碧色の弾丸
ペニシリンの話、主人公が医療系じゃないことを考えると、これが精いっぱいかなって気がします。
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時は大分遡って1929年7月、耀子が一枚の論文を持って三共商店を訪れていた。
「アオカビがブドウ球菌を殺す何かを産生している、ねえ……」
耀子が持参したのは、アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見したときの論文である。まだ発見しただけで単離もされておらず、医学会からも注目されていない状態だ。
「もしこの何かが人体にとって安全な物質なら、感染症の治療薬として有効かもしれません。東大医学部や伝染病研究所を巻き込んで研究しましょう。この論文の著者に連絡して支援するのもいいと思います」
「ふーむ、まあ、耀子さんがそこまで言うならば……」
三共は帝国人繊の出資者であり、これまでにさんざん稼がせてもらっている。ロシア戦争の真っ只中で医薬品部門と三共内燃機が好調だったのもあり、社長の塩原又策は耀子の意見を採用することにした。
「先生、三共から頂いた論文の通り、アオカビのコロニーの周りでは細菌が繁殖しません。これはもしかするかもしれませんよ」
北里柴三郎は伝染病研究所の研究員からそのような報告を受ける。
鷹司熙通が耀子・信輔と協力して1901年に脚気感染症説を否定した際、東大の青山胤通らは尚も自説を押し通そうとした為、当時皇太子だった大正天皇に叱責されて失脚していた。このため、東大による伝染病研究所の乗っ取り騒動は発生しておらず、脚気騒動で毀損された北里の名誉も回復されている。彼自身はノーベル賞を取れなかったが、鈴木梅太郎はビタミンB1関係の功績で無事にノーベル賞医学賞を受賞し、北里も溜飲を下げている。
「コンタミが起きたシャーレの経過を観察するとは……フレミングとやらはよくこんなことをやる気になったもんだ」
実際にはフレミング自身も意図的にコンタミを起こしたわけではなかったのだが、そんな情報はどうでもいいので論文からは省かれていた。
「よし、アオカビが産生している物質……仮に碧素と呼ぶが、これを抽出して単離しよう。三共商店にもこの方針を伝えておく」
「わかりました」
北里がこの判断を下したことで、三共商店も本腰を入れて研究を支援していく。この結果、1931年にはアオカビの抽出液によって特定の感染症が治療できる所までは判明した。
「この研究は有望だ。完成すれば絶対に多くの命が救われ、相応の金になる」
「だがロシア戦争が終結し、医薬品も自動車も売上が落ちている。投入できる資金は多くないぞ」
三共商店はペニシリンをなんとかして商品化したかったが、ロシア戦争が終わって売上が落ち着いてしまったため、勝負どころで十分なリソースを投入できなくなってしまう。
「……三共内燃機を帝国人繊に買ってもらおう。帝国人繊の下請け工場のような状態になっているから、向こうに引き取ってもらったほうが良いはずだ」
塩原はそのように決断し、帝国人繊へ話を持っていった。
「わかりました。言い値で買いますので、何としてでもペニシリンを実用化してください」
帝国人繊から資金を得た三共商店は研究を続け、1933年までにアオカビの抽出液からペニシリン系化合物のみを単離することに成功する。また、この間に東大医学部がペニシリンの収量を増やす方法を、伝染病研究所がペニシリン産生量の多いアオカビをそれぞれ発見し、1934年には三共商店からベンジルペニシリン「碧素」が実用化された。
「それでは、くろがね重工業と、皆様の今後のご活躍を祈りまして、乾杯!」
「乾杯!」
一方、帝国人繊に買収された三共内燃機は、帝国人繊車両技術部及び発動機開発部と統合された後、くろがね重工業と名を変える。
「いやー三共内燃機との統合業務も無事に終わって本当に良かったです」
「これで設計から製造まで一貫した車作りができる。仕事もやりやすくなるだろうな」
宴会場では、鈴木俊三と蒔田鉄司がお互いを労っていた。
「発動機技術部もくろがねに来るのは意外でしたね。帝国人繊に残るものとばかり」
別の席で飲んでいる豊川順彌と辻啓信を見ながら俊三が言う。
「あれも樹脂材料はほとんど使わないからな。それに、帝国人繊の飛行機は空技廠の発動機を積む場合があるが、自動車は全部自社製の発動機しか積まないだろ? 自動車部門と一緒の方が、動きやすい場合が多いと踏んだんだろうさ」
帝国人繊の航空機事業の強みは、「素材から製品まで一貫して開発できること」にある。材料開発部が航空技術部及び生産技術部と緊密に連携し、妥協の少ない機体づくりで世界有数の航空機メーカーに成長していったのだ。一方、自動車やエンジンは構成部品の大半が金属製のため、その発展は耀子をはじめとする個人の知識とセンスによるところが大きい。
「なるほどたしかに。おかげで会社の名前で結構揉めましたが、些細なことでしょう」
「向こうの言い分も別におかしくないしな。『我々の発動機は陸だけでなく、空や海でも使われている。なのになぜ陸だけをとりあげるのか』ってね」
当初、合併後の会社名は陸王自動車工業になる予定であった。これは、三共内燃機側に慶応義塾大学の卒業生がおり、母校の応援歌「若き血」の一節をとって社名を「陸王」としたいという意見が上がったからである。
ところが、前述のとおり帝国人繊発動機開発部の方から異議申し立てがあった。らちが明かないと判断した耀子は、軍艦行進曲の一節から名前をとったことにして「くろがね重工業」で社名論争を強引に決着させたのである。「くろがね」がひらがな表記である通り、史実で存在した「東急くろがね工業」を意識しているのは言うまでもない。
「のっけからそういうもめ事があったことを踏まえると、三共内燃機側にも帝国人繊側にも顔が利く道雄さんが社長になったのは、当然のことだったかもしれないな」
生産畑の人間として長年歩んできた道雄は、帝国人繊で設計した自動車を実際に生産する他者との調整にもよく出席していた。当然、三共内燃機との接点も多く、帝国人繊側から社長を出すとすれば、彼しか納得されなかっただろう。
「帝国人繊の役員の出身部署を考えても、明らかに義父が適任でしたしね。他はみんな材料の人で、自動車がわかりそうなのは耀子さんぐらいでしたし」
また、帝国人繊の他の役員──久村清太と秦逸三はともに材料開発部の出身で、自動車やエンジンはさほど得意ではない。
「まさか耀子さんが社長を兼任するわけにもいかないしな。今の采配が最良だろう。ってことは、将来は俊三が社長になるのか?」
「いやーさすがに蒔田さんの方が先じゃないですかね」
「社長になるのは否定しないんだな」
「あはは……」
とはいえ、帝国人繊時代から抜群の功績を収めてきたこの二人である。大分あとの話にはなるだろうが、社長に就任するのも不自然なことではなかった。
三共内燃機は帝国人繊の一部と統合されてくろがね重工業になりました。実は、販売の部分はまだ鈴木商店が握っていたりします。
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