いのちをだいじに
久々に化学の話をちょっとします
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「先ほどの議論で話題に上がりましたので、このまま防弾衣の話をしましょう。早速ですが山階さん、防弾衣を標準装備に加えることについて、意見はありますか?」
「方針としては賛同するところですが、懸念がいくつかあります」
菅に意見を求められた耀子が発言を始める。
「すべての懸念は結局『予算は足りるのか』に収束するのですが……防弾衣は意外と金食い虫です。生命保険みたいなものですね」
「生命保険……言い得て妙ですね。いざというときに助かるものの、普段は役に立たず、むしろ家計を圧迫するという」
「はい。防弾衣はパラ系アラミド繊維という、大変高価な糸を使って作られます。そのくせ、一度弾を受けたら交換する必要がありますし、5年程で経年劣化して性能が保証できなくなります。我々日本人の大好きな『初期投資は大きいものの、長く使えて結果的には安く済む』みたいなものではありません」
まだ明治のころにも帝国人繊はアラミド繊維を開発しているが、こちらはメタ系のアラミド繊維である。パラ系アラミド繊維とは分子構造が異なり、破断伸びと耐熱性で勝っているものの、強度では劣っている代物だ。それでも、拳銃弾を受け止めて、要人の暗殺を阻止するには十分な強度があるので、絹や木綿の物よりはるかに高性能な防弾チョッキを売り出し、一儲けしている。
「5年で交換するという話は我々も初期検討の際に聞いております。この寿命をもっと伸ばすことはできないのでしょうか」
そこを抑えていない菅ではないので、寿命を延ばす方法がないかを耀子に聞いた。
「出来たらやってますね……アラミド繊維に並外れた強度をもたらす要因の1つは、芳香環を含む剛直な化学構造にあります。ああやって炭素原子が単結合と二重結合を繰り返して繋がっていると、日光を吸収して励起され、酸素と反応しやすくなってしまうのです」
単結合と二重結合の繰り返しの事を共役系と呼ぶ。原子同士が頑丈に結びつきやすく、物理的には強靱で剛直な構造になるのだが、共役系の長さに応じた波長の光を吸収し、化学反応を起こしやすくなる。構造材料が意図せず起こす化学反応とは、すなわち劣化である。
「もう少しわかりやすく説明しますと、高い防弾性を持たせるための物理的には頑丈な化学構造が、そのまま日光に弱い構造にもなってしまっていて、寿命を延ばすのはどうにも難しい、ということでございます」
岩蔵が専門的過ぎる耀子の回答を分かりやすくかみ砕くと、耀子は一瞬だけ岩蔵に微笑む。このあたりの阿吽の呼吸は、長年一緒に働いてきたからこそできるものだ。
「そうですか……」
「鋭意研究中ですが、やれるだけやって、ようやく5年は保証できる、というくらいなんです。御了承願います」
岩蔵がそういうと、耀子と二人で頭を下げる。
「とはいえ、ロシア戦争で熟練兵を損耗したことが、少し前まで部隊の訓練に影響していたことも事実。彼らを死なせないためにも、せめて工兵全員にはいきわたらせたいですね」
工兵、特に敵前で破壊工作を行う戦闘工兵の任務は、「爆弾三勇士」に代表されるように非常に危険で過酷なものだ。噂によると、彼らの戦場における寿命は1~2週間であるとも言われている。
「高価と言っても昔と違ってびっくりするほど高い代物じゃございません。まずは工兵全員に支給することを目指しましょう。それから、徒歩の歩兵にも対象を広げていきたいですね」
「ところで、設計側としては要求仕様も気になります。どれほどの防弾性を持たせればよろしいでしょうか」
頭を上げた二人が菅に向かって話す。
「榴弾の破片を防げれば、死傷者の半分を助けることができます。ですので、現行の市販品と同等の性能があれば十分なのですが、小銃弾も防げるようになると、残り4割も助けられてありがたいですね」
「榴弾の破片は拳銃弾が受け止められれば十分耐えられるのですが、小銃弾ですか……」
菅の解答を聞いた岩蔵は、どうしたものかと思案を始めた。
「まず、断片防御程度の防弾衣であれば、今年中には納入できると思います。ですが小銃弾に耐えられて、歩兵が走り回れる重量となると結構お時間とお金を頂くことになりそうです」
「……私は正直厳しいと考えているのですが、山階さんは何かやりようがあると考えているのですか?」
目を閉じたまま岩蔵が質問すると、耀子も険しい顔をしつつ答える。
「そうね。私も同意見だけど……やってやれないわけじゃないと思ってる。ターボ用に開発してたセラミックがあるでしょ? あれでどうにかなるんじゃないかな」
耀子はターボチャージャーのタービンに適用するため、SiC系セラミックスの開発を日本陶器に委託している。まだタービンのような複雑形状を作るまでには至っていないが、単純な板であれば作れそうだ。
「成程、小銃弾まで防御範囲を広げる場合、性能は何とかなるめどがつきそうだが、価格が大幅に上がるということですか?」
「はい。その理解で結構です。この手の物はできる限りたくさんの人に支給すべきですから、とりあえずは断片防御にとどめておいて、小銃弾に対応できる防弾衣は研究開発にとどめていくのが良いかと」
「安く大量に作れる製品は、後々量産効果が効いてきて、さらに安く調達できるようになります。私からも、とりあえずは断片防御にとどめておくことをお勧めします」
「わかりました。それでは、防弾衣については断片防御レベルの物を、まずは工兵を最優先としてできる限り多くの歩兵に届ける、という方針で行かせていただきます」
「そういえば、ヘルメットにも防弾性を持たせるんですよね。こちらもやはり、断片防御でよろしいですか?」
現在の日本軍のヘルメットは、帝国人繊が明治時代に開発した四四式安全帽がずっと使われている。その実態は帝国人繊の現場用GFRP製ヘルメットであり、とにかく軽量だが断片防御すら考慮されていない。
「そうですね。そちらも御社でやれるといいのですが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「念のため、どなたか協力してくださる軍医を紹介いただけると助かります。重すぎるものを作って、首を痛めたらまずいですから」
気を回した岩蔵がフォローを入れた。史実の九八式鉄帽を開発する時も、軍医学校が重量について意見を述べている。
「なるほど確かに。それでは軍医学校にも協力を要請しましょう」
「実は弊社の産業医、退役した軍医だったりするので、その辺のつてはないわけではないのですが……そちらからもお願いしてもらえるとよりありがたいですね」
「え、そうだったんですか?」
「まだ私が小さいころ、陸軍の脚気対策に手を出したことがあってね。それ以来、うちは退役軍医を産業医として雇うことにしてるのよ」
そういいつつ、親兄弟の作ってくれた陸軍との深いつながりに感謝する耀子であった。
今回の話を聞いて、勘のいい人はあるものを作るための素材が揃ったことに気づくかも?
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