるじゃないですか」
「結婚後すぐに子供ができたのも納得だなって感想しかありません」
「たまにはのろけを聞かされる側の気持ちも推し量ってみてくださいね」
急に恥ずかしくなってきたセチは咳払いをしてごまかすと、話を続けることにした。
「……で、翌年には仁一が生まれて育児休業に入ったんだけど、その間にまた妊娠して、今度はコウがうまれて……気づけば3年以上職場から離れてましたと」
「私は一瞬職場復帰したけど、またすぐ妊娠して産休に入ったからなあ。授かれるうちに授かっておきたいものだし、この辺はしょうがないよね」
申し訳なさそうにセチが語ると、耀子は理解を示した。
「そしてようやく1925年に職場復帰して、また3年くらい分析関係のお仕事をしていました。ただ、働いているうちに、自分の力量が足りていないんじゃないかと思い始めたんですよね」
「最初は岩蔵君のところへ行ったんだけど、『女性特有の事情が絡んでいるから、耀子さんに相談したほうがいい』ってなって、私のところまで話を持ってきたのよね」
普通の企業では、一般従業員のキャリア相談を社長がすることはない。良く言えばコンパクトにまとまっており、悪く言えば単なる人手不足な帝国人繊材料開発部をよく表しているエピソードである。
「そうです。自分はまだ実験助手みたいな仕事をしかできないのに、ちょっと年上くらいの岩蔵さんはもう材料関係の研究開発全体を差配するようになりつつあって、本当にこれでいいのかと思うようになった、みたいなことを言ったと思います」
「だから『それなら大学でもっと高度な教育を受けましょう』って話にしました。岩蔵君は泣く子も黙るマサチューセッツ工科大学出身だからね。セチさんも東北大あたりに行けば、一皮むけるんじゃないかと」
「そんなことがあったんですか……」
そんな思いつめた様子は見られなかったのか、藤子とシヅは意外そうな顔をしていた。
「で、1年くらい仕事をつづけながら受験勉強をして、1930年から昨日まで、休職して東北大学に通っていた、というのが、私の経歴ってところですかね」
「改めて整理するとなかなか波乱万丈ですね……」
「なるほど……すごく参考になりました。女性の研究者は世界でも少ないので、お手本になりそうな方がなかなかいなくて……」
和田と岡嶋は興味深く話を聞けた様子である。一方耀子は「私を参考にしてもいいのよ?」と言おうとしたが、嫌味だと思われる可能性に気づき、黙るために口を真一文字に結んでいた。
「まあ、あんまりうまくやれてる自信はないですけど、参考になったのならうれしいです。これで私という前例ができましたから、皆さんも大学に行きたくなったらぜひ申請を出してみてください。耀子さんも喜んで通してくれるはず……ですよね?」
「アッハイ。そりゃあもう、大卒が増えることは大歓迎ですよ。大学に行っている間の待遇とか、まだまだ不十分な所もあるでしょうけど、機会を見計らって打ち上げてくれればうれしいです」
若干不意をつかれた感じはあったものの、耀子がいい感じに場を閉めて解散となった。このように、帝国人繊には希少な女性研究者が集まる環境となり、彼女たちを支援するための社内規定もまた整備されていくこととなる。
参考文献(覚えているもの)
理化学研究所百年史 第I編 歴史と精神 第2部 それぞれの100年 第5章 女性科学者の100年 https://www.riken.jp/medialibrary/riken/pr/publications/anniv/riken100/part1/riken100-1-2-5.pdf
前田候子 加藤セチ博士の研究と生涯──スペクトルの物理科学的解明を目指して── http://www.igs.ocha.ac.jp/igs/IGS_publication/journal/7/6.pdf
サイエンスチャンネル 女性科学者のパイオニアたち (3)‘紅花にかけた生涯’和田水 https://scienceportal.jst.go.jp/gateway/sciencechannel/r047224003/
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