雛鳥は糸をつむぐ
2021/9/25:読み返していてあまりにも見苦しかったので全面的に書きなおしました。あわせて第1話も改稿しておりますので、そちらもぜひお読みください。
齢4歳の公爵令嬢鷹司耀子は、ぶっつけ本番で行った66ナイロンの合成実験が、無事にうまくいったことに安堵していた。
「よかったぁ~、ここを失敗してたら、多分日露戦争への介入はできなかったと思うんだよねぇ~」
のんびりとナイロンを巻き取りながら、耀子はそんなことを口にする。
「このくらいすれば、お父様も私の妄言?誇大妄想?まあ実はどっちでもないんだけど、そういったものをもっと聞いてくれるようになるはず。このころの東大の先生が誰だか知らないけど、きっと仰天するだろうなあ。それは水と石炭と空気から作られ、鉄よりも強く、蜘蛛の糸より細い、だっけ?」
さすがに史実の売り文句は誇大広告であるが、66ナイロンの優れている点はその物性である。アミド結合の生み出す強い分子間相互作用と、直線的な分子形状がもたらすパッキングの良さが結晶性の高さにつながり、樹脂としては高い耐熱性、強度、気密性を誇っていた。
「繊維として有用なのも今の日本には都合がいいよね。このころの日本は生糸を使った軽工業が主力だから、他の樹脂製品を作るよりはまだノウハウや器材が流用しやすいもの」
細い繊維は触り心地こそいいものの、すぐに損傷してしまう。ナイロンの引張強度は絹の5割増し前後もあるため、特に細い糸が使いたいストッキングなどにナイロンがよくつかわれるのは、繊維を細くしても切れにくいからだ。
「何より、界面重合法で合成できるのが強すぎる。反応条件が激しい連鎖重合とかが必要な樹脂だったらこんなに早く発明できなかったもんね。自分でやっといてなんだけどチートだわこんなの」
まあ、66ナイロンにもそれなりに弱点があり、水を吸って性能が下がりやすいとか、塩類に弱いとか、反り変形が大きいとかがあって、万能無敵の材料というわけではない。とはいえ、彼女はそのあたりもよくわかっている。なんせ、今よりはるか100年以上未来の前世において、散々職場で触ってきていたのだから。
「しかしまあ、令和で樹脂屋をやってた私が、どうして明治の公爵令嬢になっちゃったのかね……」
耀子はガラス棒を回しながら、科学では説明がつかない超常現象にため息をついた。
昨日と違う今日。
今日と違う明日。
仕事は繰り返し寿命を刻み、
それでも懸命に働いた。
だが、彼の心身はそれに耐えることができなかった──。
(……やっぱり、催眠術にかかったわけでも、幻覚を見ているわけでもない……俺の身に起こったことをありのまま述べるなら、『死んだと思ったら公爵令嬢になっていた』と言う他無いよね……)
東京府麻布本村町、鷹司邸。公爵家の邸宅にふさわしい大きな家の一室で、一人の幼女──鷹司耀子は、頭がどうにかなりそうなのを必死にこらえながら、自分の身が置かれた状況を整理していた。
(とりあえず状況を再確認すると、今日は明治三二年、つまり一八九九年の一月一五日。俺……いや私は昨日二歳になったばかりの幼女で、四男二女の末娘。お父さんの煕通さんは陸軍士官で歩兵科なのに馬が大好き。お母さんの順子さんは、まあこの時代としては普通の女の人、四人のお兄ちゃんの内、一番上の信輔くんは私に鳥の図鑑を見せながら色々話してくれる良い子、ってところかなあ……)
この世界に転生し、物心がついてから一年。色々と制限のある幼い子供の身で自身の置かれた状況を調べた耀子は、今生における自分の家族をそう評した。
(自分が育つ環境としては、最上の家庭を引くことができて本当に良かった。お父さんはこの歳でペラペラしゃべっても気味悪がるどころか大喜びしてくれるし、信輔お兄ちゃんは賢くて優しいし。でもこんなにお金持ってそうで公爵なのに、鷹司家って聞いたことないなあ。藤原系のお公家さんだっていうのはわかったけど……)
彼女の産まれた鷹司公爵家は藤原氏に連なる五摂家の内の一家、つまり由緒正しい家柄である。これが近衛家のような教科書でも名前を見かける家だったら、ゴリゴリの理系である耀子の気分ももう少し盛り上がったのだろうが、高校時代に日本史Bを選択した程度の彼女では特に感慨はなかった。
「まあ、名前を見た覚えがないってことは、どこかでやらかして没落するわけでもないだろうし、二次大戦までは不自由ない暮らしを送れるんだろうね」
そう気楽に構えて椅子の背もたれに寄り掛かった直後、耀子は自身の発したつぶやきに引っかかりを覚える。
「二次大戦まで、か……」
第二次世界大戦。耀子にとってそれは、日本が今までの失策のツケを払わされ、連合国に蹂躙され、前世での夢を非常に狭き門にされた、忌まわしい戦争である。
(大本をたどると、あれのせいで私は本命の会社に入れなくて、酷使された結果過労死したと言えなくもないんだよね……なんかそう考えると腹が立ってきたな……あれだけ頑張って勉強して院も出たのに、航空機メーカーにも材料メーカーにも入れなかったんだもの)
GHQによって日本が航空機の研究開発を禁止された年代は、よりにもよってレシプロ機からジェット機へと発展していった時期であり、タイミングとしては最悪であった。これにより日本の航空産業は現代においても立ち直れていないほどの壊滅的打撃を受け、彼はそのあおりを喰らったというわけである。
「……歴史を、変えよう。せっかく自分でも見惚れるくらいかわいらしいお嬢様に生まれたんだもの。日本をアメリカすら圧倒する技術立国にして、充実した美少女ライフを満喫するんだ」
そう気合を入れた耀子は、天井を見つめて考えを巡らせた。自分の能力、家の力、日本の国力……手持ちになり得る駒をすべて駆使して、現状の問題点を解決し、この国の状況を史実より好転させる勝算があるか検討する。
「……とは言ってみたものの……ちょっとうまくやれるか自信がないな。千に一つか万に一つか、へたするとそれより分の悪い賭けになる気がする。それでも……」
気分の乗ってきた耀子は椅子から飛び降りると、勢いよく虚空を指して誓った。
「例え勝機が那由他の彼方だとしても、未来を知る私に、座して死を待つような真似は許されないのだから」
「……耀子、何やってるの?」
「うえ!?」
まさか誰かに見られているとは思っていなかった耀子は、驚きのあまり弾むように声のした方へ振り返る。
「信煕お兄ちゃん……? うん、その……なんでもない……」
見た目は二歳と言えど中身は三十路。中二病を目撃されるのは、やはり恥ずかしいのだった。
「あー、なんか余計なことまで思い出しちゃった……」
しばし感慨に浸っていた耀子は、自分の奇行を二番目の兄である信煕に見られたことまで思い出してしまい赤面する。羞恥を振り払うように首を振って気を取り直すと、自分に言い聞かせるように独り言ちた。
「……令和の便利で娯楽に満ちた生活は惜しいけど、今の転生チートでやりたい放題な明治も悪くはない。せっかくこの時代に生まれ落ちたんだ。救われず掬われるような、史実のような日本にはさせないよ」
決意を新たに、転生公爵令嬢は糸を巻き上げる。ガラス瓶から延々と吐き出され続けるナイロンは、もうしばらく途切れそうにない。
後日、耀子は煕通に呼び出され、改めて前世の記憶とはどのようなものなのかを尋ねられていた。
「……以上が、私の前世において、この国が歩んだ歴史でございます」
明治、大正、昭和……もうすでに始まってる激動の時代を、自分の世界線の日本はどのようにかじ取りし、道を誤ったかをひとしきり語り終わった耀子は、今生の父親に対して恭しく一礼する。
「……なあんて、この時の流れでも全く同じように行くとは限りませんけどね」
彼女自身も知らないことであるが、鷹司耀子という存在そのものがもうすでに史実から外れている。例え彼女が何もしなくても、前世と全く同じ歴史を歩むとは限らなかったろう。
「いや、耀子の話してくれたことは十分あり得る話だ。確かに我が国は近い将来間違いなくロシアと衝突するし、それを打ち破るための技術力も生産力もない。無理に無理を重ねてそれをごまかすために帝国主義に走り、先行している欧米列強から不興を買うというのも納得のいく筋書きだ」
「……信じて、いただけるのですか」
そうなってほしいと思っていた展開ではあるのだが、まさか本当に自分の主張が通るとは思わず、耀子はぽかんと口を開けた。
「耀子が真実を語っているかは私にはわからない。でも、耀子が大人顔負けの思考力をもって、説得力のある論理を展開していること、本気で御国のことを心配していることはわかった」
「私、そんな有能な人間ではありませんけど……」
気恥ずかしそうに耀子が目をそらすと、煕通はその頭にそっと手を乗せる。
「その歳でそれだけものを考えられるというだけでも素晴らしいことだよ。……今日はもう疲れたろう。この国をこの先どうしていきたいかは、また今度聞かせてもらおうか」
「はぁい……」
頭をなでられて気が緩んだのか、あくびをするようになった耀子は、おとなしく自分の部屋に戻っていった。うまくいきすぎている気がしなくもないが、「陸軍士官」である「公爵」を味方につけることには成功したようである。