鷹の翼風生に暫く
史実で伊藤博文が満州に渡ったのは、ロシアと「満州と韓国の問題」を話し合うためであった。しかし、この世界では満州の権益がアメリカにわたっていたため会談も日米露で行われることになり、このことで会場が東側にずれ、日本で行われたのである。こうなってしまっては伊藤と安重根が出会えるわけもなく、伊藤は1909年を生き延びることができた。
そもそも、韓国の処遇に関しては史実よりも併合反対派が相当強くなっている。山縣有朋、寺内正毅らは史実通り大陸への進出を狙って韓国の併合を主張していたが、大谷や伊地知などの日露戦争での功労者や、侍従武官や東宮武官といった皇室に近い陸軍将校らは
「韓国を併合し開発する金があったら、それを本土の開発に充てて前線の兵士に腹いっぱいの飯と使い切れないほどの弾薬を渡せるようにするべきだ」
とそろって(実感の籠った)反対を表明。天皇も彼らの主張を支持しており、いかに元老と言えど手を出すことは難しかった。
これをみた桂太郎とその支持者たちは態度を決めかねていたが、陸軍内の併合反対派から
「韓国の開化よりも地下資源のある樺太の開拓のほうが有益」
「山形で頑張っている帝国人造繊維を起点として東北に産業を誘致したほうが、国力の向上につながる」
といった念入りな説得を受け、政党政治に対する態度をめぐって桂と山縣の間に確執が生まれていたこともあり、少しずつ「韓国は併合せず飼い殺しにする」という方針で行動するようになる。史実では一丸となって韓国併合を推し進めた陸軍がこのありさまであるから、議会と国民はなおさら韓国と積極的にかかわりたいと思わなくなった。こうして韓国はその後も外交権を取り上げられながら、基本的に日本からは内政に何の干渉も受けず、ひたすら何もしない、させてもらえない状態が続くことになる。これはこれで史実通り韓国統監であった伊藤は韓国の恨みを買うことになるのだが、特に向こうを訪れる用事もない以上、何かが起こるというわけでもなかった。
帝国人造繊維の存在もまた、日本の産業に変化をもたらしていた。例えば、日本の窒素固定工業は史実だと1908年に日本カーバイドが化学肥料の生産を始めたのが最初である。しかし、この世界では1905年に先に日本カーバイドが設立され、ここの電力を支えるために、後から曾木電気が創業された。というのも、帝国人造繊維がジアミン類を大量に消費していたからである。
ナイロンの生産に必要なジアミン類は、ドイツBASF社からの輸入に依存しており、帝国人造繊維の利益率を圧迫していた。これに目をつけたジーメンス日本支社の野口遵は
「国内でジアミンを作ってテイジンに売りつければ金になる」
と言って先述の日本カーバイドを設立して独立。ドイツから石灰窒素法を導入してアンモニアを生産し、さらにこれを使って、各種ジアミン類の生産にも乗り出していった。これを見た帝国人造繊維首脳部は、自らの出資者である日本銀行を通じて大蔵省に日本カーバイドへの援助を要請する。
「日本カーバイドのやっている窒素固定工業は、我々の欲しているジアミンはもちろん、化学肥料や火薬生産にもつながる、まさに富国強兵政策にふさわしいものです」
この時期の日本の台所事情は、日露戦争の戦費15億(これでも史実よりは少なくなった)の返済のために火の車と化しており、せっかくロシアに払わせた3億の賠償金もすべて外債の返済につぎ込みたい状態であった。大蔵省との交渉は難航したが、今や日本における外貨の稼ぎ頭となりつつあるテイジンの機嫌を損ねるわけにはいかず、最終的に大蔵省が折れて、日本カーバイドへの国策支援が行われることになる。
(ドイツは黄禍論を唱えていますし、戦争になるリスクもあります。今のうちにいろいろ自給できるようにしておかないと)
日本カーバイドは曾木電気など複数の関連企業と合併して日本窒素"工業"、略称ニッチツとなり、以後、帝国人造繊維と二人三脚で、日本の化学業界を牽引していくことになる。
他にも、編み機の国産化と量産の過程で豊田佐吉の豊田式織機が業績を伸ばしたり、アジピン酸の需要増にともなって増大した売り上げを元手に沖ノ山炭鉱組合が周辺の炭鉱を買収したりしていたが、その影響が歴史に現れるのは、もう少し先の事になる。
まさにとりこし苦労ということで。
伊藤さんが大陸に行く目的をなくしてしまえば、そもそも暗殺犯と出会わないじゃん!というわけでした。耀子さん学業の合間に無茶苦茶頑張ってた(その蓄積があったおかげで秦・久村コンビがすぐにコーネックスを界面重合できる条件を見つけ出せた)のに、別方向で自分がフラグを折っていたとあっては、何とも微妙な気持ちになったことでしょう。
とはいえ、コーネックスにも防弾ベストにも使い道がいっぱいあります。この2つのおかげで救われる人がいっぱいいるので、まあ結果オーライでしょう。




