鳳は空を望む
1909年の暮れのこと。耀子は兄信輔の飼っている小鳥たちを眺めていた。畳一畳ほどの底面積の水槽の上に高さ90cmほどの木枠が作られ、これに金網を張ったケージの中でジュウシマツ、文鳥、キンカチョウ、ベニスズメ、キンパラなど色とりどりの小鳥たちが好き放題さえずっている。
「かわいいなあ……」
兄には負けるが、耀子も鳥が好きだった(そして父ほどではないが、馬も嫌いではなかった)。この家にはこうした愛玩動物がよく飼われていたため、研究や勉強に行き詰ったときに癒されに来ている。
さて、鳥は鳥であるからして、当然この狭いケージの中でもごく短距離を飛ぶものである。それを眺めているとき、ふと、耀子はあることを思い出し、今晩父と二人きりになってそれについて聞き出そうと思い立った。
「航空偵察研究会がどうなったか?すまない、あれは長岡君に任せてそれっきりになってるんだ。自分たちで飛行機を作って飛ばし始めたといううわさは聞いているが」
航空偵察研究会──史実での臨時軍用気球研究会──は、日露戦争後の1906年、浸透戦術による攻勢を発起するにあたって、気球による戦場上空からの偵察が敵陣地の弱点を把握するのに役立ったという戦訓から陸海軍合同で設立された日本最初の航空機研究機関である。会長には史実通り長岡外史少将が就任し
「もう二度と二宮君の時のような失敗は繰り返さない」と張り切っていた。長岡には日清戦争中──ライト兄弟が初飛行に成功する前──に、二宮忠八から提案された「飛行機の研究開発」を却下してしまった苦い経験があり、航空偵察研究会会長就任にあたって二宮に長文の詫び状を出している。
「それ、私……いや、帝国人造繊維も1枚かめませんか?」
「いったい何をする気なんだ?」
「とりあえず、今開発中の突撃銃で使ってもらっているFRPの売り込みってことで1つ……」
(ほかにもなにか企んでるんだろうな、この娘は……)
「本日はお忙しい中お時間を割いていただきありがとうございます。帝国人造繊維株式会社特別顧問兼開発本部長の鷹司耀子と申します。どうぞよろしくお願いします」
翌年。耀子はいつの間にかついた長ったらしい肩書を引っ提げて、菊池恭三生産本部長──大日本紡績聯合会会長をしていたが、帝国人造繊維設立時に引き抜かれた──とともに航空偵察研究会を訪れていた。
「今回は次世代の航空材料として弊社の考案したGFRPのご提案をさせていただきます」
耀子は事前に用意した説明用のわら半紙の前に立つ。これから、帝国人造繊維と日本航空産業のさらなる飛躍をかけて、陸海軍の変わり者たちを相手にGFRPを売り込むのである。プレゼン自体は幾度となくやってきたが、ここまでの重責を担うことは前世でも今生でもなく、耀子は緊張のあまり震えていた。
「GFRPとはGlass Fiber Reinforced Plasticsの略称でして、樹脂材料……えーと、セルロイドとか、ポリアミドとか、最近だとベークライトなどの総称なんですが、それらによってガラスの布を固めたものがGFRPでございます」
今日、FRPにおいてもっとも一般的なマトリックス(強化繊維を固めている樹脂)はエポキシ樹脂であるが、この年代にはまだ発明されていない。耀子的にも早く開発したい樹脂の1つであるが、原料であるエピクロロヒドリンの合成が難しく、後回しにしている。
「このGFRPの画期的なところは比重あたりの機械特性が極めて優秀であることです。現在航空機では鋼管のフレームに布を張った鋼管羽布張り構造が主流つまり鋼材でできているわけですが、これに対してGFRPはざっくりいうと同等の曲げ強さを誇ります。しかし、比重は1/4もありません」
会場がどよめく。GFRPはまだ陸軍の一部にしか開示していない機密材である。絶対的性能ではCFRPより劣るが、それでも同一重量の鉄やアルミよりははるかに強靭であった。手ごたえを感じた耀子はさらに畳みかける。
「あの柔らかい樹脂と割れやすいガラスを組み合わせると強靭な材料になるなんて信じられない!まあ実際のところ、その直感は半分ぐらいあたっておりまして、弾性率は鋼板の12%ぐらいでございます。しかしながら、一部の方はご存じの通り、板材の曲げ剛性は板厚の3乗に比例いたしますから、GFRPの板は鋼板の4倍の板厚にして曲げ剛性を64倍に高めてもなお鋼板より軽いというわけです」
以後、耀子は流れるように実物を取り出して会場内に回したり、物性試験をどのように行ったかを流暢に解説したりと、会場の熱に浮かされながらプレゼンを進めていった。日光にさらし続けると劣化するなどの注意点を述べることも忘れない。
(トンビが鷹を生むとよく言うが、なるほど、鷹が鳳を産むこともあるのだな)
長岡は心中でそうつぶやく。
(最初会場に来たとき、帝国人造繊維はまだ女学校に通っている少女を軍の研究会によこすほど人材がいないのかと思ったが、なるほど、これだけよく練られた製品開発ができるのならば頼りにするのも無理はない)
実際のところ今の帝国人造繊維はひたすら増えるナイロンの需要に対応するため、営業本部と生産本部の拡大に注力しており、開発本部は耀子を含めて数人しかいないため長岡の第一印象は的を射ているのであるが、幸いにもこの場でそのことを知っているのは耀子と菊池だけであった。
(それにあの目。自分のアイデアを語る日野と同じ目をしている。あいつは試作品をいじるのに夢中になって上官などの出迎えを平気で忘れるやつだが、その情熱は本物だ。あの娘もきっと、あのように目を輝かせて、ポリアミドやGFRPとやらの開発に取り組んだのだろう)
日野熊蔵歩兵大尉は陸軍屈指のアイデアマンとして知られ、自分で拳銃を開発し、特許を取るなどの功績があった。史実通り出来上がった日野式自動拳銃には多くの安全上の欠陥があり、その出来栄えはお世辞にも褒められたものではなかったが、搭載された数々の独創的な機構が彼の才気を如実に表しているといえる。この世界では"輸送車"の開発に辣腕をふるっており、そろそろ正式採用が決まりそうだという情報が長岡の元に届いていた。
「それでは質疑応答に移ります。ご質問のある方はいらっしゃいますか?」
一通りの発表が終わり、耀子が質問を促す。彼女は一斉に手が上がるのに困惑しながら、菊池と一緒に1つ1つ質問を捌いていった。そして、長岡が手を挙げる。
「今すぐGFRPを使って飛行機を作れと言ったら、作れるかね?」
「今すぐは苦しい……ですよね、菊池さん」
「そうですな。マトリックスのPA66には懸命に設備投資を行っており、最近ようやくストッキングの需要を満たせるようになったばかりでして、他の製品に材料を回すことはまだまだ難しい状態です。ガラス繊維も現状では旭硝子殿にガラスワインダーを貸し出して作ってもらっている状態ですので、生産設備の増強はまさにこれからというところでございます」
「それに、先ほどご説明した通り、GFRPは鉄鋼とは得意な荷重のかかり方が異なります。すでにそちらでは飛行機を自作して飛ばしているとのことですが、これの設計を単純に流用し、材料を置換するだけでは、劇的な軽量化効果は得られないと考えます」
長岡の質問に対し、帝国人造繊維勢は素直に内情を白状した。とりあえず今回はGFRPに夢を見てもらって、実用化はこれから一緒にやればいい。そう考えていたからだ。ところが、それを聞いた長岡からの返答は、そのさらに上を行くものであった。
「さすがに酷だったな、条件を変えよう。1年間猶予を与える。その間にGFRPの量産体制を整え、それを使用する飛行機の基礎設計を完了できるか?こちらからは横田先生を設計支援によこすし、試作機が飛べたら設備投資にかかった費用も出そう。エンジンとプロペラも支給する」
「1年……」
耀子はあっけにとられる。航空機開発に際して1年という期間はあまりにも短かった。完成ではなく試作すればいいという点はまだ良心的だが、帝国人造繊維には航空機どころか、乗り物自体の開発経験がない。
耀子が返事に困っていると菊池が返答する。
「なるほど……長岡閣下はよほどこのGFRPをお気に召したと見える。良いでしょう、この菊池、身命を賭してGFRPの量産体制を整えて見せます」
「え、菊池さん、いけるの?」
耀子は困惑しながら訊ねた。
「できるかなじゃありません。やるんですよ。ですから鷹司さん、機体の方、お願いしますね」
菊池恭三さんは史実だと様々な繊維メーカー(有名どころだと東洋紡)の社長や工場長を歴任しているのですが、この世界では帝国人造繊維の生産をつかさどる大事な役目を担ってもらいます。
というわけで長岡さんと菊池さんに無茶振りされた耀子さん。一見専門外の分野に放り込まれたように見えますが、実は……